第八十八話「それよりも今は宿とお昼ご飯が気になるわ」
ララたちは先ほどウォーキングフィッシュの群から逃走したときの疲労もあって、無理せずのんびりと進んでいたため、アルトレットの関所を抜けたのは予定よりも大幅に遅れた昼過ぎのことだった。
「アルトレットはヤルダやハギルみたいな大きな壁で囲われてないのね」
関所を背中にして人家が散見される耕作地帯の細い土道を歩きながら、ララが言う。
この町には彼女が今まで訪れた二つの都市とは違って堅固で背の高い防壁は築かれていなかった。
その代わりとなっているのは、イールほどの背丈の木を組んで作った柵だけだ。
あくまで町の境界を示し最低限の魔物の進入を妨害する程度のもので、先の二つと比べると貧相に見える。
そんな彼女の考えを見透かしてか、シアは微笑を浮かべて言った。
「あの町はアルトレットとは比べものにならないほどの大都市だもの。ヤルダは辺境最大の都市だし、ハギルは周囲を魔物の生息地で囲まれてるし。それに引き替えアルトレットは辺境の中でも端っこの方にある田舎町だから人口も少ないわ。周りに住んでる魔獣といえばそれこそウォーキングフィッシュくらいだしね」
「ふぅん。そういうことなのね」
シアの説明を聞いて、ララは納得したように頷いた。
個人的にはウォーキングフィッシュの群生地というだけで脅威度はかなり高いのだが、世間一般的に見れば彼の魔物は最弱にも数えられるほどのものでしかない。
数が多いのでさっきのように群れられると危険だが、味が良いために需要も多く、あそこまで大規模な群が発生することも希なのだという。
「アルトレットは漁業が盛んだって聞いてるが、ウォーキングフィッシュ狩りもやってるのか?」
「漁業六割、狩猟三割、農業一割ってところかしらね。なんだかんだ言って漁師の町だから大体の人は船を出して魚や貝を取ってるわ。でもウォーキングフィッシュ狩りを生業にしてる人もいて、陸漁師とか呼ばれてたりするの」
「農業は少ないんですね」
「海に近いから、あんまり育つような作物もないの。そういうのは大体ヤルダとかからの行商隊から買ってるわ」
彼女たちの歩く町の郊外に広がっている畑は、春先だというのに土の色が目立つ寒々しいものだ。
苗らしき物が植えられた畝もいくつかあるが、ほかのほとんどの畑は耕されているだけであとは手つかずになっている。
「作ってる作物も、薬草とかの生命力が強くて放っておいても育つようなものばかりね」
「じゃあ、海と陸の魚に支えられている町なんですね」
「そういうこと。だからこの町だと魚の司神でもあるフシフが人気なのよ」
「フシフ様ですか。確かに彼女は魚と水を司っているのでアルトレットにぴったりですね」
シアの言葉にロミはうれしそうに声を弾ませる。
ララにはあまり分からなかったが、おそらくはキア・クルミナ教に関連することなのだろう。
「ねえ、ロミ。フシフ様って誰?」
おずおずと尋ねる彼女に、ロミは驚いたように振り返る。
すぐにはっと表情を変えたところを見ると、ララがキア・クルミナ教についてほとんど知らないことを思い出したのだろう。
「フシフ様というのは、キア・クルミナ教における主神アルメリダ様を支える司神の中の一柱です。魚と水を司る神様で、水の眼と透き通った鱗を持っているとか」
「へぇ。キア・クルミナ教って一神教じゃないのね。そういえばロミの魔法詠唱の時にも使徒がどうとかって……」
ララは彼女が戦闘の際に発する詠唱の中に、使徒イワや使徒イェジと言ったような名前が出てくることを思い出す。
それを覚えていることに感激したのか、ロミはうれしそうに頷いた。
「使徒は、それら神々が私たちに加護や神託を与える時の橋掛けとなる存在です。神々ほどの神性はありませんが、それでも私たち地上の者からすれば遙かに神聖な存在なんです」
「ふむふむ。天使みたいな感じかしら。いわゆる天からのお使い」
「そうですね。そのように考えていただければ」
ララの解釈に頷き、ロミはにっこりと満足そうにほほえむ。
彼女が自分の信ずる教えについて興味を持ってくれたのがうれしかったのだ。
「だから、この町には至る所にフシフのレリーフがあるのよ」
いいながら、シアが道端にぽつんと立っている石柱を指さした。
ララの腰ほどの高さの小さな柱は、雨と時にさらされ風化してはいるが、ゆるくうねりながら斜めに走る三本の線とそれに交差するように胸びれを二対持った細長い魚のマークが刻まれている。
「これは?」
