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第1章 7 『心の奥のずっと深く』

 入月くんがトイレに行ったきり戻ってこない……


 本当に彼は人の気持ちも知らずに、トイレにばかり行って!

 もう、ライブ開始時間になってしまうじゃないの!


 そう、橘時雨は焦っていた。


 普段、学友たちから『鉄仮面』とか『鋼鉄の女王』と呼ばれるほどに、異彩を放っていた彼女だが、所詮は齢17の女子、鋼鉄と呼ばれるほどに()()までは精錬されてはいなかった。


 人生初のライブに参加するという特別感、憧れの男子と偶然に出会った運命。そして、一緒に話をして、ライブにも一緒に参加するという非日常感。

さらに、初めてのライブ会場での裏切り(放置プレイ)……

 彼女は、まだ本番のライブが始まる前に、既にオーバーヒート寸前であった。

 それに加えて、ライブ開始時刻が間近に迫り、会場内の熱がどんどん高まっていく。

 常に他人と肌を合わせているような窮屈さと、人の汗とその匂いで息苦しい。

 この広くて狭い空間に1人きりという状況は、学校のクラスにいる自分自身と大差がないことに、ふと頭の中で結び付いた。


 結局、私は…… 私という人間は……


 あの時と同じように、また仮面を被ればいい、(自分)(他人)を隔てるように仮面を被ればいい。

 誰も傷付かないし、私も傷付かない。鉄の仮面を被った私こそが()()()()|。


 そう、心の中で決意した瞬間、突然全ての照明が落ち、会場がざわめきに包まれた。


 自分の息を呑む音が聞こえる。

 心臓の鼓動も……


「ついに、始まる……」


 会場全体をレーザービームが走り、フラッシュライトが高速で明滅する。

 ステージ後方の白い壁には【Godly Place】のロゴが大きく映し出され、大音量でイントロが流れ始めた。


 次第に早まるテンポ、呼吸と脈もそれに合わせて早まっていく。


【Godly Place】のライブが……

 始まった!


明かりが戻ると同時に爆発するリズムとサウンドが、広く狭かった空間を駆け抜けて『至福』で満たしていく。

 時雨と 【Godly Place】の間には最早何の妨げも存在しなかった。

 間近に見る5人の姿は、テレビやネットで観ていたものより大きく、迫力があった。その動き一つひとつに、彼らのパワーと息遣いを肌で感じている。

 【Godly Place】を近くに感じる。いや、そんなものじゃない。同じ場所で、同じ空間で今、()()()()()()()()。そんな感覚に時雨は一瞬で支配されてしまった。


 身体の芯が震えるベース音とバスドラムの重低音。

 掻き鳴らすギターの心地良さと、心に響く歌声……

 そのどれもが、彼女の心を掴んで離さない。


 ライブが始まる前、色々なことがあり過ぎて頭の中がパンクしそうだったことが、嘘のようにクリアになって、思考から欠除された。

 時雨は今までの人生で、間違いなく一番の感動と喜びを味わっていると実感していた。


 そして……

 最高の時間は瞬く間に過ぎていった……


「次が最後の曲になります……」

(えッ!? ユウさんが喋った?)


 次が最後という事実よりも、ユウがMCをしているということに、時雨は驚いていた。

 時雨の記憶では、ユウは歌う時以外は殆ど話さない。それはファンの間でも有名な話だったはずだ。


 変ね…… ユウさんの優しい声、何処かで聞き覚えがあるような気がするわ……


「えー…… これから歌う最後の曲は、僕がどうしても演奏したくて、本番の直前にメンバーに無理を言って、急遽演奏させてもらえることになりました」


 わざわざMCで言わなくてもいいことを律儀に話しているユウは、本当に優しい人なのだろうと、時雨は想像した。だからこそ、尚更どうしてあんな変な仮面(マスク)を被っているのか疑問で仕方がない。


