32 おにーさま、うれしそう
(おっ、あれは……)
朽ちかけたレンガの片隅に転がっているのは、子ども用のボールだ。
あちこちが汚れているのを見ると、きっとアロイスがよく遊んでいる物なのだろう。
「ふふ、アロイス様、私とあのボール遊びで勝負しませんか? まさか、断るなんて言いませんよね? 負けるのが怖いみたいに」
ボールを弄びながら、そう誘いかける。
ただ遊ぶだけではアロイスが乗ってこない可能性も考え、シュゼットはわざと「勝負」という言葉を口にした。
狙い通り、アロイスはムッとした表情で言い返してきた。
「は? 俺がお前みたいな悪女に負けるわけないだろ!」
「ならば勝負です! 私が勝ったら、なんでも一つ私の質問に答えてもらいますからね!」
「なんだそれは!」
「あれ、負けるのが怖いんですか?」
「ぐぬぬ……怖くない! というか負けない! いいぞ、勝負に乗ってやる!」
「わぁ~ふたりともがんばれ~」
立ち上がって睨み合う二人に、コレットはマフィンを頬張りながらのんきに声援を送っている。
シュゼットはボールを拾い上げると、にっこりと笑いかける。
「それなら……『球蹴り』で勝負しましょう。ルールは簡単。お互い交互に足でボールを浮かせるように蹴って、先に落とした方が負けです」
アロイスはシュゼットの爪先から頭のてっぺんまでを眺めると、勝ち誇ったように笑う。
「ふん、本気か? 負けても泣くなよ?」
おそらくアロイスは、散策用のゆったりしたものとはいえ、ドレスを着ているシュゼットに負けるはずがないと踏んでいるのだろう。
(ふん、甘い、甘すぎるわ。私の本気を見せてあげる!)
「それじゃあ……行くわよ!」
まずは小手調べ。
軽くポン、と蹴ると、ボールは放物線を描くようにアロイスの足元へと向かう。
「こんなの余裕だな!」
アロイスは勝利を確信した笑みを浮かべ、力強くボールを宙へ蹴り上げた。
「あらあら」
その元気のよい軌道に、シュゼットはくすりと笑う。
「ほら、俺の勝ちだろ? お前なんかに負けるわけ……え」
余裕綽々といったアロイスの表情が、驚きへと変わっていく。
「よっ……と」
俊敏な動きで後ずさったシュゼットが、軽々と膝でボールを受け止めたからだ。
一度宙に浮かしたボールを、今度はアロイスの方へと蹴り返す。
まさかシュゼットが対応できるとは思っていなかったのだろう。
呆然としていたアロイスは、あっけなくボールを落としてしまった。
「なっ……!?」
「ふふ、私の勝ちですね」
「ず……ずるいぞ! 悪女のくせに!!」
「ずるくないでーす。正々堂々とした勝負でーす。それで……」
にやりと笑い、シュゼットはアロイスへとにじり寄る。
アロイスは緊張した面持ちで、ごくりと唾を飲んだ。
「約束通り、一つ私の質問に答えてもらいますね」
「くっ……仕方ない。約束は約束だからな」
(あら、素直)
ごねられることも予測していたが、アロイスは案外素直にシュゼットの提案を受け入れてくれた。
(やっぱり……わざと反抗的な態度を取っているだけで、根はいい子なのよね……)
ならば、根気よく向かい合えばきっとシュゼットの想いも通じるだろう。
そう願いを込めて、シュゼットは口を開く。
「ねぇアロイス……あなたは、わざと家庭教師や使用人の手を焼かせるような行動を取っているんでしょう?」
そう問いかけると、アロイスは驚いたように目を丸くする。
そして……確かに頷いた。
「あぁ……そうだ」
「それなら――」
「今ので質問は終わりだからな!」
「えっ?」
シュゼットとしてはただの状況確認のつもりだったのだが、確かに言われてみれば質問の形になってしまっていた。
(くっ、私としたことが……!)
これじゃあ、彼の本音を聞きだせないではないか。
だがそんなシュゼットにびしりと指を突きつけ、アロイスは悔しそうに告げた。
「ふん、これで勝ったと思うなよ。絶対にまたリベンジしてやるからな!」
「そ……それで私が勝ったらもう一つ質問していいですか!?」
「……いいぞ。まぁ、次は俺が勝つけどな!」
ぷい、とそっぽを向いてそれだけ言うと、アロイスは「秘密の場所」から走り去ってしまう。
「おにーさま、どこに行くの?」
「修行だ!」
元気よく駆け出したアロイスの後姿を見送り、シュゼットは知らず知らずのうちに口元に笑みを描いていた。
(また、私と遊ぶ気はあるのね)
問答無用で泥団子をぶつけられた初対面の時に比べれば、大きな進歩だ。
……もしかしたら、彼は無意識にシュゼットを試しているのかもしれない。
きちんと向き合ってくれる相手かどうか、本当の想いを打ち明けるべきかどうかを……。
(いいわ、私が真正面から受け止めてあげる)
彼の信頼を得るには、忍耐強く向き合うことが必要なようだ。
「おにーさま、うれしそう」
不意に、マフィンを手にしたコレットがそう呟く。
「えっ、そうですか?」
「うん、前まではいつも怒ってたり、悲しそうだったけど……」
首をかしげるシュゼットの方を振り返り、コレットは嬉しそうに告げた。
「シュゼットと遊んでる時のおにーさま、すごく楽しそうだった!」
その言葉に、シュゼットの胸は熱くなる。
(……大丈夫、私のやっていることは無駄じゃない)
「なら次はコレットと遊びましょうか。コレットは何がしたいの?」
「えっと、えっとね……!」
目を輝かせる少女の姿に、シュゼットはくすりと笑った。