第1章 1 『変わらぬ日常』
「いつもの天井だ…」
目が覚めるとそこは見慣れた天井。辺りを見渡しても、特別何かが変わった様子もない。
六畳程の部屋に黒い色で揃えた机と椅子とベッド、それとダンガムのプラモを飾った棚の横に、愛用のエレキギターとアコースティックギターが、ギタースタンドに立てかけられて並んでいる。
エレキギターの方はチェリーサンバーストの色合いが美しいGibsonのレスポールカスタム。
アコギはTylerのセミアコースティックタイプで、木の温もりを感じれる暖かいホワイトの木目が、音の柔らかさにも現れている気さえする。
紛れもなく、ここは『入月勇志』が17年間過ごして来た部屋で間違いなかった。
安心感を感じながら、ゆっくりと状態を起こし、意識を覚醒させていくと、待ってましたとばかりに身体の疲労感が戻ってくる感覚に襲われる。
昨日のことが、まるで夢だったような気さえしていたのに、自分の身体には夢ではない、確かな現実として刻まれていた疲労感。それをを吐き出すように、長い溜息をついた。
「うん、忘れよう……」
誰に言うでもなく自分自身に言い聞かせて、枕と布団を定位置に戻し、二度寝の支度を整え始めた。
夢の中でならアイドルでも、スーパーヒーローにでも何にでもなれるんだ。なら、次の夢はドタバタラブコメディーの主人公になってキャッキャムフフな夢を……
次に見る夢の構成を思い描き、ニヤつきながら目を閉じると、何やら部屋の外から『ドタバタ』と階段を駆け上がる音が聞こえてきた。
「お兄ちゃーん!朝だよー、起きてー!」
「………」
「おーきーてーってば~!」
「………」
ノックもなければ遠慮もない、朝から元気な奴が部屋に入って来て、二度寝をすると決めた勇志のベッドの周りを跳ね回りながら、これでもかと騒ぎ立てる。
可愛らしさと憎たらしさの両面を備えた、実に女の子らしい愛らしい声に、さすが我が妹と思わなくもないのだが、今再び眠りの扉を開こうとする兄にとっては迷惑以外の何者でもなかった。
「せっかくお兄ちゃんがニュースに出てたから教えに来てあげたのに〜」
「えぇ……?」
妹の言葉を受け、一瞬で眠気を散らされてしまう。仕方なくベッドに腰掛けるように身体を起こしながら、現実という目を塞ぎたいほどの事実を突き付けてくる小悪魔をゆっくりと見上げた。
「逃避したいほどの現実を突きつけるために、わざわざ起こしてくれてありがとう」
兄を起こす可愛い妹という、ラブコメのワンシーンのようなことを、「いつもはやらないくせに」という嫌味と、たっぷりの皮肉を込めた「ありがとう」を送りながら睨みを効かせる。
「こーんな可愛い妹に起こしてもらえるなんて、幸せ通り越してハレルヤだよ?お兄ちゃん」
「幸せ通り過ぎた先のスケールがでかいわ!」
朝一番に妹にツッコミを入れてしまう自分もどうなのかと思いながら、まるでモデルさながらにポーズを決める『入月百合華』を見つめる。
ウェーブのかかったグレージュ色のロングヘアを、その日の気分で選ぶシュシュでまとめて、軽く崩したポニーテールが今の流行りとか何とか。
そんな事をしなくても、そんじょそこらの女子中学生には比較する相手にすらならないであろう。
まだ発育途上ながら、母親譲りのスラリとした細身に、バスケ部で鍛えられた程よい筋肉がプラスされ、制服の上から見ても如何にもスポーツ美少女といった感じだ。
おかげで、月に2、3回はラブレターないし、直接告白されるとかいうことが耐えないらしい。兄とは正反対の青春ライフを、今まさに満喫しているらしい、まあ、全て本人談なのだが……
つい数年前までは身体が弱く、入退院を繰り返していた百合華が、中学に上がると、お兄ちゃんがやっていたバスケを私もしてみたいと言い出したと思えば、見る見るうちに元気に逞しくなっていく姿は、兄として目頭を熱くしたことは内緒である。
「ねぇ、お兄ちゃん?そんなに見つめられると、妹の私でもちょっと恥ずかしいんだけど……」
「ち、違うって!ちょっと寝起きで頭が回ってなかっただけだよ!」
まさか本当に見つめていて、愛する妹の想い出を巡らせていたとは、流石の寝起きでも言えないので、適当に誤魔化すように話題を変えることにした。
「それで?さっき言ってたニュースってのはガップレのやつ?」
「そうそう、『単独アリーナ公演を最速で成功させた新星覆面バンドとはッ?』って特集やってる」
「はぁ……」
百合華がマイクを持ったレポーターのようなジェスチャーを入れながら話すのかはさておき、どうしてこう悩みが数珠繋ぎで増えていくのかと頭を抱える。
「あと、もうご飯出来てるから、早く支度して降りてきてねー」
「わかった」と返す間もなく、百合華はまたドタバタと階段を駆け下りていった。
「じゃ、起きるか…」
そう言いながらも、なかなかベッドから立ち上がれないのであった。
…
……
………
なんとか根が生えた尻を引き抜き、数分で身支度を整えてから高校の制服に袖を通す。ふと、男に生まれて良かったなと、このような瞬間に思うことがある。
ヘアーセットや化粧や、身支度にかける時間が女子とは天と地の差があるのだ。現に、百合華は兄よりも1時間以上は早起きをしていた。
百合華は学生のため化粧こそしていないものの、身支度にとんでもない時間を掛けていることは知っていた。何もしなくても充分可愛いのにと思うのは、やはり兄心なのだろうか?
