第二百八十五話「あたしらはここで涼んでいくか」
「ねえイール、私はどうしたら良いと思う?」
黄金色の月が浮かぶ夜更け。
ぼんやりとランタンの光が影を揺らす教会の一室で、ララはぽつりと呟いた。
「どうしたらと言われてもな。ティラから声が掛からない限りは動けないだろ」
イールはベッドに横になったまま、物憂げに答えた。
「でも、わたしも心配です。お屋敷の警備は万全かと思いますが、それでも昼間のような自爆攻撃が敢行されたら、ララさん以外の人は無傷じゃ済まないと思うんです」
「まあ確かに、それはあるが……」
濡れた髪を纏めていたロミも、長い睫を伏せる。
イールは低く唸り、落ち着かない様子で右腕を撫でた。
「ねえ、イール」
「イールさん」
二方向から異口同音に話しかけられ、イールは眉間に深く皺を寄せる。
腕を固く組み、奥歯を噛み締めて彼女は何かに耐えるように体を震わせる。
そして、決壊した堤防のように、彼女は叫ぶ。
「だぁ! 分かったよ。……夜の散歩に行こうか」
「っ! そうね。ちょっと歩きたい気分だわ」
「わ、わたしも少し夜風に当たりたいと思っていたところなんです」
白々しい反応で、ララ達は立ち上がる。
いそいそと身支度を調えて、三人は宿舎のドアを開く。
「う、さむっ」
「流石に冷えるな」
途端に吹き込む夜の冷気に、ララが思わず身を縮める。
昼間は日差しのおかげで汗ばむほどの陽気だが、夜になると途端に熱が夜天に吸われてしまうらしい。
「上着取ってくるか」
少し待っててくれ、とイールが室内に引き返す。
彼女を待つ間にララはナノマシンを操作して体温を調節する。
「ロミは寒くない?」
「このコートがあるので」
そう言ってロミは高い襟をきゅっと詰める。
武装神官の制服でもある彼女の白い神官服は、防寒具も兼ねている。
その割には日差しの出ているときも着込んでいるのだが。
「お待たせ。それじゃあ行くか」
イールが革の上着を羽織って戻ってくる。
町中を大剣を佩いて散策する訳にもいかないが、今回彼女は腰にナイフを吊っていた。
精霊から託されたそれは革の鞘に収まって、静かに久々の外出を楽しんでいるようにも見える。
「屋台はまだやってるかね」
「むしろ書き入れ時かもね」
腕をさすりながら先頭をあるくイールの思案に、ララが笑いかける。
道行く人々もほどよく頬を赤く染め上げ、夢見心地で足取りもふらついている。
すこし良い香りを嗅がせてやれば、まるで花の蜜に誘われる蝶のように、ふらふらと屋台へと吸い寄せられていた。
「この寒空の下で酔い潰れちゃったら、風邪引いちゃうわね」
「ララは酔えないんだろ」
「それはそうだけどさぁ」
雰囲気の問題よ、とララはふくれる。
「とはいえ、今は何か食べたい気分でもないわね」
炭の爆ぜる音を聞きながら、彼女はぽつりと言葉を落とす。
イールが意外そうな顔でのぞき込むが、彼女の心情を理解できない訳ではなかった。
「ひとまず、貴族街を覗いてみませんか?」
「そうだな」
ロミの提案を受けて、一行はつま先の向きを揃える。
竜闘祭は数日に渡って催される。
初日を終えた夜のプラティクスは、未だ興奮冷めやらぬ様子で賑わいを見せていた。
「ララさんは、今回の事件をどうするつもりなんですか?」
歩きながら、不意にロミが尋ねた。
ララは唇に手を当てて、首をかしげる。
「……あまり考えたことなかったわ。巻き込まれるだけ、巻き込まれるつもりよ」
彼女がそう答えると、ロミはクスリと声を漏らす。
その後すぐにすみませんと弁明し、彼女は続ける。
「ララさんらしいですね」
「そうかしら? ……まあ、今までもずっと巻き込まれ続けてここまで来たんだし、今更ってやつよ」
楽しそうに少しだけ声を弾ませてララは言う。
