四六話 踏み入れた銀世界
視界に広がるのは銀世界。
もう季節は春になっているが、それでも北国の冷気は雪化粧の消失を許さない。
見渡す限りでは雪の世界に人の気配は無く、乗客を乗せずに動いているリフトだけが人間の存在を示唆していた。
「うむ、絶好のスキー日和だな」
「カァッカッ、スキー場を貸し切りにするとは豪気なこったぜ」
無人のスキー場に朗らかな声が響く。ラスの声がいつも以上に弾んでいるのは、初めての旅行に高揚感を抑え切れないからなのだろう。
――そう、旅行。
俺たちは週末の休みを利用して旅行に来ていた。本来ならルカの実家に向かっていたはずの連休だが、これは予定を変更したわけではない。
せっかくの遠出なので観光地にも寄って行こうという話になり、話し合いの結果として、寒冷期の山における代表的な娯楽を満喫する事になったのだ。
ルカの実家の近辺には山しか存在していないので当然の帰結ではある。
そして、カリンとスキーに行くことを雨音に伝えた結果、過保護な後見人によってスキー場は丸々貸し切りになってしまったという次第だ。
「閑散としたスキー場は物寂しさを感じさせるが……まぁしかし、万が一の事を考えれば悪くない手段なのかも知れんな」
仮に一般客がカリンにぶつかって怪我を負わせようものなら、ルカにしばかれる上に神桜家から莫大な賠償金の請求を受ける恐れがある。そんな悲劇を未然に防ぐことを考えれば、スキー場の貸し切りという手段もそれほど悪くはないだろう。
それに貸し切りだからこそ、カラスを肩に乗せていられるという事もある。
旅行に喜んでいるラスを見ていると家族サービスをサボっていた父親のような気持ちになったので、ここぞとばかりに甘やかそうと「やめろぉ」と首元を撫でている中、俺とラスが待っていた二人がやって来た。
「ちょっと、ラスが嫌がってるじゃないの。苛めるのは止めなさいよ」
カリンが口を開けば、その大半は俺へのクレーム。相も変わらず元気にクレームを入れてきたので安心感すら覚えてしまうほどだ。
ちなみにラスが嫌がっているのは愛玩動物扱いを嫌っているだけであって、撫でられる事そのものは好んでいる節があるので問題は無い。
「ようやく着替えが終わったか…………ふむ、なるほどな」
「な、なによ……」
スキーウェアに着替えた幼女をまじまじと観察していると、カリンはたじろぎながらも強気な言葉を出して身構えた。
しかしこれは俺が非礼だった。スキーウェア姿が物珍しかったとは言え、不躾な視線を向けておきながら勝手に納得しているわけにはいかない。
ここは感想を述べるのが礼儀というものだ。
「ものすごく……モコモコしているな」
「仕方ないでしょ! 雨音が用意したウェアがこれだったんだから!」
カリンも自覚があったのだろう、俺の感想に対して過敏に反応している。
感覚的にはスキーウェアというより『着ぐるみ』に近いだろうか。俺の知るスキーウェアよりも明らかに体積が大きかった。
「……おお、すごいな。この感触からすると耐衝撃性は相当に高いぞ」
「な、なに触ってんのよ! セクハラよ!」
おっと、セクハラ問題に厳しいカリン先生から指摘を受けてしまった。着ぐるみスキーウェアの触感が気になって手を伸ばしたのがアウトだったようだ。
しかし俺の方にも言い分がある。
「セクハラと言うが、これは身体を触られているという感覚があるのか……?」
「無いけど……そ、そういう問題じゃないのよ!」
これは実に厳しいセクハラ判定だ。
言うなればヘルメット越しに頭を撫でているようなものなのだが、それでもカリン的にはアウトになってしまうらしい。
「なぁなぁカリン、これなんか動きにくいから脱いでもいいか?」
俺とカリンがセクハラ問題について議論している中、ルカが不満を漏らした。
いつものタンクトップとホットパンツではなく、明るい色彩のスキーウェアで全身を覆っているルカ。おそらくカリンにスキーウェアを強要されたのだろうが……考えてみれば、ルカが露出の少ない格好をしているのは初めて見る気がする。
「脱いだら駄目よルカ。まだ寒いんだから風邪引いたらどうするのよ」
やはりカリンの差し金だったようだ。
この野生児が病気で寝込んでいる姿は想像もできないが、しかし友人を心配する気持ちは尊いものだ。ここは俺も助勢しておくとしよう。
「そうだな、そのままスキーウェアを着ておくといい。よく似合ってるぞ」
冬でも半ズボンの小学生のような心を持っているのは悪くないにしても、時にはTPOに合わせた服装を着ることも必要だ。
そう思ってのフォローだったが、ルカは「そ、そっか……?」と戸惑いながらも少し嬉しそうな様相だ。どうやら俺の援護は功を奏したらしい。