そんな事を考えながら、2階と1階を繋ぐ階段の踊り場の窓から外へと意識を向ける。
雨が多いこの時期に今日のような晴天の日は珍しい。庭の紫陽花の花が、これでもかと日光に晒されて少し気の毒に思えてしまうほどだ。
「やっと来たお兄ちゃん、ほら見て!後番組でも同じようにお兄ちゃんのニュースやってるよ」
階段を降りた先はリビングに直結していて、最大6人が座って食事ができる大きさのダイニングテーブルには、百合華が既に座っていた。
黄色いクマがハチミツを抱えた絵が書かれている、自分専用の大きめのマグカップに入った、熱々のコーヒー牛乳をすすりながら、テレビから目線を移さずに勇志に話しかけた。
「まさか自分のことが朝のニュースになるとは……」
そう言いながら、テレビに背中を向ける形で椅子に座った。
別にテレビを見たくないからとか、辛い現実から目を逸らしたいとか、そう言う意図があるわけでもなく、ダイニングテーブルにつく時のいつもの席が、丁度テレビに背を向ける形になるためだ。
普段からテレビをあまり見ないので、これといって何も思ってなかったのだが、今日は初めてこの席で良かったと思った。
しかし、映像こそは見えないものの、音声や音楽は関係なく情報として入ってくる。『【Godly Place】メジャーデビューから最短での単独アリーナライブ開催!』だとか、昨日のライブ映像がダイジェストで流れているのが画面を見なくても分かってしまい、眉を顰めながら、すでにテーブルに用意されていたトーストにかぶりついた。
【Godly Place】(ガッドリー プレイス)通称、『ガップレ』
メインボーカル兼ピアノの『ミュア』
ベースの『ヨシヤ』
ドラムの『マシュ』
リードギターの『ショウちゃん』
そして、ギターボーカルの『ユウ』
この5人がガップレのメンバーだ。
メジャーデビューから最速で単独アリーナライブを成功させた、今や飛ぶ鳥も落とす勢いの新星バンドである。
どれくらい最速かといえば、昨日が正式にメジャーデビューした日であり、それと同時に単独アリーナライブも昨日だったのだ。
つまり、デビュー0日で単独アリーナライブを開催するという無謀としか考えられないことをしてしまったわけだ。
これはメンバーの意思ではなく、プロデューサー兼マネージャーの大胆かつ繊細な売り込み戦略ということらしいが、チケットが売れなかったらどうするつもりだったのだろうと考えて、本当に完売して良かったと安堵した。
そんなことを考えていると、勇志の視界の端から白いマグカップが現れ、机の端にトンと置かれた。
「勇くんがこんなに有名人になっちゃって、お母さんなんだか鼻が高いわ~」
「ルンルン」という擬音をそのまま当てたような動きをしながら、上機嫌にまたキッチンへと戻っていく母親の姿を目で追いながら、勇志は「ありがとう」と声を掛け、まだ湯気の立ち上るマグカップを持ち上げた。
至る所にフリフリがあしらわれた白いエプロンを見事に着こなしている母と、目の前に座る発育途上の妹を交互に見ながら、「やはり親子は似るものなのだな」と、勇志は自分のことを棚に上げて思考していた。
『入月陽毬』
ウェーブのかかったグレージュの髪は小顔と細身の身体に良く映える。年齢を感じさせない容姿も相まって、まだ20代と言われても頷けるほどだ。
それもそのはず、結婚する前は雑誌のモデルをしていて、しかもそこそこ有名人だったらしい。
最近では勇志が陽毬と2人で買い物へ行くと、高確率でカップルと間違われるほどだった。
思春期真っ只中の男子である勇志は、自分の母親とカップルと間違われるのは良い気がしなかったが、陽毬は息子とカップルに間違えられると、あからさまに上機嫌になり晩御飯のグレードも上がるため、勇志は文句も言えないのであった。
「ねぇ、勇くん!」
「何?母さん」
失礼な事を考えていたと悟られたかのように、キッチンにいる母親から勇志にお声がかかる。
「勇くん、最近また格好良くなったんじゃな~い?ますますパパに似てきたんじゃないかしら?」
