三一話 暗転の足音
カリンを狙う黒幕への道筋は見えているが、正直に言えば黒幕を見つけて報復するという優先度はそれほど高いものではない。
なにしろ黒幕がカリンの家族という可能性がある。そう、真相を暴くことで結果的にカリンを傷付けてしまう可能性があるのだ。
だから、敵がカリンへの干渉を諦めてくれれば手を引いても構わない。カリンには何も言っていないが、俺は内心でそんな事を考えていた。
しかし――それは甘い幻想に過ぎなかった。
俺も心の奥では分かっていた。
襲撃の失敗を繰り返したところで、黒幕が痛痒を感じているとは思えない。痛みを感じていないのであれば、反省の念を抱くはずもなかった。
その始まりは、足音だった。
ビルの階段を荒々しく駈け上る音。その音を聞くだけでも、凄まじい速度で階段を蹴っているのが分かる。この移動速度は間違いなく、ルカだ。
そして来客の正体を知ると同時に不審感を抱く。学園が終わっている時間なのでルカたちが来訪するのはおかしくない。
だが、足音から察するに来客はルカだけだ。……カリンはどうしたのか?
事務所の扉はノックもなく開けられた。
そこに立っていたのは、なぜか全身がずぶ濡れになっているルカだった。
「……何があった?」
俺は嫌な予感を膨れ上がらせながら聞く。
ルカの顔は焦燥に染まっている。そればかりか、あのルカが息を切らしている。
答えを聞く前から答えが分かっているような思いがあったが、それでもルカの口から聞かずにはいられなかった。
「……カリンが、さらわれた」
それは、血を吐くような声だった。
後悔、不安、怒り、その言葉にはあらゆる感情が込められていた。
その言葉を聞いても、俺にルカを責める気は起きなかった。この少女がカリンと友情を築いていたのは知っている。ルカがカリンの護衛に手を抜くはずがない。
問題は、このルカを出し抜くほどの何かが起きたという点だ。
「ルカ、詳しく話せ」
だから俺は簡潔に聞く。
まだ状況は最悪ではない。殺害ではなく誘拐をしているのだから、カリンの身の安全はある意味では保証されている。……無事であってほしい、という希望的観測があるのは否定できないが。
「カリンと車に乗ってたら、トラックが出てきて、それから、えっと……」
「――それはコレの事か?」
ルカがなんとか言葉をまとめようと悪戦苦闘していると、ラスが口を挟んだ。
なんだ? と思って視線を向けてみると、それはテレビのニュース速報だった。
その映像に映っていたのは見覚えのある場所。
この事務所からそれほど遠くない場所だ。
映像では車道を塞ぐようにトラックが停車しており、そのニュースのテロップには『銃の乱射事件で死傷者多数』とあった。
死傷者――その単語が目に入った瞬間、俺の心臓が大きく鼓動を打つ。
「……それだ、さっきまでアタシがいたトコだ。トラックから銃を持った連中が出てきて…………んん、違う。カリンは撃たれてない」
視線でカリンの安否を尋ねると、ルカからは否定の言葉が返ってきた。それを聞いて、俺は安堵感から思わず息を吐く。
犠牲者が出ている以上は不謹慎だと分かっているが、親しい知人の安否が優先されてしまうのは心情的に避けられない。
……しかし、妙だ。
ニュースでは小火器を所持した武装集団による犯行とあるが、ルカなら自動小銃を持った相手であっても遅れを取るとは思えないのだ。
よく見るとルカの服は濡れているばかりかボロボロに擦り切れているが、それでも怪我らしきものは見受けられない。本当に一体何があったのか?
俺は話の続きを促すようにルカを見る。
「……アタシにも、なにが起きたのか分からない。銃を持った連中をやっつける為に、車にカリンを置いて外に出たんだ」
ルカは言葉通りに困惑しながら語る。
状況からすると無謀にも思える行動を取っていたようだが、ルカの超人的な能力を考えれば妥当な行動だ。単独で出てすぐに終わらせるつもりだったのだろう。
だが、結果的にカリンは攫われてしまった。
あの現場で何があったのか? と疑念を覚えている中、ルカは核心に触れる。
「車から降りたと思ったら、急に身体が跳び上がって雲の上にいたんだ」
思わず背筋が凍った。
世情に疎いルカは知らないようだが、俺にその現象が分からないはずがない。
――――ジャンプ。
急に人間の身体が空高く跳び上がるという超常現象。間違いない、ルカは忌まわしき『ジャンプ』の標的にされたのだ。
だが、なぜここでジャンプが出てくるのか?
