第九十話「ここにも海はあるんだなって……」
「ララさんたちのお部屋はこちらになります。窓をあけるとすぐそこが海なので、とっても綺麗ですよ」
ミルはそう言ってドアを開く。
青いラグの敷かれた部屋は広く、丁寧に整えられたベッドが三つ並んでいる。
白い壁紙には海をイメージしているのか、なめらかな曲線の模様が描かれている。
「うわぁ、綺麗な部屋ね!」
「寝心地も良さそうなベッドだ。ずっと野宿だったから、ようやくゆっくり眠れそうだね」
「あ、フシフ様のレリーフも飾ってありますね。本当にいろんな所にあるんですねぇ」
ミルに続いて部屋へ足を踏み入れた三人は、口々に感想を漏らす。
心躍らせて部屋の隅々までを見て回る彼女たちを見て、ミルもうれしそうに耳の先をぴくぴくと震わせた。
「海が見えるっていうのは、ここからね」
ララが目の前にある大きな窓に近づく。
観葉植物が植えられた小さな植木鉢が、窓枠に置かれて部屋に緑を馴染ませている。
ララはミルに目配せし、そっと窓の扉を押し開いた。
「ふわぁ! すっごい!」
ララはそこに広がる光景に、興奮の声を上げた。
それを聞いてイールやロミたちも集まってくる。
そこには、雄大な水平線が広がっていた。
キラキラとガラス細工のように輝く波は、まるで魚の鱗のようだ。
遙か彼方では黒点のような船が見える。
昼下がりの海は穏やかで、温かい風が磯の香りを窓際まで届けていた。
「ほんとに眼と鼻の先なのね!」
ララは顔を紅潮させてミルを見る。
彼女はぷるぷると耳を揺らして頷いた。
「この『塩の鱗亭』を建てたのは、わたしのおじいちゃんのおじいちゃんなんです。その人は、ここから見る海の景色が好きで、ここに住み始めたんだって、お父さんが教えてくれました」
遠く果てしなく広がる海原の先を見て、ミルは静かに語る。
今は亡き父との思い出も、この海と共にあったのだろう。
しばらく、心地よい沈黙が流れる。
それを唐突に打ち切ったのは、シアの申し訳なさそうな声だった。
「あの〜、ミルちゃん。お姉さんのお部屋も案内してくれるとうれしいなって……」
「わわっ!? 忘れてました、ごめんなさいっ」
「ひ、ひどいわミルちゃん! お姉ちゃん泣いちゃいそう」
「ごめんなさい! すぐに案内しますー!」
「うふふ、嘘よ。それにきっと鱗貝の部屋でしょう?」
わたわたと慌てるミルを見て、シアはくすくすと口元を隠して笑う。
そんな彼女の姿を見て、小さな兎の少女はぷっくりと頬を膨らませた。
「もー、分かってるならからかわないでくださいよぅ」
「ふふふ。でもミルって困ったときはしっぽがぷるぷる震えるからかわいくてつい、ね」
ぱちん、と魅惑的なウインクをするシア。
ミルはそんな彼女からつんと顔を背ける。
「まあまあ、機嫌直して」
シアはミルの肩を抱いて彼女の白い頭に頬を乗せる。
仲睦まじい姉妹のような彼女たちに対して、ララたち三人は完全にアウェーだった。
「そういえば、この部屋はなんていう名前なの?」
先ほどの二人の会話の中で気になり、ララはミルに尋ねる。
ミルは頭の上にシアを乗せたまま振り返るとすぐに答えた。
「この部屋は花貝の部屋です。うちの客室は全部、アルトレットで穫れる貝の名前が付いてるんです」
「へぇ。今までの宿は全部数字を振ってるだけだったが、粋なことをするんだな」
「これも宿ができて以来ずっと続いていることなんですよ」
イールはそんな塩の鱗亭の伝統が気に入ったのかしきりに頷く。
「ちなみに花貝というのはその名の通り、お花みたいにちっちゃくて色とりどりな貝をひとまとめにしてそう呼ぶんです。お土産の小物に使われてたりします。ネックレスとかブレスレットとか、イヤリングとか。ほら、わたしもネックレスつけてるんです」
そういって、ミルは胸元をまさぐる。
