第三十八話「ねえイール、背中拭いてー」
ヤルダを中心に据え北へ地図を広げると、やがて指は東西に長く連なる山脈に阻まれる。
それは、リディア森林と共にこの地をガリアル王国の辺境として独立させる壁となる山だった。
灰色に翳り天を貫くその山脈は、名をハギルと言った。
古くよりドワーフたちが住み、坑道を掘り進め、数々の名のある武器を鍛え上げた。
「それで、そのハギル山脈まではどれくらい掛かるの?」
ふらりふらりと揺れるロッドの尻尾の先を追いながら、ララがイールに尋ねる。
イールは片手に持っていた何かの本を閉じて懐にしまうと、顔だけを彼女に向けた。
「そうさな。歩きだと大体七日くらいか」
「随分と掛かるのね」
コパ村からヤルダまでは、三日ほどの旅だった。
つまりヤルダからハギルまではそれの倍以上の道程だということである。
ララはこれから待ち受ける長い旅路を思うと、知らず知らずのうちに口をへの字に曲げた。
「まあ、そんな顔しなくても。途中には小さい町もありますし、のんびりと行きましょう」
そんな彼女を天使のような笑顔と言葉で慰めるのは、やはりロミの役割だった。
彼女は長い白杖を付きながらロミの隣を歩き、ハギルまでの途中にある町について語った。
「ヤルダとハギル山脈の丁度真ん中ほどの所に、アルディバという町があるんですよ。酪農が盛んな町で、特に名物の氷魔法を使ったソフトクリームは絶品なんですよ!」
「ソフトクリーム! いいわねぇ」
うっとりと頬をとろけさせるように言うロミの言葉に、ララは俄然やる気を出したようだった。
青い瞳に星のような輝きを浮かべると、さくさくと足を動かす。
「さあイール、早く行くわよ!」
「おいおい、そう急ぐなって。距離的にはアルディバはコパ村と同じくらいの位置だぞ」
「むぅ……。それじゃあそれまではお預けなのね」
イールの現実的な言葉に、先ほどとは一転してしょんぼりと肩を縮める。
ララは良くも悪くも感情の起伏が激しいようだった。
「今日、宿を取る予定の村にもチーズとかはあるみたいだぞ?」
「うむむ、そうじゃないのよ」
取り繕うイールに、ララは「これだから素人は」とため息をつきながら首を振る。
どちらかと言わなくてもララの方が素人なのは火を見るより明らかなのだが、二人はあえてつっこまない。
「いい? 本場で食べる本物以外は全てまやかし、偽物、偽造品なのよ!」
びしりと人差し指を突き出して、ララはイールに宣言する。
逆三角形の冷たい目で見られていることには、気が付いていないようである。
「そこまで言うのは流石に失礼だろ」
「う、……ごめんなさい」
冷静沈着なイールの言葉に、ぐっと詰まった彼女は素直に頭を下げる。
しかしすぐに顔を上げると、イールに詰め寄って言った。
「でも、私は本場のアイスクリームが食べたいの!」
「はいはい。分かったよ。アイスクリームはアルディバで食べれば良い。でも、今日の村で作られてるチーズはヤルダの評議会にも愛好家がいる名産だぞ」
「む、それはなかなか興味深いわね。是非食べてみたいわ」
イールの巧みな言葉繰りによって上手く目先の獲物がチーズにすり替わったララに、ロミはなんとも言えない表情で空笑いする。
当の本人は細い顎に手を当てて真剣に考え込んでいて、自らの置かれた状況に気が付いていないようだった。
「よし、イール! それじゃあまずはチーズを食べましょう」
「へいへい。お嬢様のご要望の通りに」
目をらんらんと輝かせ、遙か道の続く先を見据えるララ。
イールは呆れたようにそれを見て、ぺこりとおどけた礼をしてみせた。
*
三人がエトナ村に着いたのは太陽が稜線に掛かるか掛からないか、といった時刻のことであった。
広大な牧草地帯の中央にちんまりとした数件の家が建つ、小さな村である。
村の人数の数十倍もの家畜を飼う、酪農によって生計を立てるその村では、人家よりも厩舎の方が広く頑丈で立派な作りをしていた。
「こんばんは。今日一晩泊めて貰いたいんだが」
「あら、旅人さん? 珍しいわね」
村に唯一の宿屋にイールが入ると、ふくよかな婦人がにこやかに出迎える。