これまでのジャンプの被害者たちには直接の繋がりはないが、一つだけ共通点がある。標的となった被害者は、社会的地位のある有力者ばかりという点だ。
しかしカリンは過去の被害者の特徴に合致しない。神桜家の娘ではあるが、企業の重役でもなければ政治に携わる人間というわけでもないのだ。
……いや、そもそもジャンプに狙われたのは護衛であるルカだ。
ジャンプは金で依頼を受けて標的を始末しているのではないかと推察していたが、今回は海龍を排除する為に雇われたという事なのだろうか?
「ルカの身体は大丈夫なのか? 見たところ怪我はしていないようだが、お前は雲の上まで飛ばされたんだろう?」
「アタシは大丈夫だ。飛ばされながら川に落ちるように調整したからな」
なるほど。ルカの身体がぐっしょり濡れているのはその為か。着ている服が擦り切れているのは、おそらく落水時の衝撃によるものだろう。
ルカはジャンプの存在を知らなかったようだが、咄嗟に落下地点を川に調整するあたりは流石の対応力だと言える。
それでもルカの顔色は冴えない。
どうやら落下の最中にカリンが連れ去られていくのが見えたらしく、自分が何もできなかったのが悔しくて堪らないようだ。
ちなみにニュースで報道されていた死傷者とは、カリンの他の護衛たちとの事だ。……カリンの目の前で撃たれたと思うと忸怩たる思いがある。
そして攫われたのはカリンだけではなく、神桜家から押し付けられていた付き人も一緒に連れていかれたらしい。
しかし、付き人は襲撃犯側の人間である可能性が高い。こちらは攫われたというよりは仲間と合流したと考えるべきだろう。
付き人は武器を所持していなかったらしいので、襲撃に直接加担したわけではなく移動ルートなどの情報を漏らしていたものと思われる。
本来ならその程度でどうにかなるような警護体制ではなかったはずだが……ルカがジャンプによって無力化されたのが想定外だった。
「アタシの事はどうだっていい! ビャクはカリンの場所が分かるんだろ? 早く……早くカリンの所に行こうっ!!」
確かに俺にはカリンの居場所が分かる。こんな事態になるのを想定していたかのように、俺のスマホに位置情報アプリが入れられているのだ。
ルカの話を聞いた直後にはアプリを起動しているが、現在は車で移動中なのかカリンの位置情報が高速で動いているのが分かる。
偽装を施したペンダントにGPS発信器を隠しているだけあって、誘拐犯グループに発信器の存在は露見していないようだ。
「ああ、分かっている。これからカリンの救出に向かうつもりだ」
カリンは『自分に何かあったら警察に居場所を伝えるだけで構わない』と言っていたが、俺にそんな選択肢は存在しない。
警察に敵側の内通者が存在している事は分かっている。警察に知らせても当てにならないばかりか状況を悪化させる可能性が高いだろう。
しかし、今すぐ出発というわけにもいかない。
「ルカ、お前はまずシャワーを浴びろ。着替えは俺の服を自由に使って構わない。俺はその間にレンタカーを借りてくる」
「シャワーなんてどうでもいいだろっ!」
「――ルカ、よく聞け。お前がボロボロの有様でカリンを迎えに行けば、あいつは自分を責めるはずだろう。俺たちはカリンに弱い姿を見せてはならない」
「っっ……」
カリンが最後にルカを見た光景は、ルカが空高くまで打ち上げられるというショッキングな光景だ。状況からするとルカの安否も分かっていないはずなので、カリンがルカの身を案じているのは間違いない。
そんなところに激戦を潜り抜けたような恰好のルカが行けば、あの幼女は間違いなく自責の念に駆られるはずだろう。カリンは加害者を責めるより自分を責めてしまう子供だ。……俺の目には、いつもそれが見えている。
「ルカが身嗜みを整えても時間のロスは少ない。いいからお前はシャワーを浴びろ。俺が車を用意するからビルの前で合流だ」
俺は有無を言わさず命令した。
カリンがGPS発信器を奪われる可能性もあるのだから俺とて時間は惜しい。これ以上の問答を続けるつもりはない。
それでも納得しかねる顔をしているルカに、あくまでも穏やかに告げる。
「俺たちは気軽にお嬢様を迎えに行くだけだ。……まぁ、ついでにお嬢様を連れていった不届き者にお灸を据えてやるがな」
「…………わかった」
ルカは激情を内に押し込んでいるような声で返事を返した。暴れそうな感情を自制しているようだが、その目には獰猛な光が宿っている。
おそらく敵と対峙した時には激情を爆発させる事になるはずだろう。
もっとも、俺とて敵に対して容赦するつもりはない。……カリンに手を出した事を、骨の髄まで後悔させてやろう。
次回、三二話〔問答無用の訪問者〕