第二百七十五話「……ああっ!?」
「おお、これはまた……」
「ものすごい人ですねぇ」
ロミが正気を取り戻し泣き止むのを待ち、老シスターに見送られながら教会を出発したララ達は、大通りを見て思わず声を漏らした。
昨夜でさえ息苦しいほどの熱気と密度があった賑やかな大路は、それに輪を掛けて晴れやかな表情を浮かべた黒山の集団に埋め尽くされていた。
「よくもまあこんだけ人がいたもんだ」
「教会の宿舎を借りられて良かったわね」
プラティクスの町の外からも、多くの観光客が流れ込んできているのだろう。
いかな指折りの大都市といえど、これほどの膨大な人数の来訪ともなれば宿を探すのさえ一苦労どころでは済まない。
ララは改めて、ロミに感謝した。
「ていうか、この流れに突っ込まないと闘技場には行けないのか?」
少し顔色を悪くしながら、イールが言う。
「でしょうね。わたし達は土地勘もありませんし、近道なんて分かりませんので」
「ララ、ナノマシンでどうにか……」
「ナノマシンはそんな便利な物じゃないわよ! 傷害罪で訴えられても責任持ってくれるなら……」
「聞いたあたしが馬鹿だったよ」
ちゃきりと腕を構えるララをそっと抑え、イールは深いため息をつく。
「しょうがない。覚悟決めるか」
そうして再度顔を上げたとき、彼女の鳶色の目には確かな決意の炎が燃え上がっていた。
彼女は一歩ずつ足を踏み出し、人の濁流へと身を投じる。
三人の中で最も背の高い彼女を目印にして、はぐれないようにララとロミもその側にぴったりとくっついて歩く。
「うぐぅ、暑い……」
「風が一切入ってきませんね」
瞬く間に後ろからぞくぞくとやって来る人波に飲まれ、小柄なララなどは視界を塞がれてしまう。
右も左も人の壁、かろうじて上を見上げれば小さな空が見える程度である。
燦々と降り注ぐ陽光に、高調しきった人々の熱気が燃え立ち、灼熱の地獄の様相を呈していた。
「二人ともはぐれるなよ。闘技場までは一本道だから、迷うことは無いだろうが……」
イールも腰を握る二人を気に掛け、ゆっくりと歩く。
肘に押され、腕に揉まれながら、三人は身を寄せて大通りを前へ前へと進んだ。
「しっかし、すごい人気ね!」
「ほんとだよ。こんだけ人が集まるんなら噂の一つや二つ聞いてると思うんだがなぁ」
「旅の経験が長いイールが知らないのも珍しいよね」
「こっちの方は来たことなかったからな。ヤルダ出身だとどうしてもなぁ」
迂闊だった、とイールは心底残念そうに眉を寄せる。
ララやロミにとっても意外な事実だったが、それ以上に本人が一番意外だったのだろう。
「傭兵なんかもこのお祭りに参加するのよね」
「そういえばマーポリ村の方が仰っていましたね」
「傭兵なんか、腕っ節の強さが自慢の連中ばっかりだからな。そりゃあ優勝目指してやってくる奴なんていくらでもいるだろうよ」
魔獣狩りの専門家でもある傭兵は、身体が資本である。
鍛え上げられた肉体はそのまま収入に直結し、どれほどの戦闘力を持つかは名誉よりも実益に大きく影響してくる。
それだけに、今の自分がどれ程の実力を持っているのかを客観的に、そして何より安全に確認するためにこの竜闘祭へやって来る者もいるだろう。
「そういえば、一応私も傭兵登録してるのよね」
「あたしとバディも組んでるな。最近は全然依頼こなしてないけど」
「この頃はそれどころじゃありませんでしたしね」
思い出したように言うララに、そういえばと二人が続く。
軽く忘れてしまっていたが、ララはイールと出会った当初にギルドで傭兵登録をしている。
この地域での身分証明書という意味合いが強いため、積極的に依頼をこなしているわけではないが、そろそろ何かしらの実績を作っておきたいところでもあった。
「この町にもギルドはあるのよね?」
「当然だろ」
何を言っているんだ、とイールが胡乱な目でララを見る。
「お祭りが終わって落ち着いたら、何か依頼をこなそうかと思って」
「資金にはそれなりに余裕はあるぞ?」
「んー、お金じゃなくって、実績をね」
「実績ねぇ……。まあ、いくつかランクを上げておいた方が信用の元にはなるか」
顎に指を添えて思案していたイールも、特に反対する理由は見つからなかったらしい。
ひとまず祭りが落ち着いてからという条件で、プラティクスのギルド支部にも立ち寄ることを約束した。
「さて、闘技場だ」
人混みに揉まれながらも前に進み、いつの間にか目的地も間近に迫っていた。
周囲から文字通り頭一つ抜けていたイールが、前方に聳える巨大な石造の建築物を見上げる。
「夜とはまた違った、変な迫力があるわね」
人の隙間からのぞき見たララが感嘆の声を上げる。
昨夜下見にやって来た時は日が暮れかかり、薄暗い影の中に茫洋と佇んでいた闘技場は、眩しい光の元で大きな口を開け、止めどなく流れ込んでくる人々を寛大に受け容れていた。
三人もまたその大きな流れに乗って進み、衛兵達が立ち並ぶ巨大な門を潜る。
「おおー、おっきいですねぇ」
床も壁も天井も、全てを重く堅い石で作られた頑強な闘技場は、硬質な足音を内部に響かせる。
暗く湿った内廊下を通り、彼女達は観客席へと躍り出る。
「広いわね! 圧巻だわ」
中央にあるのは、広大な土の広場。
それをぐるりと囲むのは、石造りの観客席。
埋まりつつある席の中から、三人で座れそうな場所を確保して、ララは改めてその壮麗な光景を見渡した。
「流石は町の象徴だけあるな。随分と歴史も長そうだ」
堅牢で重厚な石材は、その黒々とした表面に細かな傷を無数に刻んでいる。
長い時の中で、人々の指先や袖が擦れて付いたものだろう。
「明日からここで、武闘大会が開かれるんですね」
今からわくわくと胸を弾ませて、ロミが言う。
期待に気持ちが昂ぶっているのは彼女だけではないらしく、闘技場全体が揺れるような活気に包まれていた。
「そっか、そういえば今日は市長さんの挨拶だけだったわね」
ララがそういえばと言う。
朝にシスターから聞いていた話も、道中の熱気で抜け落ちてしまっていた様子だった。
「そうそう。っと噂をすれば……」
イールが眼下の広場に顔を落として言う。
ぐるりと広場の外縁を囲む高い壁に、等間隔で穿たれた穴。
その奥から、何人もの武装した騎士に警護された小さな人影が現れた。
煌びやかな装飾をふんだんに施された、品の良い礼服に身を包み、どうどうと胸を張って歩くのは、驚く程に幼い少女だった。
「……ああっ!?」
その姿を見て、ララが頓狂な声を上げる。
突然の奇声に両隣の二人がびくりと肩を上げて驚いた。
「ど、どうしたんだよ突然」
「びっくりするじゃないですか」
「いや、あの……」
ララの視線の先で、幼い少女が歩く。
肩口で切りそろえられた、細い白髪が揺れて陽光に反射する。
エメラルドの透き通るような瞳が、席を埋め尽くす観客たちを見渡す。
薄い唇が数度、小さく震える。
白い頬が淡く紅潮していた。
「……なんでもないわ」
昨夜の光景を脳裏に浮かべながらも、ララは終ぞその事実を二人に話せなかった。
そんな彼女を置き去りにして、幼き市長の挨拶が始まった。