短くない時間を共に過ごしたロミにも、彼女の気持ちは少しだけ分かるような気がしていた。
「イールは、どこまで巻き込まれるつもり?」
一歩先を行く赤髪の傭兵に向けてララが問う。
彼女は呆れたように大きくため息を吐くと、答えるのも気怠げに顔を向けた。
「お前と同じさ」
「そっか。いいわね」
「わ、わたしも一緒ですからね!」
ロミも慌てて口を開いて追随する。
そうして、三人だ誰からともなく表情を和らげた。
「……それじゃあ、目下のところの目標は外敵の排除だな」
「かな。とはいえ誰が敵で誰が味方なのか、私は知らないんだけど」
「教会関係者はある程度信用できると思います」
「そういえば、ティラ達に私達のことを伝えたのも教会のシスターだったわね」
繁華街を抜け、路地に踏み入ると、今までの喧噪が嘘のように闇に染まった静寂が訪れる。
ララ達は声を潜め、真剣な色をその瞳に浮かべた。
「それじゃあ貴族? あんまり貴族社会については知らないわ」
「わたしもそちらはとんと縁がありませんでしたね」
「……多少なら」
不承不承といった様子を隠そうともせず、イールが手を上げる。
そういえば実は良家のお嬢様だった、とララが思い出してぽんと手を打つ。
「それで、イールさん」
「やめろ気色悪い。背筋がぞわぞわする」
「ひどい言われようね!? ……イール、こういう場合はどうしたらいいの?」
「私もこの町の情勢に詳しい訳じゃないんだがな。とりあえずは敵の尻尾が掴めんことにはなんともならんだろうさ」
貴族というのは狡猾な生き物だ。幾重にも罠を張り背後から速やかに喉を貫くような一撃を加えないことには、その片鱗すら残さない。
歴史の長い名門ほどその警戒心は高まり、まるで老いた狼のような殺気を服の下に隠しているものだ、とイールは語る。
「……どこの世界も富裕層は血生臭いのね」
ララは遠い目で星空を眺め、思わず吐露する。
ロミも複雑な表情で、イールの話を聞いていた。
「それじゃあ、じっと相手の出方を待つのが一番なんでしょうか」
「ま、そういうことだな。あたしらに相応の地位があれば、他にもやりようはあるんだろうが」
生憎ただの傭兵に配られる手札はそう多くない。
そう言ってイールは目を細めた。
「っと、流石の厳重さだな」
虫の声の響く通りを進み、イールが立ち止まる。
彼女は後ろの二人の動きを押さえ、そっと建物の影に身を潜める。
「兵士がいっぱい立ってるわね」
「親衛隊、でしょうね」
ティラの、市長の住む館は厳重な警備網が敷かれていた。
完全武装の兵士が等間隔で生け垣の前に立ち、鋭い眼光で周囲を見渡している。
内部の様子を窺うことはできないが、恐らく相応に重々しい空気になっているのだろう。
「とりあえず、あたしらはここで涼んでいくか」
石積みの塀に背中を預け、イールは力を抜く。
何もなければ少し体を冷やすだけ。
何かあれば、たまたま通りがかった彼女たちも助太刀に入る。
「そうね、お祭りの熱気に当てられちゃったし」
「そ、そうですね!」
ララとロミも頷いて、イールの横に並ぶ。
甲冑の擦れる音の響く闇の中に、彼女たちは溶けるように息を潜めた。
「ほんとに、徒労に終わればいいんだけど」
ぽつりとララが言葉をこぼす。
それを聞いて、イールがくつくつと息を殺して笑った。
「なによぅ」
むっとしてララが顔を向ける。
「なに。そういう事を言うときはな――」
イールの言葉が遮られる。
近衛のものではない忙しい足音が石畳を打つ。
瞬時に三人は臨戦態勢に移行して身を屈める。
イールは口角を引き上げ、鳶色の目を光らせた。
「そういう事を言うときは、徒労に終わらないんだよ」
黒い影の群衆が殺到する。
近衛たちが剣を抜き、三つの影が飛び出した。
 




