6:無限思考の彼方へ<前編>
――――――― 3 ―――――――
――目眩。
顳顬、否、側頭部か。
片膝を地につき、頭を振る。意識を保て、クリアな意識を。
眼球振盪の症状に加え、三半規管への軽度の損傷。更には、僅かな吐き気迄。
あんな詰まらない打撃を、直撃に喰らってしまうとは、我ながら情けない。
立ち上がろうにも、膝が笑う。
連戦による疲労が、まさか、こんなにも祟ってくるとは。
思い入れがない? だから動きが鈍る?
いいや、それは些末な事。
依頼元が人であろうとなかろうと、相手にするのは鬼衆、そこに代わりはない。
偏に、分析誤謬という名の力不足。わたし自身が招いた危機。それ以上でもそれ以下でもない。
――ない筈。
とも云い切れない、か――
「ふっはっはっはっはーッ! どうした、ディーサイド! さっき迄の威勢はドコに行った?」
大太刀を杖代わりに立ち上がり、両足を踏ん張る。
奥歯を噛み締める。グッと噛み締め、食い縛り、踏ん張るんだ。
弱みを見せたら、隙を見せたら、泣き言を漏らせば、殺られるぞ!
「ラッキーヒット如きで図に乗るな、デカブツ! どちらにせよ結果は変わらない」
「ふふふっ、迚も厳しい訓練や修練を積んできた戦士の言とは思えんなぁ~、小娘。教えといてヤル! 戦いに、ラッキーヒットは存在しない!」
分かってる――分かっているさ、化物!
だが、今はこれしかない。
調子に乗って吠えるがいい。
吠えた分だけ、死期が近付く。
時間。
慣れる時間が必要だ。
いつもとは違う戦い方に、いつもとは違う戦い方を。
――考えるな!
――感じろ!
―――――
「――少し」
「!?」
「少し疲れてるんじゃあないか、マリア」
「……」
「そんな厭そうな顔をしないでくれ。こっちも好きでやってる訳じゃあない」
「――そうは見えんがな」
杖を携えた黒尽くめの男。結社に連なる者。顔役、ではない。単なる使いっ走り。
わたし宛に伝令を流すだけの詰まらない男。
――それだけの男。
「――で、何の用だ、ハキム?」
「何の用、とはつれないなあ? 用がなけれりゃ会いに来ては罷りならん、なんて“掟”、ウチにはないぞ?」
「……次の依頼元への移動中だ。手短に頼む」
「そうだったな。実はその次の依頼元の前に、もう一つ、頼まれ事をお願いしたい」
下を向き、溜息交じりに、
「――こっちの疲労を気にしておいてダブルブッキングとは一体、どんなスケジューリングを組んでいるんだ、お前達は」
「そう云ってくれるな、マリア。私も上の指示で動いているんだ。心苦しくは思っているが、こればかりは致し方ない」
「ならばそのイレギュラーは“パス”する。こちらは大幅にスケジュールを圧縮しているんだ。パスできる権利がある。先に入っている依頼を優先し、そちらはパスだ」
「ふむ、分かった――とは云かんのだよ、今回のコレは」
「……なに?」
「<オーダー666>と云えば、お前にも分かるだろ?」
――オーダー666……
そういう事か。
「どこへ向かえばいい?」
「幽世。依頼元は妖精」
「――巫山戯ているのか?」
「いや、至って真面目さ」
「そんな幻想史観、持ち合わせてはいない。わたしが傷追人である事を忘れたのか?」
「そうか? お前は十分、夢追人だと思っていたんだがね、私は」
「……で、具体的にはどうすればいい?」
「これを使え」
小さな薬入れ。
中には見覚えのある錠剤が。
「抗興奮剤、通称“微睡み”。知っているだろ?」
「やはり、巫山戯ているな!」
「まあ、待て。話を聞け。そいつが“ヤバイ”奴に使う薬ってのは尤もだ。それ用に作られた薬だ、そりゃあお前が怒るのも無理はない。
だが、今回の件に限っては、その使用目的が違う」
「なんだと?」
「こいつは限りなく精神を抑える――様に見える効果を与える」