「ちょッ!?やめてよ、母さん!」
そういって、勇志は少し赤らめた頬に両手を当てて照れる母親に否定で返した。まさか自分が父親に似てきたなんて絶対に信じたくない。
「お母さん、あんまりお兄ちゃんを褒めたら調子乗るからダメだよー」
「えー、でも本当にお母さんそう思ったんだもーん」
この場にはいない父親の話題に陰りが落ちたのは自分だけのようで、勇志はひっそりと頭の中から父親の存在を追い出すことにした。
国を跨いだ仕事だか何だか知らないが、もう何年も家に帰ってこない奴のことなんか知ったことかと、内心怒りを募らせてはいるが、勇志は家族の中でも、自分だけが父親に対して怒りを抱えていることも、よく分かっていた。
「ところでお兄ちゃん?」
「ん、どした?」
テレビから視線を逸らさずに、話だけを投げかけてくる百合華。
先程から一度としてテレビから視線を逸らさず、今だに『ガップレ』特集で盛り上がる情報番組を無表情で眺めていたのだが、ここで突然兄にずっと疑問に思っていた事を聞いてみることにした。
「どうして歩美さん以外、みんな仮面被ってるの? しかも趣味悪いやつ」
「む……」
趣味が悪いと言う妹の言葉に、喉元まで出かけた反論の言葉をグッと堪えられたのは、勇志がお兄ちゃんだからというわけではなく、自分でも実際に趣味が悪いと思っていたからに他ならなかった。
「まあ、確かに趣味悪いと思うよ?自分でも……」
かの有名なホラー映画で、殺人鬼が被っていたムンクの叫びのような青白い肌の仮面。それをアレンジした特注品らしい。
また、『マシュ』や『ヨシヤ』それに『ショウちゃん』も、それぞれが有名なホラー映画に出てきた仮面を覆面風にアレンジしたものだった。
(未だに鏡に映る自分が怖いなんて言えない……)
願わくばあんな物被りたくないのだが、一般の高校生が素顔なんて出したりしたら自分たちだけでなく、学校や近隣の人達にも迷惑がかかるだろうと、これもまた敏腕プロデューサー兼マネージャーの提案で、素顔を隠すことになったのだ。
勇志自身、気ままな趣味満喫ライフが出来なくなるかもしれないというのは余りにも大き過ぎる代償だったため、二つ返事で了承したのだが、その際に覆面のリクエストを聞かれた際に「何でもいいです」と答えたのが全ての始まりだった。
「あーあ、友達に「うちのお兄ちゃんガップレのユウだぞ」って自慢しようと思ったのにー」
「ごめんな、これも百合華やみんなを守るためなんだ……」
(あれ、今のセリフちょっと格好良くなかった?)と思いながら、勇志は右手に持ったマグカップを口元に近付けた。
「いや、こんなダサい仮面なら、バラしてもいいって言われても恥ずかしくて言えないよ」
「ふぁッ!?」
『急所にあたった、効果は抜群だ!』
『勇志は目の前が真っ暗になった』
というわけで、百合華から『ガップレ』の正体がバレる事はないだろう…… しかし、素直に安堵出来るほど、勇志は大人ではない。
何か口止め料を支払わなければならないだろうかと考えている時だった。タイミングを見計らったかのように玄関の呼び鈴が来客を知らせる。
こんなに朝早くに家に尋ねてくる人物など、勇志には一人しか思い至らなかった。
「百合華ちゃん、歩美ちゃんが来たみたいだから、鍵開けて来てあげて~」
「はーい」
陽毬が勇志ではなく百合華を指名したのは、この時間帯は普段なら勇志がまだ寝ている時間のため、妹を名指ししたのもあるが、勇志がまだ朝食のトーストを頬張っている最中だから、というのもあるのだろう。
しかし、本来ならば勇志が食事中でも、玄関まで行って出迎えてあげるのが道理なのである。
なぜなら、彼女は他でもなく勇志の幼馴染であり、毎朝寝坊する勇志を少中高とほぼ毎日、こうして起こしに来てくださっている方なのだから。
「おはようございます、お母さん」
「おはよう歩美ちゃん。今日はね、珍しく勇くん起きてるのよ~」
