公爵令嬢とお兄様
なんとも疲れたお茶会を終えて私は広大な屋敷の最も奥に存在する自室へと戻った。
メイドが開けるドアをくぐると深く頭を下げる執事服を着た若い男が私を出迎えた。
「お疲れ様でした。お嬢様」
この国では滅多にお目にかかれない黒髪と黒い瞳をした彼はソウヤ=ノキミという。
すらりとした長身と冴え渡るような月に似た涼やかな美貌の持ち主だ。
私付きの執事であり、乳母の息子でもある。
所謂乳兄妹というやつだ。
「ありがとう。ソウヤ。なんだか疲れたわ。少し休みたいの」
クッションが沢山積まれた座り心地の良いソファに浅く腰掛けて私は言外にソウヤ以外の人払いを命じた。
「かしこまりました」
ソウヤが手を振ると、部屋の隅に控えていたメイド達が音を立てずに静々と退室していく。
メイド達が完全に退室し、自室に2人きりになる。
「…誰も居ないわね?」
「誰もおりませんよ。」
穏やかに微笑むソウヤを見上げる。
コクリとうなづくのを確認した次の瞬間、私は助走をつけてソウヤの胸にガバッと飛び込んだ。
「お兄ちゃーんー!私、アルフォンス殿下と結婚することになったよー!!!」
グリグリと頭をソウヤ…お兄ちゃんの胸に押し付けてぎゅうぎゅうとその逞しい背中に両腕を回した。
お兄ちゃんは優しく私の背中を撫でてくれている。
「聴いてはいたよ?僕の可愛いティア。あのクソ親父、とうとう本気で国盗りするつもりらしいね。」
「そうみたいよ。あちこちへの根回しが完了したのかしら。ものすごーく機嫌がよかったわ。どのくらい良かったというとうっかり口答えしてもあのニヤケ顔が崩れないくらいに。」
「それは想像するだけで悪寒がする…」
「でしょう?うー今夜絶対悪夢見るわ…」
「大丈夫だよ。僕がずっとティアの手を握っていてあげるよ。悪夢なんかに惑わされてティアの大切な安眠を妨げられてはかなわないからね。」
「そんな!お兄ちゃんこそ眠れなくなってしまうわ!嫌よ!その綺麗な顔に寝不足のクマを作るなんて、神さまへの冒涜だわ!お願い。ベットでちゃんと寝ると約束して、じゃないと私、安心してお嫁に行けない!」
「なんて愛らしいことを言ってくれるんだい?嬉しすぎてどうにかなってしまいそうだよ。でもティア。僕は君よりも大切なものはないよ。どうかこの哀れな兄に、妹を悪夢から守る権利をくれないかい?」
「あたりまえよ!私を守るのはお兄ちゃんだけよ!それなら今日は一緒に寝ましょうよ。そうすれば私は悪夢を見ないし、お兄ちゃんはベッドで眠ることが出来るわ。」
「それはなんて良い考えだろう。可愛いだけでなくなんて優しくて賢いんだろうね。僕の天使、ティア。」
兄の執事服を思う存分に堪能し、気がすむまで匂いを嗅いで、ひたすらくっついてイチャイチャした会話をして、ようやく私は兄から離れた。
名残惜しそうに兄の手が私の頭に置かれている。
ソウヤ=ノキミは、私の執事で乳兄妹で、実の兄だ。
父には嫡子は私しかいない。嫡子は。
だが、庶子はソウヤを含め、何人いるかは正直把握しきれていない。
筆頭執事あたりは大体のところをつかんでいるのだろうが、私としてはどうでも良いことなので調べる気にもならない。
たとえ何人父の子がいたとしても、私が兄弟と呼ぶのはここにいるソウヤだけだ。
ソウヤの母であり私の乳母であったルリ=ノキミは奴隷として売られかけていたところを偶々港の視察に来ていたアリシアに救い出された縁で、侍女として王女時代からアリシアに仕えていた。
もとは遥か東にあった亡国の王位継承者であったらしい。
命からがら国を逃げ出したはいいが、途中で奴隷商人に捕まり、共に逃げ出した姉達と離れ離れになってしまったそうな。
ソウヤと同じ黒い髪と黒い瞳の儚げなどこか幼い美貌の持ち主だった。
誰よりアリシアに忠実だったルリが何故あのグエンの妾になったかは…
少しだけ込み入った事情がある。
アリシアはルリを大事にしていた。まるで身内のように親身にルリの身の振り方を気にしていたのだ。
それはアリシアが最初の子を死産し体を壊した時のことだ。
自分はあまり長くないとその時悟ったアリシアはまず最初にルリのことを考えた。
自分がいなければ、後ろ盾を失ったルリは路頭に迷うことになる。そうなれば行き着くところは1つだけだ。
なので、アリシアは夫であるグエンをルリの後ろ盾にしようと思いつく。
そうしてルリはグエンの妾となり、ソウヤを産んだのだった。
グエンはその優秀さと反比例して人としてはどうかと思うほど人格の破綻した男である。
しかし、唯一アリシアの救いとなったのは、グエンは何故だか、一度手を出した女の事は決して見捨てずに最後まで面倒を見るところであったのだろう。
ソウヤが産まれて5年後、アリシアは私を出産した。産後の肥立ちが悪いアリシアに代わりルリとソウヤの親子が私を育ててくれたのだ。
私の寝返りを最初に見たのはソウヤだし、私が初めて口にした言葉は
「にいたま」
だった。
おねしょの始末も、寂しい時抱きしめてくれたのも、熱を出した時徹夜で看病してくれたのも全てルリとソウヤだ。
そして何より、私の帝王学の教師はソウヤだ。
この事は屋敷中の人間が知っている事で最早暗黙の了解ですらなく、アルノー家の常識の1つに数えられる。なので、妙齢となった令嬢である私と若い男の立場上は使用人であるソウヤが二人きりで自室に篭ろうとも誰にも咎められることはなく存分にお兄ちゃんに甘える事が出来るのだった。