第五十二話「これなら、味も期待できそうね」
ララたちが翡翠屋へ戻ると、リルは大きな籠に洗い立てのシーツを入れて運んでいるところだった。
ごくごく普通のサイズの籠も、ドワーフの彼女が持てば一回り大きく見える。
「あら、お帰りなさい。どうだった?」
リルは籠の後ろから顔を覗かせて、成果を尋ねる。
ララが頷くと彼女もぱっと笑顔を浮かべる。
「そう、牧場のエメンタールさんで合ってたのね。それは良かったわ」
うんうんと首をゆらし、リルは言う。
そうして彼女はララの持つ卵に気が付いたようだった。
「あら? どうして卵なんて持ってるの?」
「エメンタールさんに貰ったの。これで温泉卵を作っても良いかしら?」
そういえばリルには話していなかったな、とララは彼女に説明する。
リルは翡翠の目に好奇心の輝きを見せる。
聞き慣れない料理に、彼女も興味津々の様子である。
「今は貴女たち以外にお客さんもいないし、温泉の隅を使って良いわよ。上手くできたら、是非私にも食べさせてちょうだいね」
「ありがとう! もちろんおいしくできたらすぐに知らせるわ」
そんな約束を交わし、リルはシーツを干すため裏庭に、ララたちは宿屋の中に入っていった。
クッカは仕入れた食材を厨房の保管庫に運ぶ為、奥に消える。
ララ、イール、ロミはひとまず、部屋に戻ることにした。
「わ、綺麗に掃除されてる」
「リルさんですね。とっても丁寧に……」
三人が部屋に入ると、部屋は綺麗に掃除が施されていた。
窓枠から床の隅に至るまで埃が払われ、丁寧に水拭きされている。
先ほどリルが運んでいたシーツは、この部屋のものだったらしい。
行き届いた丁寧なサービスに、三人は感嘆の声を漏らす。
「これだけ快適な宿だから、噂が広まればすぐに客で一杯になるだろうな」
つつ、と窓枠に指を滑らせながらイールが言う。
今はまだできたばかりのこの宿も、彼女の言うとおりじきに客足の絶えない人気店になるだろう。
早い時期に泊まることができた幸運に、三人は心の底から感謝した。
「さて。とりあえず私はこの後、温泉卵を作ろうと思うけど、二人はどうするの?」
「わたしは神殿に行ってきます。武装神官としての務めと、レイラ様への報告をしようかと」
「なら私も町にいくよ。工房とか、色々見て回りたいんだ」
ララが温泉卵に熱を出す間、ロミとイールは共に町へと繰り出すようだ。
ララがダメ元で一緒に作らないかと誘ったが、間髪置かずに首を横に振られる。
「わたしはあまり料理が得意ではないので……」
「右に同じく。ついでにいうと細々した作業は性に合わん」
「魚捌いたりするのは嬉々としてするくせに」
「あれは必要な技術だからな」
口をとがらせるララの言葉も、イールはすげなく躱す。
彼女としては、卵が固まる様を見るよりも鉄が打たれる様を見る方がよっぽど有意義なのだった。
「それじゃ、私はここに残るわね。で、二人は町に行くと」
「そういうことですね」
「なんか面白い物があったら買ってきてやるよ」
「期待しないで待ってるわ」
そう言い交わして、ロミとイールは荷物を整えると宿屋を出る。
ララはそれを見送ると、早速卵を抱えて温泉に向かった。
「あ、一応言っといた方がいいよね」
ララは裏庭に回り、リルを探す。
彼女は物干し竿に向かい、白いシーツを広げて皺を伸ばしていた。
「なんだかとっても微笑ましいわね」
ララはそっと宿の建物の影から顔を覗かせて、彼女の仕事ぶりを見る。
自分の身長より少し高い竿にシーツを掛けるとき、ぴょんと少しジャンプするのが可愛らしい。
「とても一児の母とは思えないわ……」
その様子はまるで縄跳びで遊ぶ少女のようである。
ララは少しの間それを眺め、頬を緩めて癒やされる。
「っとと、こんなことしてる場合じゃないわね」
はっと正気に戻り、ララはリルの方へと歩み寄る。
声を掛けると、彼女はぱっと振り向いた。
「あら、ララ。どうかした?」
「今から温泉、使わせて貰うわね」
「ええ。楽しみにしてるわ」
快いリルの返事に感謝して、ララは今度こそ温泉へ向かう。
エメンタールから譲って貰った卵はかなりの数だ。
少しずつ試していけば、十分な量ができるだろう。
ララは脱衣所に着くと、ズボンの裾と服の袖を短く捲る。