「わ、私だって、本当はお洒落なやつが良かったんだから」
おっと、これはいかん。
比較的お洒落なスキーウェアを着ているルカを褒めたせいで、着ぐるみを着ているカリンがへそを曲げてしまった。
友人を贔屓するのはアンフェアなのでカリンも褒めておくべきだろう。
「カリンのスキーウェアは……まぁ、防御力がかなり高そうだな。これならトラックに撥ねられても大丈夫だろう」
デザインより実用性、特に安全性を重視した代物となると褒め言葉は限られる。
当然の事ながら褒められソムリエの幼女がそんな褒め言葉に満足するはずもなく、見るからに不満そうな顔だ。そんな中、俺の肩部の砲台が援護射撃を放つ。
「相棒の言う通りだぜ。ハードウィックシープみたいで嬢ちゃんに似合ってらぁ」
「あ、ありがと……?」
流石は無駄知識に定評があるカラス。
よく分からないたとえを持ち出して巧妙に丸め込むとは大したものである。
シープという単語からすると羊の種類の一つなのだろうが、果たして『ハードウィックシープみたい』と言われてピンとくる者がどれほど居るというのか。モコモコしたカリンを的確に表現している事だけはなんとなく分かる。
「よし、そろそろ滑りに行くか。初心者のカリンには俺が教えてやろう」
話が一段落ついたところでスキーの時間だ。
スキーでもスノーボードでも自由にレンタル可能だが、事前に調べた情報ではスキーの方が初心者向きとの事だった。まずは無難なところから始めるべきだろう。
「あれ? 私に教えるって、ビャクもやった事がないって言ってなかった?」
「甘いなカリン。俺は動画でイメージトレーニングを積んできているから完璧だ」
備えあれば憂いなし。
スキーに行くと決めた時点で予習しておくのは当然だ。初のスキーではあるが、気持ち的には中級者くらいのテクニックを獲得しているという自負がある。
「イメージトレーニングだけでよく偉そうな事が言えるわね……。それにルカが経験者なんだから、素直に経験者に教えてもらえばいいじゃないの」
「おう、任せとけっ!」
見えている地雷を踏みに行くカリン。本人は威勢よく返事を返しているが、どう贔屓目に見てもルカに教師役が務まるとは思えない。
「その判断はどうかと思うが……しかし、やる前から否定するのも良くないな。まずはルカのお手並み拝見といこうか」
怪しみながらも子供の可能性を伸ばす為に容認すると、ルカは意気揚々と「行くぞっ!」と元気よく走り出した――が、即座に俺は制止する。
「待てルカ、なぜお前は森に向かっている?」
それは心からの疑問だった。
まずはスキー板のレンタルに向かうと思いきや、ルカは不可解にも森に向かっていたのだ。これは俺でなくとも止めずにはいられまい。
「なに言ってんだよビャク? スキーをやるなら木を倒さないと駄目だろ」
ふ、ふむ、なるほど……。
どうやら俺の知っているスキーとは別のものを想定しているらしい。
これは俺の失敗だった。野生児のルカが『アタシはスキーをやった事があるぞ!』と言っていた時点で疑って然るべきだったのだ。
「お前が何を言っている。意味が分からない事を自信満々に言うんじゃない。……一応聞いてやるが、ルカは木を倒してからどうするつもりなんだ?」
「ん? 木を倒してどうするって、倒した木に乗って滑るに決まってるだろ」
豪快……!
それはスキーと呼んでいい代物なのか……。
なぜか俺が常識を知らないみたいな雰囲気になっているのがモヤッとするが、俺の記憶の中には丸太に乗ってゲレンデを滑るという光景は存在しない。
しかし、そこまで思索したところで別の可能性に思い至った。
「……いや、分かったぞ。倒した木をスキー板に加工するというわけだな?」
俺とした事が自分の常識に囚われすぎていた。
これは言うなれば、自家製素材に拘る個人料理店のようなものだ。
スキーをする時には木を切り出してスキー板を作成するところから始める、それが海龍家のスキー作法という事だったのだ。
「スキー板ってなんだ?」
もちろんそんな事はなかった。
大体からしてスキー板の作成が短時間で出来るはずもないので当然だ。
本気でやろうと思えば、スキーをやりに来たのかスキー板の製造体験に来たのか分からなくなってしまうのだ。
「……ルカよ、お前のスキーは余人には向いていないようだ。しかし安心しろ、俺がルカにも一般的なスキーを教えてやろう」
ルカのプランを採用してしまうと悲劇が約束されているので止めておく。
丸太スキーには方向転換どころかブレーキも搭載されていないので、スピードの乗った丸太が甚大な被害を撒き散らしかねないのだ。
少なくとも麓の建物が丸太アタックを受けてしまうのは間違いないだろう。
明日も夜に投稿予定。
次回、四七話〔微笑ましき主従の絆〕