第八十六話「あらあら、随分と泥だらけになったわね」
黒々とした津波のようにこちら側へ近づいてくるウォーキングフィッシュの塊を、三人は呆然と見る。
いち早く正気に戻ったのは、イールだ。
彼女は呆ける二人に鋭い声をかける。
「おい二人とも、早く逃げるぞ!」
「はえ? そ、そうだ逃げないと」
「はわわ……」
慌てふためきながらも三人は瞬時に身を翻す。
群に背を向けて、彼女たちは必死の遁走を開始した。
荷物を背負ったロッドも共に併走する。
「あれは一体なの!?」
逃げながら、ララが悲鳴じみた声をあげる。
「知るか! とりあえず飲み込まれたら一瞬でマッシュポテトになることだけは分かる!」
「ロミの祓魔陣でなんとかならない!?」
「そ、そんなの描く余裕ないですよぉ! それにあの量だと純粋な物量で突破されちゃいますぅ!」
ララは目の端に涙を浮かべながら、ちらりと後方の様子を見る。
もしかしたら立ち止まってくれてはいないかと、一縷の望みをかける。
「あ、めっちゃこっち来てる! 止まる気配ぜんぜんないよ!」
「それぐらい分かるだろ!? 無駄なことせずに今は逃げろ!」
絶望するララをあざ笑うかのように、その大波は押し寄せる。
性質の悪いことにその進行速度はララたちよりも少しだけ早い。
真綿で首を締めるように、じわりじわりとその距離は縮んでいく。
狭まる幅を気配で感じ、ララは半ばパニックに陥っていた。
横に逸れてやり過ごそうにも、その前に追いつかれて飲み込まれる。
三人と一匹はただ前へ前へと走ることのみを強制されていた。
「ララのナノマシンでなんとかできないか?」
「無理よ無理無理! あんな数とてもじゃないけど捌ききれないわ!」
「流石のララでも無理か……。あたしも厳しいしな」
イールは走りながら対応策を考えていた。
しかしあの卑怯なまでに圧倒的な物量を前にしてしまえば、彼女たち個人の力など足下にも及ばない。
考えれば考えるほどそんな事実に打ちのめされ、彼女は表情を渋くする。
「きゃっ!」
なだらかな丘の斜面を駆け上っていたとき、唐突にロミが声をあげる。
二人が見ると、彼女は草に足を絡めて転倒していた。
彼女の顔に絶望が浮かぶ。
「ロミっ!」
反射的に二人は立ち止まる。
彼女の足下を見れば、ひねってしまったのか、起きあがることもできなさそうだ。
ララとイールは彼女の両脇に立ち、腕を担ぐ。
「ふ、二人ともそんなことしてたら逃げ遅れちゃいます」
「そんなこと言ったって、ロミをおいていけないわよ」
「そういうことだ。なに、二人ならロミくらい運べるさ」
「そんな! わたしに構わず逃げてください!」
二人から逃れようとロミは足掻く。
彼女の腕をがっちりと固定して、二人は走り始めた。
不格好な三人四脚のような形で逃走を再開するが、当然のように距離は詰められ速度も鈍る。
草をなぎ倒して進む魚たちの足音が大きくなるのが分かった。
「お願いします。このままだと二人まで――」
「あんまり喋ってると舌噛むぞ」
ロミの訴えに聞く耳を貸さず、二人は走り続ける。
だんだんと近づく後ろの気配に怯えながらも、ロミの手だけは離さない。
「二人とも!」
もはや新たに行動を起こす余裕はなかった。
少しでも動きが鈍れば、そのとたんに群の波に飲み込まれる。
絶体絶命の状況の中、ロミは悲壮な顔で二人を見る。
自分を支えていることで、二人の走る速度は遅くなっている。
このままでは遅かれ早かれ三人とも同じ運命を辿ることになる。
やはりここは自分だけでも置いて逃げて貰おう。
二人なら、全力を出せばあるいは――。
「『凍てつく青き氷の絶壁よ、彼の物を包みその光を守れ。その澄んだ鋼を不壊の檻とせよ。千の剣万の鏃を阻む水の壁となれ』――そこの三人止まって!」
滔々と紡がれる詠唱。
鋭く大気を貫くような声が響く。
声に従ったわけではないが、イールとララは驚いて一瞬足の運びが鈍る。
その瞬間、三人を中心にして氷の壁が円形にせり上がる。
「なっ!?」
「こ、これは……」
氷は一瞬で分厚い壁を作り上げ、そのまま半球状のドームを形成した。
内部に捕らわれたララは驚愕し、その壁を破壊しようとハルバードに手を伸ばす。
「待て! 落ち着け!」
それをイールが声と手で制する。
その瞬間、ウォーキングフィッシュの群に彼女たちは飲み込まれた。