「え、もう起きてるんですか?熱でも有るんですか?それとも変なもの食べたとか……」
「俺は至って健康だよ、歩美」
歩美がもちろん本気で勇志の心配をしていたわけではないことは、陽毬の「ウフフ」と言った笑い声からも明らかで、これ以上、話のネタにされまいと、勇志がまだ姿の見えていない歩美に声を掛けた形だ。
「どうせ百合華ちゃんに起こしてもらったんでしょ?」
「そうでーす、可愛い可愛い妹、百合華がお兄ちゃんを起こしてあげましたー」
歩美は勇志に声を掛けたのだが、勇志が答える間もなく、その答えは別の所からもたらされた。
「ごめんね、百合華ちゃん。勇志を起こしてくれてありがとう」
「どういたしまして、でも歩美さんが謝る必要ないですからね、本当ならお兄ちゃんがお礼も謝罪もしないといけないんですから!」
「ぐぬぬ……」
返す言葉が見当たらないとはこの事かと、勇志は苦虫を噛み潰したような顔になった。
「そうね、じゃあ勇志の口から直接お礼の言葉をもらおうかな?」
そう言いながら、歩美は勇志の顔を覗き込みながら、勇志の左側の席に静かに座った。
「い、いつもありがとう、歩美……」
「え!?う、うん……」
歩美は揶揄うつもりで勇志に迫ったのだが、まさか素直に「ありがとう」が出てくるとは予想してなかったようで、少し慌てながら目を逸らしてしまう。
その横顔がほんのり桜色に染まっていくのを彼が気付くはずもなく、すぐに朝食に向き直った。
彼女の名前は『桐島歩美』勇志の幼馴染である。
容姿端麗でスタイル抜群、スラッとしているのに出るとこはしっかり出ているという、異性だけでなく同性までも虜にしてしまいそうなほどの美人だ。
しかし、訳あって学校ではその溢れ出る存在感を隠さなければならず、今日もいつもと同じく、目に掛かるほどの黒い前髪を綺麗に揃えて、目が悪いわけでもないのに顔の半分はあろうかという黒縁のメガネを掛けて顔の輪郭を隠していた。
確かにこれで歩美の素性は隠せているし、本人も完璧な変装と思い込んでいるのだが、残念ながら身体のラインまでは隠せていない。
出るとこが出ているモデル体型は、逆に一部の熱狂的な生徒を生み出していることに、歩美以外は全員が知るところだった。
「歩美ちゃん、良かったら今日、晩御飯食べて行かないかしら?」
タイミングを見計らっていたのか、歩美にとっては絶好の助け舟が陽毬からもたらされる。勇志に突然の不意打ちをもらい火照ってしまった顔を冷やすのには、ちょうどいい話題転換だった。
「いえ、流石にそこまでは……」
「いいのよ~、歩美ちゃんがいてくれた方が食卓が明るくなるし、それに勇くんも嬉しいから!」
歩美は「全然話題変わらなかった!」と心の中で叫ぶに留め、真っ赤になった顔を勇志に見せまいと全身を小さくするように俯いた。
勇志の方はポーカーフェイスこそしていたが、その頬は赤みが掛かっている。
その両者をニヤリと見詰めていた百合華の顔は、背を向けられている陽毬には見えていないようだ。
もう日課になっている『歩美による勇志のお迎え』は、遡れば勇志と歩美が、お互いに小学生の時になる。
初めは勇志も「勘弁してくれ」と断り続けたのだが、歩美の方は「勇志がフラフラしないように誰かが見ておかなきゃ!」とか、「これは私の使命なの!」とか言って聞いてくれず、半ば強引に押し掛けたのが始まりだった。
歩美の家は、勇志の家からすぐ近所にあり、迎えにいく事自体にはほとんど全く苦労していない。それよりも、必ずと言っていいほど毎日二度寝を決め込む人物を起こす方が余程苦労していた。
「そう言えば挨拶がまだだったわね、おはよう勇志」
「おはよう、歩美は今朝のニュースもう見たか?」
「うん、なんか凄いことにになってるわね……」
どうやら歩美もあまり現実味がないのか、自分がアップで映った映像を横目に見ながら、溜息を吐いていた。
今こうして勇志の隣に座っている人物、『桐島歩美』こそ、【Godly Place】のメインボーカル『ミュア』その人なのである。
