8:彼女の名は?
――――――― 4 ―――――――
はぁ……
――はぁ、はぁ。
――……はぁ、はぁ、はぁ。
……はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、
く、くぅ……
うっ、ううっ、うぅぅ……
「み……み、水ぅぅ……」
――どさりっ。
照りつける強烈な太陽の日射しの中、吹き荒ぶ砂塵に膝砕く少年。熱砂に埋もれ、人知れず逝くのだろう。
旅をするには心許ない装備、粗末な服装。
そして、何より貧弱な体。
自殺行為――
炎に飛び込む虫ケラの如し。
――愚か。
人は、人間は、熟々、愚か。
どうせ、生き存えた処で、長生きはできまい。
できないのであれば、いっそ……
―――――
(怖くないのか、お前は?)
(わたしに名など不要)
(誰もその名でなんか呼ばないのだから)
(お前がお前自身で決めろ)
(それがお前の“答え”か)
――ハッ!!
こ、ここは……
目が覚めた時、俺は見知らぬ部屋の中、寝床で横たわっていた。
比較的手入れが行き届いた調度品の少ない殺風景な部屋。家業で見慣れた、似た雰囲気。それが旅籠であろう事は容易に想像がついた。
ギギーッ――
木扉から食事を手にした男性が入ってくる。
「気付いたか、坊主。それにしても、よくあんな軽装でトゥーシャントァ沙漠を越えられたもんだ。命知らずにも程があるぞ」
「……あ、えーと……――ここは?」
「ザハシュツルカの宿屋さ」
ザハシュツルカ――確か、ラダドゥーラ山地の麓の町だった筈。
だとしたら、経路から大分南にずれてる。亦、練り直さないと。
北に、兎に角、北にある王都か聖都に、いや、大きな町だったらどこでもいい。
働かないと。働き口を探さないと。路銀が残っている内に、ガキの俺でも雇ってくれるような豊かな町に行かないと――野垂れ死んでしまう。
……目的地にさえ辿り着けない。
旅が、旅する事がこんなにも、こんなにも大変だったなんて。
俺はなんて無知で無力なんだ……
「どうした、坊主? 飯、喰わんのか? ずっと眠りっぱなしだったんだ、腹減ってんだろ? 遠慮しねーで喰え」
「あっ……でも、俺、金あんまなくて……」
「ん? なんだ、そんな事を心配してたのか坊主! 顎枕代はもうとっくに貰っとるさ。一週間でも二週間でも、なんなら一ヶ月、ここを使ってくれたって構わんさ」
「えっ!?」
旅籠賃、食事代迄支払ってくれた人がいる?
一体、誰が?
――そうだっ!
そうだった!
俺、沙漠で倒れたんだ。意識が朦朧として、前後の記憶は何もないけど。
そっか……本当だったら、俺、疾っくに野垂れ死んでたんだ。
働き口だの路銀が尽きるだの旅が困難だの、そんな話以前の問題。
俺は、俺はもう、死人、だったんだ!
今、こうして生きていられるのは、助けてくれた人のおかげ。
礼を、一言、お礼を云わなければ!
今は何も出来ない俺だけど、必ず返さなきゃ、この恩を。
「親仁さん! お金を払ってくれた人はっ、俺をここ迄運んでくれた人は?」
「――ああ、……」
「……」
「白眼の魔女、さ」
「!?」
白眼の魔女! 半死半生の狂戦士!
なぜ!?
なんで、鬼衆を狩る使命だけに生きている、あの“神を殺すもの”が俺を、人の子の俺を助けたんだ!