ドームの横を、上を、黒い魚群が滑るように走っていく。
半透明で光を通す氷の内部が一瞬で真っ暗になる。
その様子を呆然と見て、ようやくララも状況を理解し始めていた。
「この壁……私たちを……」
「とりあえず、これで目下のところの危機はなくなったな」
地面にへたり込み、イールが大きく息を吐く。
突拍子もない出来事に巻き込まれ、彼女でさえ大きく肩で息をしていた。
「あの、すみません……。わたし……」
ロミがうつむき、ふるえる喉で声をこぼす。
地面に付いた手はぎゅっと草を握っている。
二人は顔を見合わせると、そっと彼女の肩に手をおいた。
「転んだのは、ロミのせいじゃない。あたしだって、ララだって、転んでたかもしれない」
「助けたのは私たちがしたことだから、気にする必要はないよ」
「でも、でも、二人も死んでしまったら!」
「仲間見捨てて生きるよりはいいよ」
「右に同じく、ね」
考える様子もなく言い返す二人の目を交互に見て、ロミはじわりと涙を流す。
「え、ちょ、やっぱり足痛むの!?」
「薬は多少あるが、包帯とかはロッドの背中だぞ」
とたんにおろおろと取り乱す二人。
それを見て、ロミは泣きながらも表情を緩める。
「ええ、なんで泣きながら笑ってるの!?」
「すみません……。二人とも、いい人だなって思って」
ぐずぐずと鼻を鳴らし、ロミは涙を拭う。
そうして彼女はすっと姿勢を正すと、二人を見据えた。
「ありがとうございます。命を助けていただいて。二人がいなかったら、わたしは今頃死んでいました」
ララとイールは、硬い表情で言うロミを見て、二人同時に吹き出した。
「仲間を助けるのは当然でしょ?」
「さっきも言ったが、仲間を見捨てて生きても、それは死んでるのと同じことだよ」
またあふれ出す涙を、ロミは拭う。
そうして、彼女は今度こそ輝くような笑みで頷いた。
「あらあら、随分と泥だらけになったわね」
そのとき、唐突に第三者の声が上から降り注いだ。
三人が顔を上げると、ドームの天井にぽっかりと穴があいていた。
「誰かしら?」
ララが呼びかける。
穴からは、濃い青色の長い髪をした女性が静かな笑みを湛えて覗いていた。
細い切れ長の瞳からは、氷のように透き通った青い光が反射している。
彼女が何事かを呟くと、ウォーキングフィッシュの大波にも耐えきった氷がいともたやすく溶けてゆく。
氷の壁が消え、彼女の全身が見える。
白い布地に、青いラインで文様が刺繍された動きやすそうな服に身を包み、白魚のような指には青い宝石の指輪が収まっている。
涼やかな印象を受けるその女性に、ララは思わずほぅ、と息をはいた。
「あんたが、あたしたちを助けてくれたのか?」
イールが立ち上がり、女性に尋ねる。
それに対し、彼女は微笑と共に頷いた。
「散歩してたら偶然貴女たちを見つけたの。助けが必要だと思ったから」
「ありがとう。本当に助かったよ」
イールは女性に向かい、深く頭を下げる。
後ろに立っていたララとロミもそれに続く。
女性は少し驚いた後、ぱたぱたと手を振った。
「そんなに頭を低くしないで。そんなにすごいことをした訳じゃないもの」
「でも、この氷の壁はかなり高位の魔法だと思うが」
「確かに多少難しい部類の物ではあるけど……。私たちにとってはそこまでね」
氷のドームは驚くほど堅く、ウォーキングフィッシュの群に飲み込まれてもひび一つ入らなかった。
これほどまでに堅牢な氷を生成するなど、かなりの手練れだろうとイールとロミは考えていた。
そんな彼女たちに笑みを投げかけ、女性は腰に手を当てる。
「私はシア。この先にある港町に住んでるの」
「港町? それって、アルトレットか?」
イールの質問に、シアは頷く。
「アルトレットは、あたしたちが目指してた町なんだよ」
「あら、そうだったのね。なら、一緒に行きましょうか。案内するわ」
「ありがとう。助かるよ」
三人の目的地が分かると、シアは驚いたように目を開く。
そうして快く案内役を引き受けてくれた。
「さ、ロミも行きましょ」
「はい。ありがとうございます」
ララは立ち上がれないロミに肩を貸し歩き始めたシアとイールを追う。
ふと彼方へ視線を向けると、なおも進み続けるウォーキングフィッシュの群が、黒い染みとなって地平線に滲んでいた。