 ユウというキャラクターと凶悪な仮面(マスク)とのギャップがあり過ぎて、何とも言えない不思議な気持ちになってしまう。それがいいというファンも少なくないけれど……


 しかし、時雨にとってはユウの素顔が分からないからこそ、()()()()()()父親の面影を重ねられるのかもしれない……


「それでは聴いてください……【限りない蒼の世界】」

「――あっ(私の大好きな曲だ……)」


 ユウさんがどうしてもやりたかった曲というのは、この曲のことだったんだ……


 ミュアの弾く鍵盤が流れるような伴奏を奏でる。ユウがそっと顔を上げマイクに近付く、そっと儚いけれど力強い声で歌い始めた。

 鍵盤と声の旋律がぶつかることなく溶け合い混ざり合う。もともと1つの楽器だったように、自身の肋骨から創造されたイヴとアダムが重なり合うように……


「声って…… 楽器、だったんだ……」


 水の一雫が水面(みなも)に落ち、その波紋が遠く、広く伝わっていくように、時雨自身が蒼い世界の水面に立っていた。


 そして、ユウの歌に、声に、言葉に、心を探られていく……

 心の奥底に深く隠そうとしていた『想い』が、リボンの紐を解くように簡単に開かれてしまった。




……


………



 私は父の弾くギターが好きだった。


 いつも男の子のように走り回っていた私も、父がギターを弾いて歌う時だけは、隣に座り、大人しく聴いていた。

 父の歌声はとても心地良く、優しい歌声だった……


 私の12歳の誕生日を迎える目前の日、母は私に「父は遠いところへ行ってしまって、もう2度と帰って来ない」と話した。

 私を悲しませないようにと、必死に笑顔を作りながらも、時折言葉を詰まらせてしまう母の姿に、幼かった私でも「父は死んでしまったのだ」と直ぐに理解できた。

 私は、母に見つからないように布団に潜り、声を押し殺すようにして泣いた。

 父のギターや歌声だけでなく、父のことが大好きだったのだと、その時初めて気付いた。


 日に日に思い出が色を失っていく。忘れてはいけない大切な思い出なのに、思い出すと苦しいから、心の奥底にしまい込んだ。


 女手(おんなて)ひとつで私を支えてくれている母のため、いい子になろうとずっと努力してきた。

 苦手だった勉強も、運動も人並以上になり、クラスでは毎年学級委員をして、風紀委員では副委員長を任されている。


 先生やクラスのみんなからは、よく思われていないのは知っている。それでも、何より母が喜んでくれる!私にはそれが嬉しい…… 誇らしい…… そのはずなのに! それだけでは、ぽっかり空いた心の隙間は埋まらなかった!


 だって今の私は鉄仮面(偽りの感情)を被った橘時雨。

 私の『喜び』も『怒り』も『哀しみ』も『楽しみ』も、全ての『感情』は父の思い出と一緒に心の奥底にしまってしまったからだ。

 その鍵を開けるつもりはない、開けられない!もし、心の奥底の扉が開いてしまったら、私はもう進めない、立っていられない!


 だって、どんなに頑張っても褒めてくれない! 悪いことをしても怒ってもくれない!心地良いギターの音色も、歌声も、もう何も! 何処にもいない!


ねえ…… お父さん……?


どうしてお父さんは……


「死んじゃったの……?」




……


………



『限りない蒼の世界』は、私の心をさらけ出したまま終わってしまった……


 苦しくて今にも胸が張り裂けそう。


 この曲を聴くと、大切だったお父さんを思い出せるような気がして、好きだったのに、実際の演奏を聴いてしまうと、こんなにも自分の心が荒らされ、暴かれてしまうなんて思いもしなかった。


 もう二度と、この曲は聴けない……

 もう二度と【Godly Place】の曲は聴くことができない……


 時雨がそう思った時だった。


『――僕は此処にいるよ 』

「えっ……?」


 時雨が顔を上げると、照明が落ち、暗くなったステージの上で、ユウがギターを弾きながら、今まで聴いたことのない曲を歌い始めていた。


 確か、ユウさんは『限りない蒼の世界』が最後の曲と言っていたはずなのに……


『――君の心の中、辛いとき悲しいときも』


『――君の名前をずっと呼び続けているよ、ただ1人の愛する人』


『――この広い蒼の世界には、思い悩みも痛みもない』


『――空へと羽ばたいたその翼を、縛るものは何もない』


 初めて聴いたはずの曲なのに、ずっと前から知っていたような懐かしい感じがした。


「お父…… さん……?」


 ユウの姿が、あの日、陽の光が差し込む風通しの良い部屋で、時雨を励ますために歌っている父親の姿と重なって見えた。「――僕は(此処)にいるよ、時雨……」


 時雨は急に肩の荷が降りたような脱力感に包まれ、今まで心の奥底に溜め込んでいたものが、洪水のように溢れるのを感じながら、必死に身体が倒れないようにと気を張った。

 脚に力が入らない、寄り掛かって立っているのがやっとだ。

 いつの間にか、目の前の柵を強く握りしめていたその手に、何か冷たい物が当たった気がして見下ろす。

 その時、初めて自分が泣いていることに気付いた。


「えっ……?」


 泣いているの、私が?

 お父さんが亡くなった日から、1度も泣いたこと…… なかったのに……


 時雨の涙を留めていたものは取り去られた。

 時雨は、今まで閉じ込めていたものを精算するように、ただただ泣き続けた……



 曲が終わっても、誰ひとりとして歓声や拍手をする者はおらず、ただ静寂だけが会場を覆っていた。


 会場には、時雨と同じように目の周りを赤くして泣いている者や、座り込んで泣き崩れている者もいる。普段のライブのそれとは違う異様な光景だった。

 しかし、彼らは皆一様に、何処か清々(すがすが)しく、前を向いていた。


 ガップレのメンバーたちは、それぞれ顔を見合わせた後、全員がステージ前方に横並びになると、一斉に深々と頭を下げた。会場からは小さな拍手が起こり始め、直ぐに忘れていたように大喝采へと成長した。


「ありがとーう!」

「ありがとーッ!」

「ありがとう、ガップレー!」


時雨も、この気持ちをどうしてもガップレに、ユウさんに伝えたくて大きく息を吸い込んだ。


「ガップレ!ありがとーうッ!」


 きっとユウにその声が届いたのだろう。ユウは時雨の方を向いて、またお辞儀をして軽く手を上げた。まるで時雨のことを労うように……


 その後もしばらくの間、拍手と歓声は止まることを知らなかった。

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