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煌めきはその目に等しく

掲載日:2022/02/27

 その男は既に精神がねじ切れていた。ねじれては切れる、切れては無理くり繋ぎ直すを繰り返した男の精神は歪にゆがみ、もはやメビウスの輪やクラインの壺という有様であった。それは環境にも依っていたが、主に自らの力で精神を歪めたという方が概ね正しい。

 幸か不幸か男はなまじ優秀であった。勉は言うに及ばず弁も立つ。ひとたび男と言い争うことが有れば、その者は完膚無きまでに叩いて潰され、もはや液状までに変形されると言っても正しい。それはつまり、男の周りから人が消えることに他ならない。

 しかし、見下していた級友どもは進学先での生活が充足する。それに反し、男により同じ穴のむじなと見做されることを否定された両親は高校の卒業と同時に男を追い出した。

 進学をせずに住込の仕事に就いては、あいもかわらず同僚や先輩を下と見る。挙げ句の果てにはすぐ辞める。三ヶ月も続けば良い方であった。稼いだ日銭は煙草に消え、その煙草もまた灰と消える。男にとって煙草に火をつけることは、まるで金を燃やしているかのような心持ちであった。

 二十の歳も半ばを過ぎ、放浪した職は数知れない。実家を追い出され、社宅を後にし、アパートを借りるだけの信用も金もない。あるものといえば、もはや虚構で塗り固められた自信と幾ばくかの煙草のみであった。

 公園のベンチで夜を明かすことも少なくない。たむろする不良から理不尽に絡まれながらも、心の内では彼らを底辺と見下すことで、むしろ男は深く安寧を保っていた。


 昨晩は雨にも降られず、絡まれることもなく、久方ぶりの穏やかな夜であった。男は凝り固まった背中と肩を伸ばしながら公園のベンチで目を覚ます。大袈裟な音を立てる関節、仕事に雇われ辛くなってきた現実。それらは男に歳を感じさせるには十分値していた。それでも男の内面は虎であり、今更生き方を世に迎合させるなどを良しとは出来ないでいる。

 時計を持たず、携帯電話も充電がとっくに切れていたため男には時間がわからない。公園で遊ぶ子どもの数から推測するより他になかった。


「一人、か」


 公園には男児とも女児とも見えるよちよち歩きの幼児が一人。母親は向かいのベンチで携帯電話などを弄っている。まだ大分早い時間なのだろうと男は思う。

 子を一人で遊ばせてよそ見をしているなど碌な親ではない、と男はやはり彼女を見下していた。母親の年は男と同じころであろうか。公園で子を遊ばせるだけにも関わらず顔は化粧で塗りたくられており、その表情は読み辛い。人の目を気にする前に子どもから目を離さない方が先決だろう、もはや男は目の前の親子の全てが気に食わなくまでなっていた。

 地面にしゃがみ込みじぃっと足元を見つめる子ども。時折り何かを踏み潰してはその様子を観察する。おそらくは蟻を踏み潰して遊んでいる。蟻の死体を産み出してはその様を観察し、気紛れに指で摘んで太陽に透かして見る。と思えば蝶を追いかける。至るところで手をひらひらと振るのは癖であろうかと男はその子どもを自然と目で追っていた。

 学生の時分よりねじ切れていた男には異性と深い関係になったことはなかった。その子どもの母親が近しい年齢であるのならば、自分も人の親になっている今があったかもしれないという事実に気付いた時、男は込み上げる吐気にもんどりを打ちそうになったがじっと堪えた。

 元来より人を愛さず人に愛されず、愛にはぐれた無法者のような男である。異性、ひいては他人のために無償ともいえる愛を捧げる行為には虫唾すら走るのだった。

 男は苛立ちを抑えられずポケットを弄り煙草を探す。くしゃくしゃのレシート、小銭、裸のマッチ、ポケットティッシュ。煙草のボックスは見当たらない。それもそのはずであり当然だった。仕事も家も決まらない男には、もはや煙草のような嗜好品を買う金などなかったのである。

 ようやく見つけた虎の子の一本はひしゃげていた。くわえ、火をつけようとマッチを手にした時にはたと考える。公園で煙草など吸っていいはずがなかった。顔を上げ、遊ぶ子を無意識に目で探す。しかし目の前の広場にその姿はない。母親は変わらず向かいのベンチだ。そう遠くにはいないだろうと辺りを見回すと、園内を流れる小川に身を乗り出しているその子を見つける。

『危ない』などと注意を呼びかけるなど男の脳裏には一片も浮かぶことはなかった。見ず知らずの人の子が川を落ちようと、男は平然と公園を立ち去れるだけの胆力までも持ち合わせている。とはいえ喫煙者としての立場程度ならば弁えている男は、煙草を口より離す。

 子どもといえば柵に身体を預け足を浮かせている。ともすれば落ちかねない川に落ちかねない状況でも恐怖を覚えない様子はやはり子どもである。ぷらぷらと身体を揺らしながら、川に向けてまた手を振るっている。

 手を振る様子を見ていた男は、癖と思っていたその仕草にある推測をつけた。あれは目の前から立ち去る全てのものに別れを告げているのではないか、と。通勤通学する人々、飛び去る蝶々、潰れた蟻、風に乗る葉、流れる水。全てがその子にとっては新鮮であり煌めいており、そして平等なのではないか、と。

 男の視線に気付いたのか、子どもはよちよちと男の方に向かって歩いてきた。男の目の前で立ち止まり、顔を見上げながら。


「ばいばい」


 と言って手を振った。言って止まる。男も。子どもも。二人とも何を言うでもなく、するでもなく見つめ合うことしかしないでいた。ようやくその様子に気が付いた母親が血相を変えて走り寄る。きいきいと金切声で何かを喋っていたが、男の耳には何一つ入っていくことはなかった。

 男は『ばいばい』と言葉を返すこともできず、手を振り返すこともできず、ただ呆然としながら、母親に抱かれて立ち去る子どもを見つめることしかできないでいた。

 あの子どもにとって手を振るもの全てが対等な存在であるのならば、手を振られた自分もそうなのだろうか。手を振り返すこともできなかった自分の存在とはいかほどのものであろうか。男は俯き、煙草を握りしめる。爪が皮膚に食い込み、少量の出血を見せる。その血は煙草を赤く染めた。

 男の虚て歪な自信はもはや崩れ去った。男自身は生まれ出てより至る今まで出る杭であったが、誰も近付くことをしなかった。その杭は打たれず飛び出し続け、今は抜けて朽ち果てている。もう腐って消え去ることを待つだけであった。男はなんとなく立ち上がり、柄にもなく少しだけ背筋を伸ばし、真っ赤な煙草をくずかごに落とした。

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