第四十話「寂しいでしょうに、心の強い奥さんだわ」
「ふー、食べた食べた」
舐めたように欠片の一つも残らない大皿を囲み、三人は満足げに温かな息を吐く。
溢れんばかりのチーズはすっかり無くなって、ほんの少しを鉄鍋の縁に焦げ付かせるだけだ。
ずっしりとした充足感を伴う重い下腹をゆっくりとさすりつつ、ララは食後のお茶を飲む。
「いやぁ、おいしかったねぇ」
「チーズ自体は保存食にもなるからたまに食べるが、これだけたっぷりと食べたのは久しぶりだな」
「まさしく、ここはこの世の楽園ですね~」
イールはパリッと薄く焼けたチーズの欠片を摘みながら言い、その隣ではロミがくったりとテーブルに伏していた。
ゆったりとした時間が流れるテーブルで、三人はのんびりと食後の余韻を楽しむ。
「まあまあ、綺麗に食べてくれて。作り甲斐があるわね」
食器を下げにやってきた女主人は、すっきりとした食卓を見て目を丸くする。
「ありがとう。とってもおいしかったわ」
ララがお礼を言うと、彼女は顔に皺を浮かべて破顔した。
「ちょっと作りすぎちゃったかと思ったけど、ちょうど良かったみたいね」
「チーズがとってもおいしくて、気が付いたら無くなってたのよ」
「こんなに美味しいチーズ、初めて食べました!」
口々に絶賛する彼女たちに、女主人は手を振って顔を赤らめた。
彼女も含めたこの村の人々は、皆自分たちが手がける特産チーズに多大な誇りを持っているのだろう。
「お嬢さんたちは旅人よね?」
どこに行くの? と女主人はテーブルの皿を重ねながら尋ねる。
イールがハギル山脈の名前を出すと、彼女は口に手を当てて驚いた。
「まぁ、あんな遠くまで。女の子たちばっかりなのにすごいわねぇ」
「あはは。あたしは女の子って年齢じゃないよ」
「そうそう。――ひっ」
小さく頷いたララを、イールはギロリとにらみつける。
鋭い殺気を浴びたララがさっと血の気を引いて目を逸らす。
そんな彼女たちのやりとりには気が付かず、女主人は俯きがちに口を開いた。
「もしよければなんだけどね、少し頼まれてくれないかしら」
三人はきょとんと視線を交わし、すぐに頷く。
「一宿一飯の恩もあるし、よろこんで引き受けるわ」
「荷物にも余裕はあるし急ぐ旅でもないからな」
「わたしも構いませんよ」
三人の快い言葉を聞いて、婦人はぱっと顔を輝かせる。
重ねた皿を持って足早にカウンターの奥へと引っ込むと、すぐに一通の便箋を持って現れた。
「これを、ハギルにいるわたしの旦那に届けてほしいの」
「手紙か……。あたしたちじゃなくて配達ギルドに頼んだ方が確実だと思うが……」
イールの助言に、彼女はふっと顔を曇らせる。
「配達ギルドに頼むほどの蓄えもなくてね。まあ、届かなければそれでもいいの」
「――そうか。なら、あたしたちに任せな」
「ちゃんと責任持って旦那さんに届けるわ」
イール達は便箋を受け取り、力強く頷く。
婦人は目の端に涙を浮かべて深く腰を折り曲げた。
「わたしはコンテ。旦那はエメンタールって名前よ。ハギルで畜産技術を教えてるの」
「コンテさんって言うのね。分かったわ」
宿屋の女主人改め、コンテとその夫であるエメンタールの名前を、ララはデータベースの余白にしっかりと記録する。
こういう時に、確実に記録できるナノマシン由来のデータベースは使い勝手が良いのだった。
「ハギルって、何か家畜を飼ってましたっけ?」
話を聞いていたロミが、ふと首を傾げて疑問を口にする。
コンテは口元に笑みを浮かべると、ロミに向かって説明した。
「今までは過酷な環境すぎて、なにも飼えないと思われてたの。けれど最近になってハギルに野生の山羊の魔獣が見つかってね、旦那はその山羊を家畜化するために呼ばれてるのよ」
コンテの話によれば、エメンタールは優れた牧人だった。
それは畜産の盛んなこの村の中でも随一と謳われており、今はその技術と知識を買われてハギルまで出向いているそうだった。
