月守動物園
木枯らしが木枝を揺らし、自然の匂いを舞い起こす。それは生きている山の匂い。むせ返るような樹木の匂いを筆頭に、自生果実の芳しい匂いも感じられる。
その中でも特に印象的な匂いは、動物園を想起させる生物的な匂いだろう。
「カァーッ、ここが月守家の山か。サイタマ樹海より厳重な管理体制だぜ」
ユキの付き人であり、無類の珍獣好きである月守氷華。彼女の実家である月守家が所有する山に、俺とラスは訪れていた。
「高いフェンスで囲まれた山か……。この中で動物を放し飼いにするとは豪気な事だが、ユキが立ち入りを禁止されているのも納得だな」
珍獣パラダイスな月守動物園。その中には肉食獣も混じっているので、自衛能力に欠けるユキは立ち入り禁止との事だった。お気に入りの山猫――イリオーモとは金網越しでしか触れ合えないと当人が零していた。
「……致し方ありません。お嬢様に万一の事があってはいけませんから」
「氷華の判断は正しい。俺がユキを背負って移動すれば安全かも知れないが……まぁ、そこまでする必要はあるまい。ユキたちには写真でも撮って送ってやろう」
俺が背中に背負えば安全性は高いが、それでも絶対ではない。有事には大空に逃げられるラスならともかく、子供連れでサファリなパークは危険過ぎるだろう。
「カァッ、しかし自然下で動物を育てようって心意気は買うぜ。それも一風変わったヤツばかりとなれば尚更よ」
山中での放し飼いに肯定的なラス。このカラスも一風変わった存在という事で、希少動物が狭い檻に閉じ込められていない事を喜んでいるようだ。
「まったくだ。……では、そろそろ行くか」
俺とラスは氷華に導かれてゲートを潜る。
今日の面子は二人と一羽のみ。カリンとユキに関しては安全性の問題もあるが、平日の昼間なので今は普通に授業中だ。
ラスが前々から月守動物園に興味を持っていたので、子供たちが学園に行っている時間を利用して訪れたという訳だ。氷華も動物園のお披露目を望んでいたのでウィンウィンである。
何かと好奇心を刺激されて質問を繰り返すラス、お気に入りの動物園だからか柔らかい表情の氷華。そんな個性的な面子で山中を進んでいると、前方に赤ら顔の白鳥のような鳥が現れた。
「おっ、これはトッキーではないか?」
デリケートな問題を生じるので種名は口に出来ないが、この白鳥のような鳥の存在はユキから聞いた事がある。ペリカン目に分類される希少な鳥だったはずだ。
早速の希少動物に興味を引かれている中、同種の鳥がフワッと飛んできて二羽になった。どちらがトッキーなのだろう? と内心で首を傾げていると、氷華が沈んだ顔で口を開いた。
「……トッキーは、もう居ません。ある日、急に姿を消したのです」
「そうか、それは悪かったな……」
知らず知らず心の傷に触れてしまった事を謝罪する。この山は高いフェンスに囲まれているとは言え、空を飛べる鳥類なら脱走は難しくない。定期的に餌を与えて居着かせているとの事だが、トッキーは自由を求めて旅立ってしまったのだろう。
「いえ、構いません。トッキーは消えてしまいましたが、この子たち――ユダとブルータスは裏切らないと信じていますから」
「そ、そうか、そうか……」
そのネーミングに裏切りの気配を感じなくもなかったが、氷華の晴れやかな顔の前で無粋な事は口に出来なかった。裏切りの宿命に抗うことを願うばかりだ。
どちらがユダでどちらがブルータスなのかは不明だが、いずれにせよ見分けがつかないので敢えて確認はしない。俺たちは気待ちを切り替えて先に進む。
「カァーッ、まさかこの黒ウサギがまだ現存していたとはなあ」
「この子はアマミン。好事家が密かに飼育していたものを譲り受けました。基本的には単独行動を好みますが、気の合う個体同士で巣穴を共有する事もあります」
動物たちを紹介している内に調子を取り戻してきた氷華。
あまり知られていない生態を解説する様は活き活きとしている。聞き手のラスもご機嫌なので微笑ましい限りだ。そんな氷華とラスを温かい目で見守っていると――突然、生い茂った茂みの中から『それ』が現れた。
「……っ、下がってろ」
俺は咄嗟に氷華を庇って前に出る。
この山に肉食獣が居るとは聞いていた。しかし氷華が一人で出入りしているとも聞いていたので、アライグマやレッサーパンダのような小型の肉食獣だと思っていた。だが、俺の想定はあまりにも甘かった。
「千道さん、警戒は不要です。この子はベンガール。やんちゃなところはありますが、少し前に食事を済ませているので無分別に人を襲うことはありません」