そう言われても勇志の隣にいる歩美と、テレビの中のミュアは、まるで別人のように見える。
まず髪の色だ。歩美は艶やかな長い黒髪を切り揃え、見た目は地味で本人曰く、目立たないようにしているらしい。
スタイルの面で言えば、残念ながら凄く目立っているのだが、容姿に関しては正面から見ても、10人中10人がまさかガップレのミュアであるとは気付かないだろう。
対してミュアの方は、ライトブラウンの髪がよく見ると緩くふんわり巻かれて、かなり大人っぽい印象だ。
当然メガネなどは掛けておらず、バッチリと決まったメイクが目鼻立ちの良さを際立たせ、もともと小顔のミュアの輪郭をハッキリと見せてくれている。
ステージ衣装も、どれも可愛さより美しさに寄せていて、ほぼドレスのような衣装が多かった。
「けどまあ、流石に歩美がミュアだと見抜ける奴はいないんじゃないか?」
という勇志の意見だが、歩美本人を含めたこの場にいる全員の総意でもあった。
「うん、だけど毎回毎回変装するのも大変なのよねー、みんなと違って顔を出している分、入念にしなきゃいけないし……」
「そうだよな、いつもご苦労様です」
歩美にとって、「歩美でいる時の状態」と、「ミュアでいるときの状態、いったいどちらが変装なのだろうと、勇志以外の2人も一瞬頭を悩ませたようだったが、口に出す者はいなかった。
代わりに、百合華が苦労話もそろそろ聞き飽きたとばかりに、新しい話題を投げかけた。
「ねえ歩美さん、『ミュア』って名前すごく可愛いんですけど、名前の由来とかってあるんですか?」
「うーん……」と小首を傾けながら、考えをまとめるように声を漏らす歩美だが、実際のところ『ミュア』に名前の由来なんてものはない。
『ミュア』という名前は、歩美がガップレの活動中に名乗る芸名みたいなもので、芸名をつける際に歩美が散々悩んだ果てに、結局『言葉遊び』によって生み出された名前だった。
歩美を反対から読んでミュアという、捻りもへったくれもない名前だということは、ミュアの正体を知るものにしか分からない秘密である。
さて、いったいどんな答えが出るのやらと、勇志は期待半分、諦め半分で歩美に体を向けると、「あ!」と、まるで今考えつきましたとばかりに、全身に笑顔がパーッと広がっていく。
「ミュアって名前の由来は……」
「……」
この場にいる全員が、歩美の次の一言に神経を集中させる。
「なんかニュアンスが可愛い!」
「くッ……!?」
とびきりの笑顔で出てきた答えに「いや、歩美が可愛いわ!」と全員が心の中で叫び悶えたのだった。
「そ、それにしても、私も勇志みたいに覆面を被るだけにすればよかったかな?」
「いやいや! そんなことしたら水戸さんに何を言われるか分かったもんじゃないぞ……」
全員の無反応(歩美にはそう感じた)を受けて、急いで少し前の話題に切り替えた歩美に、勇志は救いの手を差し伸べるべく、何もなかったように話題に乗ることにした。
「確かにそうね……」
勇志も歩美も荒ぶる水戸さんの顔を思い出しながら、血の気が引いていく。
「水戸さんってそんなに怖い人なの?」
怖いもの知らずの百合華が、それはもう興味津々と言った顔で身を乗り出した。
【Godly Place】のプロデューサー兼マネージャーの『水戸沙都子』は、勇志のメジャーデビューとか契約について説明をするために入月家を訪れたことがあるので、陽毬も百合華も既に面識はあったのだが、その際の2人が受けた沙都子のイメージは、『敏腕でしっかりしている大人の女性』といった具合だった。
しかし、その際の水戸さんはあくまで外面モードであり、素の姿はというと言葉にするのも憚られる程なのだが、簡単に説明すると『汚部屋で焼酎瓶を片手に鼾をかきながら大の字で寝ているような人』というのが分かりやすいだろう。
まだガップレのメンバーたちが沙都子と出会って間もない頃、ベース担当のヨシヤがうっかり(?)沙都子のことを『おばさん』と言いかけて、生死の境を彷徨ったことがあってからというもの、メンバーたちの中で、沙都子の分類を『お姉さん』という枠にカテゴライズすることで、統一された事件があった。