服の下から出てきたのは、小さな丸い貝殻で飾られた黒い紐のネックレスだ。
花貝と称されるその貝は、海の水を溶かし込んだような淡い水色で、彼女の白い柔肌に映えている。
「私もほら、紫色の花貝のネックレス。二人で一緒に買ったのよ」
シアが首に飾っていたのは、ミルのものよりも濃い紫色の花貝だった。
また、ミルのものは貝殻が一つだけなのに対して、彼女のものは小さな貝殻二つと一回り大きな貝殻一つが連なっている。
互いに選んで買ったのだという二つのネックレスは、どちらも馴染むように似合っていて彼女たちの魅力を引き立たせている。
「ちなみに鱗貝は魚の鱗みたいに薄い貝のことね。こっちも工芸品に使われてるわ」
シアはそう補足して、ぱちりとウインクを放つ。
それらの貝は小さすぎるためあまり食用に使われることはないが、その美しい見た目の為に熱狂的な収集家もいるのだという。
「かわいいわね。私も一つくらいほしいかも……」
「いいですねー。わたしたちも一緒に買いますか?」
「あたしはあんまり装飾品とかよく分からんが、綺麗なことは分かる」
三人は互いに顔を見合わせて言う。
ララは今度雑貨店に寄ったときにでもそれらの工芸品とやらを見てみようと心のメモ帳に書き留めた。
「と、いうわけでお部屋の案内は以上になります。……大丈夫だよね?」
そんなこんなで、ミルによる説明は終わる。
彼女はちゃんとできたか小さくつぶやきながら指を折って確認している。
そのほほえましい後ろ姿を、シアは青い瞳を細めて見ていた。
気分屋で自由気ままな印象の彼女だが、ミルを見る目は妹に気を配る姉のように優しいものだ。
初めて邂逅した際の鮮やかな魔法の技も相まって、共に行動すればするほど、シアという存在は謎めいていた。
ララがぼんやりとシアを見ていると、ミルがおずおずと声をかけた。
「あのー、えっと、この後はどうするんですか?」
「ふえっ!? あ、ああ――とりあえずはお昼ご飯が食べたいわね。それもシアに案内してもらう予定だけど」
「ええ。任せてちょうだい。おすすめのお店に案内してあげるわ」
シアはララの視線を受けて、頼もしく胸をたたいた。
イールに負けずとも劣らない豊かな胸が、たゆんと波打つ。
「どうしたララ? そんな遠い目をして」
「いやぁ。ここにも海はあるんだなって……」
不意に無言になるララを、イールが怪訝な目でのぞき込む。
持つべき者と持たざる者の明確な差がそこにはあった。
「それじゃあ荷物を整えたらエントランスに集合ね」
「分かったわ。ミルも案内ありがとうね」
「いえいえ! こちらこそご利用ありがとうございますです!」
ミルはピピン! と耳を立て直角でお辞儀する。
そうして彼女はまだ仕事が残っているので、と言って部屋を出た。
シアもそんな彼女に続いて部屋を去り、自分の身支度を整えに向かった。
花貝の部屋には、ララとイールとロミだけが残る。
「しかしほんとにいい部屋ね」
改めてぐるりと見渡して、ララがしみじみという。
隅々まで手入れが行き届いていて、閑古鳥が鳴いているとは思えないほど整っている。
確かに経年により劣化している部分もあるが、見方を変えればそれも味というものである。
「普段からミルさんが一生懸命掃除されてるんでしょうね」
ロミがララの隣に立って頷く。
まだ幼い少女だというのに、驚くべき働きぶりだった。
「さ、あたしたちも準備して昼食としよう。もう腹が減って倒れそうだ」
「ぷふふ。イールに限ってそんなこと――」
「なんか言ったかい? お嬢さん」
「いいえなんでもありません」
思わず吹き出したララは、赤い眼光に射抜かれ竦み上がる。
場所が変わっても相変わらずだなぁ、とロミは二人を放置してさっさと準備に取りかかるのだった。