彼女は、――彼女達は、人助けの為に鬼衆を退治しに来るんじゃない。極北の結社に鬼衆狩りを依頼し、その報酬の見返りとして始めて送り込まれてくる狩人。それが女戦士“ディーサイド”の正体――
――だと云うのに……
「親仁さん! その人……いや、白眼の魔女の名前は?」
「ん? いや、分からんよ。名乗りもしなかったし、こっちから訊ねもしなかったしな」
「――……」
「まったく、驚いたぞ! あのおっかね~白眼の魔女が、だ。脱水症状起こした少年を抱えてやって来たかと思えば、お前さんの為に鱈腹お代を寄越して面倒みてくれってんだから。世の中、まったく分からんね~」
「……」
ディーサイド――
そう、俺達人間は彼女を、彼女達をそう呼ぶ。
どこにでもいる訳じゃない。況して、出会した者もそんなに多い訳じゃない。
だから、彼女らの個体を、いや、個人を、個性を、個々の人格への認識が、識別が、稀薄。
だから――
――名乗らない、自身の名を。
(――誰もその名でなんか呼ばないのだから)
鬼衆を狩る白眼の処刑人。
その印象が、心象が、噂が、役割が、目的が、事実が、彼女を、彼女達を孤独にする。
その力を、鬼衆を狩り、倒す、その力だけを人は頼り、欲す。どれだけ忌み嫌おうと、どれだけ嫌がろうと、その力だけは利用する、渇望する、求め訴える。
そして、
――頼った後、頼り切った後、無下に突き放す。
さも、力以外はいらない、とばかりに。
なんてこと――
鬼衆にも見劣りしない、その非道、冷酷さ、冷淡さ、軽薄さ、狡猾さ。
俺達人間は、心の中に鬼衆を宿している!
「宿帳! 親仁さん、宿帳あるだろ、旅籠なんだから。宿帳にはなんて書いてあったの?」
「おっ! さすが宿屋の息子だな、坊主!」
「……え? なんで、俺が宿屋の息子だって……」
「宿帳にはこう書いてあった。名をヨータ、住所はラゴン、職業は宿屋手伝い、と」
「――……ありがとう、親仁さん。分かったよ……」
彼女も亦――
――俺を覚えてくれていたなんて。
――ああ、分かったよ。
俺を助けてくれたのが、
俺をここ迄運んできてくれた者が、
その白眼の魔女が、誰、なのかって。
「親仁さん、その人! 彼女は今どこに!」
「ん~? さぁ~、分からんな~。お前さんを運んできた後、すぐに発っちまったからな。まぁ、ウチの町で呼んだって訳じゃないから途次ってトコだろ?」
――こうしちゃいられない!
「……ありがとう! 俺、追い掛けなきゃ! 世話してくれてありがとう、親仁さん! これで失礼します!」
「おっ!? おいおい、飯は! 追い掛けるにしたって、腹になんかいれとかなきゃ、亦、へばっちまうぞ!」
「! ……いただきますっ!」
がっついた。
腹が減っていたのは間違いない。
でも、それ以上に、がっついた。
空腹を満たす為だけじゃない。
旅を乗り切る力を得る為に、彼女を追う力を得る為に、俺はがっついた。
「へへっ、美味そうに喰いやがる。よしっ、保存の利く飯も持ってきといてやろう」
「!?」
「追うんだろ、魔女を?」
「――うん!」
大丈夫だ。
これで、大丈夫。
もう倒れやしない。挫けやしない。
だって――
――目標が、
彼女を追うって目標が出来たんだから!
「ありがとう、親仁さん」
「ああ、いいってことよ」
「俺、行くよ」
「ああ、達者でな、坊主。会えたらいいな、彼女に」
頭陀袋いっぱいに詰まった保存食と水嚢を肩に担ぎ、宿屋の主人に一礼する。
宿の外迄見送りに出て来てくれた主人に、こう告げた。
「親仁さん!」
「ん? なんだ?」
「覚えておいてくれ! 俺をここ迄運んでくれた白眼の魔女。彼女の名を」
「んん? 魔女の? 彼女の名?」
「そう、――その名は、“マリア”!!
俺の敵を取ってくれた恩人! 俺の命を救ってくれた恩人!」
――彼女の名はッ!!!