沙都子は何もしていなければ『お姉さん』と言えるほど歳は取っておらず、上品に見えるはずなのだが、やはり真の姿を見てしまったためだろうか、滲み出る『オッサン臭』が圧倒的にマイナスに作用してしまうのだろうと、結論が出そうなところで勇志は思考を止めた。
もしかしたら、百合華もまた水戸さんに会うことがあるかもしれない。念の為、我が妹が水戸さんに失礼をしないようにと、注意点を簡単に説明することにしたのだった。
「ふーん、なんか意外だなー」
一通りの注意点を聞き終えた百合華から発せられた言葉は、勇志のアドバイスへの同意ではなく、沙都子という人物の感想だった。
百合華は人の話を聞いていないようでちゃんと聞いているし、気を付けろと言われたこともちゃんと気を付ける。だから兄からのアドバイスもちゃんと聞いているとわかっているため、妹の気になった『沙都子』という人間についての話に、嫌な顔一つせず、さらにアドバイスを付け加えた。
「いいか百合華、人を見かけだけで判断してはいけないんだぞ」
「ふーん」
兄のありがたいアドバイスをサラリと聞き流した百合華。それに歩美まで流し目で勇志を見詰める。
2人とも「それをお前が言うか?」というツッコミが心の中でシンクロしていた。
「でも、意外と言えばこっちも意外よねー」
歩美が勇志に向けていた流し目をテレビへと向けるので、視線を追うようにテレビの方へと意識が向けられる。
ちょうど画面には『ガップレのボーカルギターのユウ、その甘いくて優しい歌声にメロメロになってしまう女性が急増中!! 気になる仮面の下の素顔とは!?』というテロップがデデンと流れていた。
その後、テレビの画面は街頭インタビューに切り替わり、昨日のライブの帰りだろうか、若い女性がワーキャー言いながらインタビューに答えている様子が映されていた。
勇志は、変な汗が身体から噴き出るのを感じながら、テレビから視線を落として頭を抱えてしまった。
「お兄ちゃん、モテモテだね~」
「この子たちがユウの正体を知ったら、どう思うのかしらね?」
これは面白いとばかりに兄を揶揄い始める百合華と、何故か少し機嫌が悪くなっている歩美に挟まれ、勇志の精神はさらに奈落の底へと落ちていく。
「違うあれは違う俺じゃないあれはガップレのユウであって本当の俺ではないだから間違っても俺のことを言われているわけではないじゃあ本当の俺とは誰だ俺は俺であって俺であるのならばユウもまた俺自身なのかいやそんなはずはないなら俺はいったい誰なんだ……」
「なんかお兄ちゃんがブツブツ言ってる」
「そ、そうね… ちょっと可哀想になってきちゃった」
勇志の精神に多大なる負荷が掛かっているのを感じた2人は、急いで勇志を奈落の底からの引き上げを開始した。
「お兄ちゃん帰って来てーッ!」
「勇志、しっかりして!」
深い闇に光が差し込む、その光から2本の腕が差し伸ばされてくる。その手は「捕まって!」と呼んでいるような気がした。勇志はただ無意識にその2本の腕に自分の両手を必死に伸ばした……
「はッ…!? 俺は誰なんだ!?」
百合華に両肩を掴まれて激しく前後に揺さぶられながら、突然飛び出した自分の言葉に、今まで自分の意識がどこか別の場所へと飛んでいたことに気付いて、ハッとする。しかし、勇志の目にまず飛び込んできたのは、慈愛に満ち溢れた歩美の優しい笑顔だった。
「あなたは入月勇志、めんどくさがりでいい加減で、すごく世話が焼けるけど、私との約束を守るために、ずっと頑張ってくれている私の幼馴染だよ」
勇志は自分が一体どんな顔をしているのだろうと思った。歩美への想いが表情に出てないことだけを祈って、決して開けることは許されない頑丈な箱に、もう一度しっかり詰め直して、勇志は平然を装って笑顔を返した。
それはまるでガップレのユウのように、見えない仮面を被っているかのように……