「グルルルッ……!」
氷華にわんぱくな子供のような扱いを受けているのは、巨大な虎。危険極まりない大型の肉食獣だった。氷華的には大きな猫のような感覚なのかも知れないが、俺としては氷華の正気を疑わざるを得ない。こんな危険生物がうろつく山に出入りするなんて完全にどうかしている。
一応は食後の時間帯を狙っているようだが、牙を剥き出しにして獰猛な唸り声を上げている有様なので今にも襲われそうだ。
「――――失せろ」
「ゥ、グルゥゥ……」
もちろん、虎如きに遅れを取る名探偵ではない。氷華を悲しませないように危害を加える事なく、圧倒的な殺気を叩きつけて追い払ってしまう。
敵意を向けてきた存在に対しては破格の対応と言えるだろう。
「……むっ。千道さん、ベンガールを怖がらせるのは止めてください」
しかし、氷華は珍獣愛で盲目になっていた。ベンガールは牙を向いて威嚇していたにも関わらず、なぜか俺がいじめっ子のように言われてしまった。
この理不尽な扱いには反論せざるを得ない。
「いやいや、ベンガールは敵意を剥き出しだったぞ。大体からして虎を放し飼いにするな。氷華に何かあったらどうするんだ」
俺は正論に次ぐ正論で返す。
ラスはベンガールの出現直後に逃亡している。俺は残された者として責任を持って諭さなければならないのだ。
「いいえ。ベンガールなら大丈夫です」
可愛いベンガールが猛獣扱いされたのが不満だったらしく、氷華はムッとして俺の言葉に耳を貸そうとはしなかった。
そしてこれで話は終わりとばかりに踵を返す。しかし俺はそれを許さない。
歩みの行先を封じるように――――ドンッ、と木に手を当てて氷華を止める。
「――氷華、俺はお前が心配なんだ」
「ぅえっ!?」
至近距離で本心を伝えたのが良かったのか、心を閉ざしていた氷華は目に見えて動揺した。胸中の思いが表出するように顔も朱に染まっていく。
今なら話も通じるはずだという事で、真っ直ぐに目を見詰めたまま言葉を紡ぐ。
「氷華にもしもの事があったら、俺は酷く後悔する。だから、頼む。せめて単身で立ち入るのは止めてくれ。俺に声を掛けてくれれば可能な限り付き合おう」
「…………わかり、ました」
俺から目を逸らしながらも了承する氷華。
やはり真っ直ぐな言葉は人の心を動かす。氷華は約束を違える人間ではないので今後は気を付けてくれるはずだろう。
よかったよかったと内心で安堵の息を吐いていると、ベンガールから逃亡していたラスがバサッと肩に戻ってきた。
「カァーッ、こいつが壁ドンってやつか! ちょっと目を離すとすぐコレだ。まったく相棒は隅に置けねえぜ」
「ち、違っ! 壁ドンではなく木ドンです!」
ラスのからかいに動揺して造語を生み出してしまう氷華。まるで口説いていたかのような言い草なので、否定すべきは言葉ではなく行為だろうと思うが……氷華は真面目で冗談に耐性がないので仕方ない。まぁ、それはそれとして。
「しかしラス、見事な逃げ足だったぞ。流石にラスは弁えているな」
「カァッカッ、相棒の足を引っ張るのは御免だからな。……だがよ、あまりベンガールを責めちゃあいけねえぜ。ありゃあきっと相棒に妬いてただけなんだからよ」
意外にもベンガールを擁護するラス。
しかし、考えてみれば頷ける言い分だ。氷華の無警戒ぶりからすると普段は大人しい可能性が高いし、ベンガールの俺に対する敵意には嫉妬も見え隠れしていた。
氷華が見知らぬ人間と仲良くしていたので過剰に反応してしまった、という線は十二分にあるだろう。何かと嫉妬しがちなラスの言葉なので信憑性は高い。
「なるほど、そう考えると厳しすぎる対応だったかも知れないな……。よし、氷華。次に訪問する時には餌やりに同行させてくれ。餌付けに関われば少しは警戒心も解せるはずだろう」
「ベンガールには生き餌を与えているので耐性のない方には厳しいですが……そうですね、千道さんなら問題無いでしょう」
い、生き餌か……。思ったよりエグい光景を見ることになりそうだな……。
俺なら問題無いと判断された事は少々気に掛かるが、自分から言い出した事なので背を向けるわけにはいかないだろう。
しかし、生き餌を食べるベンガール。謎の失踪を遂げたトッキー。……なにやら名探偵的な勘が刺激されなくもないが、何も証拠は無いので言い掛かりは止めておこう。虎の中から『ぼくはここにいるよ!』と聞こえる気がするのは幻聴なのだ。
俺は胸中に浮かんだ疑惑を振り払い、ユダとブルータスの安否を案じつつ、どこか上機嫌な氷華に導かれて物騒な山の観光を続けるのだった。
次回、〔ポリコレ学園祭〕