第八十九話「うん。いいわね、この宿」
『塩の鱗亭』はアルトレットに数件建つ宿屋の中でももっとも古くから存在する店なのだと、案内したシアは説明した。
一階建てのシンプルな木造建築で、確かに潮風に長年吹かれ続けてきた壁や柱は年季が入っている。
窓には分厚いガラスがはめ込まれ、中の様子はぼんやりとしか分からない。
しかも今の時間帯は外の方が明るいために余計に見辛かった。
「ここは寝泊まりだけの宿かしら?」
今まで泊まってきた宿は大体食事もできたため、ララがシアに尋ねる。
「そうよ。あるのはベッドと公衆浴場。ただしお風呂がある宿はここだけ」
「お風呂! やっぱりお風呂は大事よね!」
シアの言葉に、ララは目を輝かせる。
彼女としてはやはりただ桶に張った水で汚れを落とすだけよりも、ゆっくりと温かい湯に浸かって心身の疲れを癒したい。
「風呂か。いいな」
「わたしもここが気になってきました」
どうやらそう思っているのはララだけではないらしく、他の二人もまんざらではない表情である。
シアはそんな三人を見渡して、満足げに頷く。
「よし、それじゃあここで決定ね」
そういうと、彼女は『塩の鱗亭』のドアをくぐる。
ララたちもそれに連なり、薄暗い宿屋の中へと入っていった。
「こんにちはー。お客様三人、つれてきたわよ」
ロビーにやってきたシアは、カウンターの奥に向かって大きな声をかける。
宿の壁には真鍮の燭台がいくつか壁に掛けられ、蝋燭がゆらゆらと周囲をほの明るく照らしている。
長い間使われているのだろう、燭台には溶けた蝋が老人の白髭のように垂れ下がっている。
調度品の類はあまりなく、長椅子がいくつか置いてあるだけだ。
ララはそのうちの一つに腰掛け、歩きっぱなしだった足を休める。
「店員さんなかなか出てこないわねー」
シアの呼びかけにも関わらず、宿の店員はなかなか姿を表さない。
彼女は恥ずかしそうに頭を掻き、ぺこりと頭を下げた。
「ごめんね。この宿、サービスはいいんだけど如何せん人手不足で」
『塩の鱗亭』は、家族経営の宿屋なのだとシアは説明した。
しかし、つい先日主人が亡くなり、その妻も後を追うようにして帰らぬ人となった。
残されたのは幼い娘ただ一人。
彼女も受け継いだ宿屋を潰すまいと健気に頑張ってはいるが、どうにも人手が足りない。
シアは彼女の親友ということで、そのあたりの事情もよく知っていた。
「へぇ、ご両親が……」
「青天の霹靂ってやつだな。大変だろうに」
「それで、娘さんはおいくつなんでしょうか」
「十二歳よ」
「じゅっ!?」
シアの言葉に、三人は目を見開く。
彼女たちが想像していたよりもかなり若い。
なるほど確かに、その年齢で宿屋を一人で切り盛りするのはどんなに優秀でも難しいものがあるだろう。
「人を雇うとか、そういうことはしないの」
「そこまでの余裕はないんだって。この町は最近大きな宿屋が二つ出来て、どっちも外の大都市に本店を構えてる大きな宿なんだって。働き手はあらかたそちらに行ってしまってるらしいわ」
「アルトレットにいくつかある宿ってそういう……」
「そ。この町、海を主眼においた観光地にする計画が建っているらしくて、その前哨戦というわけね」
喜んでいいのやら悪いのやら、とシアは複雑な表情を浮かべる。
規模の違いすぎる二つの大宿に少ない客もどんどんと取られていって、『塩の鱗亭』は連日閑古鳥の鳴いている有様なのだという。
「お、おまたせしましたー。ごめんなさい! シーツを干してたら風に飛ばされちゃって」
そんな時、奥から慌ただしい声と足音が聞こえてきた。
件の宿屋の娘だろうと、ララたちは顔をそちらに向ける。
ぴょこんと、白い毛に包まれた長い耳が見えた。
「ウサギ?」
ぽかん、とララは口を開き言葉をこぼす。
「はい! ミルは獣人族ですよ」
