第四十五話「イールが男の子に叩かれて晩ごはんが無料になったわ」
宿の表の方から響く若い少年の声。
リルはそれを聞くや翡翠の目を逆三角形にして肩をすくめた。
「えーっと、あの声は……」
「私の息子ね。ごめんなさい、ちょっと行ってくるわ」
リルは申し訳なさそうに言って、さっと踵を返す。
小走りで向かう彼女の背中を見送って、ロミが言う。
「わたしが部屋で荷物番をしておくので、ララさんはイールさんのところへ行ってくれませんか?」
「それもそうね。分かったわ」
ロミに腰のポーチを預け、ララは来た道を戻る。
「確か宿の裏に厩舎があるって言ってたわね。一度外に出ないといけないかしら」
そんなことを呟きながら、ララはロビーに戻る。
それと同時に、彼女の耳を怒号が貫いた。
「お客様に何失礼なことしてるの!!」
「うひっ!?」
声を荒げるリルに、ララは思わず飛び上がる。
彼女の悲鳴を聞いて、リルがぱっと振り向きばつの悪そうな顔で頬を掻いた。
「ああ、ごめんね。驚かせちゃって」
彼女はそう言うと、深く頭を下げる。
その腰に、ぎゅっとしがみつく半べその少年を、ララは目敏く見つけた。
リルと同じ翡翠色の目に、濃茶の髪の幼い顔立ちの少年だ。
ララから見ると、まるでリルとその少年は姉弟のように見える。
更に二人の傍らには、困ったように眉を寄せるイールの姿もあった。
「えっと、これはいったいどういう状況なのかしら」
いまいち事態が掴めず、ララが首をかしげる。
リルは一つため息をつくと、事情を説明した。
「このバカ息子――クッカっていうんだけどね――この子がイールさんを泥棒だと思って箒でひっぱたいたんだよ」
「ええっ!?」
本当にごめんなさいね、と何度も頭を下げながらいうリルの言葉に、ララは心底驚く。
そうして、ふつふつと胸の奥から笑いがこみ上げてきた。
「……ぷふっ」
「おい。何がおかしいんだよ」
思わず吹き出したララに、むすっとした様子のイールが糾弾する。
「いや、だって。傭兵さんが子供の一撃も躱せないなんて……。ぷぷっ」
「突然樽の中から箒を持った子供が飛び出してきたら、誰でもびっくりするだろ」
なおも笑い続けながら言うララに、イールは頬に赤を浮かべながら反論する。
自分でも油断していたと自覚している分、余計に羞恥心が湧くのだろう。
「とにかく、うちの息子が迷惑掛けちゃったわね」
二人の元へ近づいて、リルが再度謝る。
傍らに連れたクッカの脇を小突き、同様に謝らせた。
二人はむず痒そうな顔を見合わせて、二人を制した。
「もう十分謝ってもらったし、大丈夫だよ」
「ほら、イールもこう言ってるし、顔上げて」
そんな言葉に、リルたち親子はゆっくりと顔を上げた。
クッカは鼻を鳴らし、こぼれそうになった涙を服の袖で拭った。
「そうだ、お詫びに今夜の夕食はサービスするわ。うちの名物はこの辺で獲れるヒージャ肉の料理なのよ」
ぽんと手を打って言うリム。
両者はその申し出を受けることで、今回の件は流すことで合意した。
「ねえ、ヒージャってどういうものなの?」
ララが尋ねると、得意げな顔で答えたのはクッカだった。
「ハギルに住んでる山羊の魔物だよ! 最近、牧場もできて沢山食べられるようになったんだ」
クッカはヒージャを使った料理が好きなのか、翡翠の瞳をキラキラと輝かせて言う。
その説明を聞いて、ララはふむふむと頷いた。
「そのヒージャっていうのが、エメンタールさんと関係してそうね」
「そうだな。明日にでもその牧場に行ってみようか」
コンテから預かった手紙の事を思い出し、二人は頷く。
「ねえクッカ、そのヒージャの牧場の場所って分かる?」
「もちろん! 毎朝オレが牧場に行って肉とミルクを買うんだよ」
「そうだったの。それだったら、明日私たちも付いていっていいかしら?」
ララの問いかけに、クッカは困ったように母親の方を見る。
リルが頷くと、彼はぱっと笑みを浮かべて頷いた。
「任せて! オレが姉ちゃんたちを案内するよ!」
威勢の良い声を放つ小さな少年に、ララは思わず頬を緩める。
別段小さい子が好きだというわけでも無いが、こういう子供を見ると不思議と笑顔になれる。
「うん、よろしくね。――それじゃあ、とりあえず部屋に行きましょうか」
「そうだな。流石に疲れたし」
「それじゃあまた都合の良い時間に来て頂戴。おいしいヒージャ料理を作って待ってるわ」
そういうことで、ララたちはリル親子と別れて部屋へ向かう。
客室のドアを開けると、備え付けの椅子に腰掛けてゆったりと過ごすロミが顔を上げた。
「あ、おかえりなさいです。結構遅かったですが、何かあったんですか?」
「イールが男の子に叩かれて晩ごはんが無料になったわ」
「はあ……?」
ララの簡潔すぎる説明に、ロミは怪訝な顔で首をかしげる。
「そんなので分かるわけ無いだろ」
「あいたっ!?」
見かねたイールがララの後頭部をぺちりと叩き、詳しい説明を続ける。
それで事の顛末を理解したロミは、大変でしたねと苦笑いでイールをねぎらった。
「ああ、それともう一つ。上手くいけば明日、エメンタールさんと会えるかもしれないわ」
「コンテさんの旦那さんですよね? 見つかったんですか?」
ロミに牧場のことを話せば、彼女はすぐに理解して手を打った。
「そういうことでしたか。なんだか順調に事が運んで気持ちいいですね」
「ま、その牧場にエメンタールさんがいるともかぎらないんだけどね」
そんな言葉を交わしつつも、ララは内心で半ば以上明日の成果を確信していた。
ヒージャが見つかったのは三年前。
それならば、牧場の数もそんなに多くないだろうと彼女は予想を立てていた。
「まあ、とりあえず今のところは晩ごはんの時間になるまでゆっくりしとう」
「そうですね。ヒージャ料理、わたしも食べたことないので楽しみです!」
「あたしも山羊は食べたこと無いな。羊と似たような感じなんだろうかね」
三人は今晩の食事に思いを馳せつつ、各々荷物の整理を始めたり身体を休めたりし始める。
ララは三つ並んだベッドの一つに寝転がり、柔らかい清潔なシーツに身を沈める。
「……うーん、やっぱりちょっと窮屈ね」
そうしていつもより少し小さな木枠に背を当てて、顔をしかめた。