「もともとこの宿はあの人の家が代々やってたのよ。けれど夫には兄弟もいなかったし、義両親も随分前に亡くなったから、ひとまずわたしが切り盛りしてるの」
「それは……。中々大変そうね」
一人で宿を切り盛りする苦労を慮りララが労うと、コンテは大きく笑って答えた。
「あの人が村を出たのは、もう三年も前の話よ。ずっとやってきたし、もう慣れたわ」
けれど、と彼女はまた顔を曇らせる。
「はじめの頃は頻繁に手紙も送ってくれてたんだけどね。少し前に突然止まっちゃったのよ」
「それでこちらから手紙を……?」
「ええ、そういうことよ」
コンテは頷き、不安を誤魔化すように頭を振った。
「うふふ。色々喋りすぎたみたいね」
ごめんなさいね、と謝る彼女に三人は気にしていないと首を横に振る。
そうして、手紙は必ず届けると彼女に固く約束した。
*
「旦那さんが遠くに行っちゃったのねぇ。寂しいでしょうに、心の強い奥さんだわ」
場所は変わり三人は宿屋の一室に戻る。
ララはベッドの縁に腰掛けて、先ほどのやりとりを思い返していた。
「ちょっと順番が違うが、遠距離恋愛みたいなものか。その上ずっと送られてきてた手紙が止まったんなら、内心気が気じゃないだろうな」
剣の刃を立てながら、イールが相づちを打つ。
「しかし、ハギルでも家畜を飼い始めてたんですね」
知らなかったとロミは言う。
レイラほどの地位にあればキア・クルミナ教の情報網によってすでに情報は仕入れていただろうが、一介の武装神官である彼女にとっては寝耳に水な事実である。
彼女の感想にはイールも同意らしく、うんうんと頷いていた。
「ハギル山脈ってそんなに過酷な土地なの?」
唯一、そもそもハギル山脈についてなにも知識を持たないララが首を傾げる。
「そり立つ急峻な尾根もさることながら、ほとんどが岩と土でできた灰色の土地ですからね。住めるのはそれこそドワーフ族くらいだとまで言われてます」
「最近だと麓のあたりに町ができて、そこに他の種族も住み始めたがな。それでもやっぱり頂上付近は誰も行きたがらない魔境なのさ」
ロミ、イールの説明に、ララは眉を寄せる。
彼女の考えていた山は、せいぜいが小高い丘程度のものだ。
緑が青々と茂り、動物達が駆け回り、彩色豊かな小鳥達がさえずる長閑な風景を、彼女は母星で暮らしていたときに教育ツールを用いて習っていた。
しかし、彼女たちの説明を聞くぶんには、どうやらハギル山脈という土地はララの思い描く平和な光景とは縁遠いようである。
「リディア森林と共に辺境を辺境たらしめる壁の一つだ。ハギルを越えた者なんて、歴史書を開いても片手で足りる数くらいしかいないんじゃないのか?」
「神殿の図書館にも、その手の記録は無かったと思います」
ダメ出しのように言葉を重ねる二人に、ララはどんどんと顔に苦渋を浮かべた。
「なんだか……、思ってた山と違うわ」
「あはは。まあハギルほどの山になれば、逆に感動できる絶景だぞ」
「キア・クルミナ教から見ると異教徒になりますが、あのあたりの土着信仰の中にはハギルを霊峰として崇めている宗教もありますね」
脅しているのか慰めているのか分からない二人は、むんむんと唸りだしたララを見て顔を見合わせた。
そうして、どちらともなくぷっと吹き出す。
「もー、なに人の顔を見て笑ってるのよ」
ぷっくりとハムスターのように頬を膨らませるララに、イールは我慢しきれず盛大に笑い出す。
見れば、ロミも顔を背けて肩を小刻みに振るわせていた。
「もーー! 二人とも人を馬鹿にして!」
「あはははっ。すまんすまん、随分と膨らむほっぺただと思ったら、ぷくく、おかしくて」
「むきぃ! 覚えてなさいよ」
目に涙を浮かべて笑いをこらえるイールに、ララは更に頬を膨らませる。
その拗ねた子猫のような反応に、イールはまた吹き出してしまうのだった。