彼女は慣れた手つきで帳簿を差し出し、イールはそこに記名する。
「馬を一頭と、三人なんだが」
「宿屋の裏に厩舎があるわ。三人は相部屋でも良いかしら?」
「ああ、それで構わない」
彼女の案内で、ロッドはふかふかの藁の敷かれた厩舎で休む。
ララとロミも宿屋に入り、そのまま部屋まで案内された。
水は一人につき大桶一つ、食事は別料金という至って普通の宿である。
「ここが今日泊まる部屋ね」
三人が案内されたのは、ベッドが三つならぶ相部屋だった。
古びてはいるが丁寧にしつらえられたシーツに、鍵の掛かる箱も置かれている。
魔導ランプはないが、代わりにろうそくの刺さった普通のランプが壁際に吊られていた。
「普通にいいお宿ですね」
ベッドの縁に腰掛けて、神官服を脱ぎながらロミが言う。
彼女が重い衣を脱ぎ捨てれば、意外にほっそりとした身体が現れる。
厚い布地は光を通さないのか、ララに負けず劣らず白い染みのない絹のような肌である。
「……案外ロミって華奢よね」
「ご飯はたくさん食べる方だと思うんですが、あまり太らないんですよ」
長い金髪を軽く手櫛で梳きながらロミは何気なく答える。
「はー、うらやましいねぇ」
そんな彼女の言葉に反応したのは、鎧の金具を外していたイールだった。
彼女は自分の腹部を撫で、その後ロミのほっそりとしたそれと見比べる。
「イールだって引き締まってるじゃない」
「そりゃあ毎日鍛錬してるからね。でも元々は太りやすい体質だから、油断するとすぐつまめるように……」
顔を青くして言うイールには、何か思い出したくない過去でもあったのだろう。
「いっそのこと魔力じゃなく脂肪を喰えばいいのに」などと恨みがましい視線を右腕に送っている。
「そういえば、ララはどうなんだ?」
「へ、私?」
突然話を振られ、ララは豆鉄砲を食らったように呆ける。
興味津々といった様子の二人の視線に負けて、彼女は渋々口を割った。
「私は、その……。そもそもナノマシンがエネルギーをバカ食いするのよ。まあ余剰エネルギーは全部ナノマシンが食べてくれるわ」
「ぐう、羨ましい!」
「あはは。まあ神殿での晩餐の時は凄かったですもんね」
心の底から羨ましそうなイールに、ララは軽い笑いで誤魔化す。
ロミは彼女がレイラの厚意で神殿での晩餐に招かれた際、神殿の食料庫をほぼ空にした事を思い出した。
おそらく、以後レイラは彼女を晩餐に招くことはないはずだ。
「まあ、太ろうと思えばいくらでも太れるのよ。ナノマシンを極力使わなかったらいいだけだし」
「誰が好き好んで太りたいと思うんだよ」
ララの弁明に、イールは半眼になって言う。
油断すればすぐに肉の衣ができはじめる彼女にとって、自ら太る女性というものは考えづらかった。
「まあ、それがいるのよね。世の男性の中にはふっくらした人の方が好きって人がね」
「そういうものなのか」
「そういうものなのよ」
いまいちイールには理解しがたいようで、彼女は小首をかしげている。
ロミもまた普段男性とあまり関わらない生活をしているせいか、あまり実感は湧いていないようだった。
「はいはい、ちょっと失礼するわね。――はい、垢取りにはこの桶の水を使ってね。残りもすぐ持ってくるから」
遠慮がちなノックと共に、宿屋の女主人が大きな桶を抱えてやってくる。
中には半分ほどの高さまで水が入っており、乾いた布も添えられていた。
それらは合計三つ運び込まれ、女主人はまたにこやかな顔で去って行く。
「さって、さっぱりしてご飯食べに行きましょうか!」
真っ先に桶に近づいたのはララである。
彼女は布を水に沈め、ぎゅっと堅く絞る。
それで今日一日汗と土に汚れた身体を綺麗にするのだ。
「ねえイール、背中拭いてー」
「はいはい。あんまり動くなよ」
手早く全ての服を脱いだララにせかされ、イールは彼女の小さな背中に布を滑らせる。
どうにもララという少女は羞恥心という感情が欠落しているようだった。
「二人とも、仲良しですねぇ」
そんな和やかな雰囲気の二人の様子を、少し頬を赤らめたロミは優しい眼差しで見ていた。