「!? 興奮を、感情を抑えるのではないのか?」
「いや、結果的にその効果を齎すのだから普段の説明では省いているし、必要のない情報だ」
「結果的? どういう事だ?」
「微睡み本来の効能は、知性や感性に影響を与えず、理性と悟性を抑制する働きがある」
「?」
「理解力や推察力等、論理的な思考分野を抑える事で感情や本能の起伏をフラットに維持し、平静たり得る空隙を与えるという逆説的な効能が微睡みの特徴だ」
「……錠剤の効能は分かった――が、それと幻想史観になんの関係が?」
黒尽くめの男はステッキの石突で地面に図表を描く。
大きく十文字を描き、四方に知性・理性・悟性・感性と文字を刻む。
「知っての通り、微睡みは“症状”が現れた時のみ服用する対症療法以外の何物でもない。
だが、無症状、つまり、平穏なる戦士が使えば、別の効能を齎す」
「なに?」
地面に描いた理性・悟性の両者にバツ印を書き込み、知性・感性の両者を大きな楕円で囲み、ステッキで突く。
「知覚! 視覚、触覚、味覚、嗅覚、聴覚。更には体性感覚、平衡感覚、運動感覚他、数多の感覚で外と己をそう認知する。我々生命体が外界をそう認識し得るには、外部情報を受信し、主観的な追体験が必要不可欠!」
「――……」
「幽世と云う見えざる世界を識別するには、それを認識し得る知覚が必須。乃ち、それが――“知感”!」
「ゲイズ!?」
「霊感って言葉あるよなあ? ありゃ、嘘っぱちだ。そんなもんはない!」
「……」
「知らんモンは知らんし、当然、知らんモンは見る事も感じる事も出来ん。抑々、思い付きもしない。だから、見た事も聞いた事もないモンが見えるっつう霊感は嘘。あるのは、知感のみ。知感を霊感と勘違いした愚か者の言葉。
理屈や推論、その他ロジック分野に含まれる、謂わば、“邪推”の類、所謂、否定と云う名の拒絶を齎す根幹を抑え、己自身が知り得た、そして、感じる事のみを残してやると、自然と見えてくるんだ、向こう側が」
ステッキをこちらに差し、
「飲んでみろ、そいつを。飲めば分かる」
ピルケースから一錠取り出し、暫し眺める。
「此処でお前さんに声を掛けたのには理由がある。ここ、この場所こそが、依頼元から指定された座標。要は、幽世への入り口。
さあ、飲んでみろ? そして、辺りを見回してみろ」
その錠剤を、本来、今のわたしが必要としていないその薬を一粒、口腔に放り込む。
「安心しろ。見えるのは、向こう側に行っているのは薬が効いている時間だけ。薬が切れれば、自然とこっち側に戻ってくる」
「……」
「やがて、私は消える。幽世にあって、私はそこに存在しないのでな。そして、薬が切れた時、やはり私はいない。既に立ち去っているから、な」
「……――待てっ!」
「……なんだ?」
意識が朦朧とする。
いや、朦朧とは少し違う。
感覚は、感覚は研ぎ澄まされている。
そう、頭の中はクリアだ!
だが、考えが、考えが追いつかない。
「……――なぜ、だ」
「……なぜ、とは?」
「……――なぜ、わたしなんだ?」
「……なんの話だ?」
「……――なぜ、幽世……なぜ、オーダー666を……」
「…………マリア、それはお前が“夢追人”だから、さ」
「……――ば、馬鹿なことを……わ、わたしは……」
「………………」
「……――お、おい……」
「……………………」
「……――ま、待てっ……ハキム!」
「…………………………」
微睡む――
肌に感じる感覚は鋭利であるにも関わらず、
何を云うべきか、訊ねるべきか、聞きたかったのか、それもはっきりしているのに、
――だと云うのに……
まとまらない。
思考が、論理が、筋道が、
混迷、混沌、戸惑い、迷う。
考えが、考える事が、埋没して行く、暗闇の中に、深く、深く。
無限思考の彼方――
――わたしの存在証明は迷子となって彷徨った……