「紋章がちょっと他とは違うが、魔除けの聖柱だな」
イールの言葉にシアは頷く。
「ヤルダやハギルだと見ないかもしれないわね。これはイールちゃんの言ったとおり魔除けの聖柱って言って、ロミちゃんみたいな神官によって聖なる力を付与された特別な柱なの」
「これを置いているだけでも周囲に魔物がやってこなくなるんですよ。効果時間が長いぶん、効力は微弱なものですが……」
「それでも、壁を作るよりはずっとお手頃だからアルトレットみたいな田舎町だといろんなところに置かれてるわ。土地が余ってたらとりあえず置いとけって感じ」
クツクツと喉を鳴らし、シアが言う。
そして、この石柱に刻まれた紋章が、魚と水の司神フシフを表すレリーフなのだと続けた。
「ほら、そろそろ町の中心地に入るわよ。建物にもこれが刻まれてるから、そういうのを探すのも楽しいかもね」
そうしてシアが道の先を指さす。
気が付けば一行は閑散とした農耕地帯を抜けて建物の目立つ場所に入ろうとしていた。
石造りが基本のハギルとは違い、アルトレットは木造が多かった。
板を打ち付けた壁が並び、町を貫く通りはにぎやかな声で溢れている。
しかし道は土がそのまま露出しており、石が半端に埋まっていた。
「さすがにハギルやヤルダと比べると質素な町ね」
「あそこと比べるのが悪いさ。あの二つは辺境の中でも五本の指に入る大都市だからな」
「そうねぇ。でも魚介類は絶対アルトレットの方が新鮮でおいしいわよ。なんたって産地直送、なんなら地産地消よ」
ララの率直な感想にシアは苦笑いし、しかし自慢げに言い返す。
確かにあたりからはかすかに潮の香りと魚の生臭い臭いが漂っている。
彼女は遠くのほうでさざめく波の音も捉えていた。
「海岸はもう少し向こう?」
「そうね。広場を挟んで通りを進めば海岸に出るわ。その近くにおすすめの宿があるの」
「おおー、海沿いのお宿ね。オーシャンビューってやつね!」
「おーしゃ? ええ、そうよ!」
オーシャンビューについては通じないようだったが、それでもララが喜ぶ理由は察したらしい。
シアはぴょんぴょんと飛び跳ねるララを見て白い歯をこぼす。
「あ、あれが蒼灯の灯台ですか?」
おもむろにロミが指を差す。
ララとイールがそれに従って視線を移すと、遠方に切り立った崖があり、その先端に白い灯台が建っていた。
名前の通り青い光がぐるぐると回り、沖の船に存在を示している。
「そうそう。あれが蒼灯の灯台。アルトレット唯一の観光名所よ」
自慢なのか自虐なのか、シアが言う。
観光名所と言うだけあって、遠くから見るだけでも美しい。
白と青のコントラストはさることながら、その造形もまるで大きな一つの大理石から削りだしたかのようになめらかな斜線を描く魅力的なものだ。
「あれって近くで見られるの?」
「ええ。なんなら灯台守に話をつければ中にも入れると思うわ」
シアの言葉に、ララは胸を躍らせる。
きっと、あの灯台にもフシフのレリーフは刻まれているのだろう。
そのようなことを考えて、彼女は遠い灯台を見た。
「ま、それはともかく。まずは宿屋ね」
ぱちんと手を打ってシアが話を戻す。
昼も過ぎ、腹の虫も悲痛な訴えを続けている。
まずはそのあたりを整えることが先決だった。
シアの案内で通りを歩き、円形の広場を抜ける。
道すがら、見慣れない三人の少女たちに住民たちが物珍しそうな視線を送っていた。
「アルトレットってあんまり外からは人がこないの?」
「まあ、珍しいと言えば珍しいけど……。それよりも女三人旅っていうのが目を引くんじゃない?」
シアの意見は至極真っ当だった。
確かに、女だけで旅をしているというのはなかなかに珍しいかもしれない。
それに彼女が興味を持ったように、傭兵と神官という組み合わせもなかなか奇特なものだ。
「ハギルとかだと人が多すぎてあんまり目立たなかったが、この辺だと流石に注目を集めるな」
イールも視線を感じていたのか、あたりを見渡しながら言う。
彼女と目が合うと住人はふっと目をそらし、興味がなさそうな顔で歩き去っていく。
「ま、すぐに慣れるさ」
彼女はあくまで楽観的に、そう言い飛ばした。
「そうね、仕方ないよね。それよりも今は宿とお昼ご飯が気になるわ」
住民たちの反応を軽くいなし、それよりも空腹を訴える彼女に、思わず三人は笑みを浮かべた。
揃って吹き出す彼女たちを見て、ララは怪訝な顔になる。
そんな彼女たちがシアに案内されて海辺の宿屋『塩の鱗亭』にたどり着いたのは、それからしばらく歩いてのことだった。