白いふわふわとした短い髪の上に乗った耳をぴこぴこと動かして、少女はにぱっと破顔した。
赤い瞳が、ララの視線と交わる。
丸みを帯びた幼い体の少女は、カウンターから回り込み彼女たちに挨拶した。
「はじめまして。ようこそ『塩の鱗亭』へ! わたしはここの主人で、ミルといいます」
はきはきと喋って、ぺこりとお辞儀する様はとてもかわいらしい。
和やかな空気がその場に流れた。
シアの話によれば彼女は十二歳。
随分としっかりした子だとララは驚く。
「ミル、この人たち今日この町へやってきたの。それで、宿を探してるって行ってたから案内したのよ」
「ふええ、ありがとうございます! も、もう一週間もお客さん誰もいらっしゃらなくて……。今月はシシャモしか食べられないかと……」
シアの言葉に、ミルは目を輝かせて感激する。
十二歳の少女が嘆いていい内容の言葉ではないが。
ミルはララたちに向かって、再度ぺこりと頭を下げる。
「今日はありがとうございます! えと、何泊をご希望ですか?」
ミルはカウンターから分厚い帳簿を抱えてきて尋ねる。
三人は顔を見合わせ、ひとまずイールが前に出る。
「とりあえず、三日で頼む。それ以上泊まるかもしれないが」
「はい! 分かりましたっ! えと、お食事なんかは出ませんが、大丈夫ですか?」
「ああ。シアから聞いてる。その代わり風呂があるんだろう?」
「はい! 自慢のおっきなお風呂があります! お風呂は毎日朝十時から十二時までのお掃除時間以外はいつでもご利用できます」
ミルは自分よりも遙かに背の高いのイールを前にしても臆することなくはきはきと説明した。
イールは前金として三泊分の料金を彼女に渡した。
「ふぉお、銀貨です……。久しぶりに見ました……」
言葉の端々から哀愁を漂わせる少女だった。
「後払いでも大丈夫ですが、いいんですか?」
「ああ。どうせ三泊はするんだしな」
ぎゅっと銀貨を握りしめながら確認するミルに、イールは軽く頷く。
ぴこぴこと耳を揺らして嬉しさを表現する彼女を見るとどうにも庇護欲を刺激される。
「あ、そうだミル」
思い出したように唐突に、シアがぱちんと手をたたく。
「にゅ? どうかしましたか?」
ミルはイールから受け取った銀貨を大切に肩に掛けたポシェットへとしまい込みながらシアを見る。
「ララちゃんたちが泊まってる間、私もここに泊まるわ。ちゃんとお金も払うし」
「ふぇええ!? い、いいんですか? シアさん普通にこの町に住んでますよね!?」
「いいのよ。案内するって請け負ったし、ここで寝泊まりした方が何かと便利だもの」
「じ、自由ね……」
さらっと言い流すシアを、ララは戦慄しながら見つめた。
町までの道中でもうっすらと感じてはいたが、どうやら彼女は相当の自由人らしかった。
「わ、わたしはシアさんがそれでいいのなら大歓迎ですが……」
「そう? なら決まりね」
ミルが頷くと、シアは細い唇で弧を描いて言った。
「えっとお客様、えっと……」
「私はララ。こっちがイールで、この子がロミよ」
「あ、ありがとうございます。えっと、ララさんたちのお部屋へご案内しますね」
ララが手短に名前を教え、ミルは彼女たちの泊まる部屋の鍵を持ってきた。
「三人一部屋でよろしかったですか?」
「十分だろ。いつもそうだったし」
「そうね。今更部屋を分けても高くなるだけよ」
「わたしも特に気にしてませんでしたね」
「分かりました! では、こちらですー」
三人の言葉にミルはほっと胸をなで下ろす。
そうして彼女たちの部屋に向かって歩き出した。
ぴこぴこと歩調に合わせて耳も揺れる。
さらに言えば、服の裾からのぞく短いしっぽもちこちこと揺れていた。
「うん。いいわね、この宿」
「ララの判断基準はよく分からんな……」
何かを確信した様子で力強く言い放つララに、イールは呆れた視線を送った。