濡れても良いように服装も整え、少し緊張しながら温泉へと足を踏み入れた。
「服を着たまま入ると、少し新鮮ねぇ」
周囲を木板の壁で囲われているとは言え、頭上には青空の広がる露天風呂である。
乾いた石の床を裸足で歩き、湯気の立つ白濁した湯船に近づく。
「流石に、私たちが昨日入った所で作るのはアレよね……」
どこか良い場所は無いかと彼女は場内を探る。
そもそもの話、彼女たちが適温と感じる程度のお湯の温度では少し足りないのだ。
「あそこがいいかしら」
そういって彼女が歩み寄ったのは、温泉の湧き出す源泉の周囲だった。
装飾を意識してか、湧泉は湯船よりも一段高く作られており、小さな円形の縁に囲われている。
そこで一度溜められたお湯は縁に開けられた隙間から流れ落ち、その過程である程度温度が下げられているようだった。
「温度的には、良い感じだと思うんだけど」
手を湯に滑らせて、むむ、と唸る。
湯船よりも熱いお湯は、温泉卵を作るにはよい温度だろう。
ララも実際に温泉卵を作った経験は無いため、殆ど勘が頼りの作業である。
「こういうとき、ナノマシンって特に役立たないのよねぇ」
仕方ないことだとは思いつつ、ララはため息をつく。
彼女の持つ膨大な量を誇るデータベースの中にも、温泉卵の作り方などはそれほど詳しく書かれていない。
「ひとまず一個使って見ましょうか」
ララは籠から卵を一つ持ち、そっと沈める。
「む、ネットか何かがあった方が良かったわね……。うーん」
ナノマシンによる身体強化によって熱自体はあまり気にならないが、それでもずっと持ったままというのは少し面倒だ。
何か使える物は無いかと周りを見渡すが、めぼしい物はない。
「どうした物か……。あ、そうだ!」
ララはポーチから手ぬぐいを取り出す。
ヤルダで購入した旅の道具の一つである。
彼女はそれに卵を包み、そっと浸ける。
ポコポコと湧き出す湯に揺られ、卵を包んだ手ぬぐいがふらふらと動く。
「あとはー、これを使えば良いか」
ふらふらと揺れる手ぬぐいの結び目に、待機状態のハルバードの棒を通す。
それを湧泉の縁に掛ければ、ララが持ち上げなくても丁度いい位置を維持することができる。
「とりあえず、試作段階ならこれでいいでしょ」
腰に手を当ててララは汗を拭う。
水蒸気のむっとした熱気で満ちたここは、いかに露天だからと言ってもすぐにじわりと汗が滲んだ。
「とりあえず、二十分くらいで様子を見ましょうか」
ララは備え付けの椅子に腰を落ち着けて時を待つ。
ナノマシンのおかげで、彼女は時計などを見ずとも正確な時間が分かる。
というよりも、この世界の時計があったところでそれが彼女の知る時間と同じという保証はないのだ。
「一日の長さは星によって違うし、この世界って時間が結構アバウトな気がするのよねぇ」
通信技術や輸送技術の発達した彼女の世界では、時間は柱にも檻にもなる絶対的な指標だった。
対して、ここでは全体的に緩慢とした時間が流れているように感じる。
「どっちもどっちだけど、私はゆったりと過ごせる方がいいわね」
ぼんやりと青空を流れる雲を数えながら、ララはそう零した。
時間に追われるよりも、時間を追いかけたいというのは彼女の持論である。
「そういえば、この世界の卵って私の知ってる鶏の卵じゃないよね」
ふと至極当然な事実を思い出し、ララは籠の上の卵を一つ手に取る。
見た目では、彼女の知る物とそう代わらない。
親指と人差し指で挟める程度の、白い卵である。
少しざらざらとしていて、形も楕円形だ。
問題は、性質までが一緒なのか、という点だ。
「久しぶりに使うわね。――『解析』」
白い光が細い腕を伝い、卵を覆う。
ナノマシンが卵の組成を調べあげ、結果を彼女のデータベースに反映する。
立体的なイメージモデルも構築され、ララは擬似的に卵を立体的に透視することができた。
「うん。大体一緒ね。ちょっと魔力を含んでたり、栄養素が違ったりするけど」
そうして得られた結果は、彼女も納得できるものだった。
殻があり、白身があり、黄身がある。
収斂進化とでも言うべきか、九割以上の部分で彼女の知る卵と一致している。
「これなら、味も期待できそうね」
満足して頷き、ララは一つ目の試作卵ができるのを今か今かと心待ちにしていた。