第二百五十四話 暗い部屋の中
そこは暗い研究室だった。
照明具の類いは見当たらず、いくつかの小さな蝋燭の炎が、おぼろげに部屋の影を浮かび上がらせる。
四方を囲む壁のどこにも窓はなく、小さな古びたドアが一つあるだけだ。
部屋の至る所に分厚い本が積み重なった柱が乱立し、どこからかボコボコと泡の弾ける音が聞こえる。
室内には血や脂やインクや草の様々な臭気が立ちこめていた。
混じり合い、複雑で嫌悪感を催す異臭が充満している。
まるで泥のように重く空気が淀んでいる。
そんな研究室のどこからか、女の啜り泣く声が響いていた。
声を押し殺し、まるで最愛の人を看取った恋人のように、女は嗚咽を漏らす。
だが、乱雑に研究器具や本で埋め尽くされた部屋のどこに、声の主がいるのかはすぐには分からない。
「うっ……ふぐっ……」
女は泣いていた。
弱々しい蝋燭の明かりが、垢の浮かんだ頬を流れる一筋の銀線を照らす。
そこは、研究室の最奥。
もっとも入り口から遠く、最も狭い場所だった。
そこに、女は蹲っていた。
足を折りたたみ、両手を箍のように繋げている。
彼女は黒ずんだ、古びた白衣を纏い、薄い唇を噛みしめていた。
きつく握りしめた拳からは血が滲み、それもまた部屋に立ちこめる臭気の一部に混ざり合う。
「アントニーが死んだ。オルトンも死んだ。二人もやられた」
膝の上に顎を立て、縁の細い丸眼鏡の奥から、彼女は虚空を睨み付ける。
濁った川のような暗い土色の瞳に、涙が溢れる。
「みんなやられた。あいつらにやられた。あいつらのせいだ。みんなあいつらが奪った。私の大事な子供達を。あいつらがあいつらがあいつらがあいつらがあいつらがあいつらが!」
嗚咽は呪詛に、呪詛は悲鳴に、悲鳴は絶叫へと目まぐるしく変化する。
女は立ち上がるとボサボサの黒髪を掻きむしる。
伸びるに任せた長い髪の隙間から、ボロボロと雲脂がこぼれ落ちる。
狂ったように瞳孔を開き、壁に拳を打ち付ける。
ダン、ダンと打撃音が響き、木材が軋む。
彼女の周りを、細かな羽虫が数匹飛んでいた。
「よくもよくもよくもよくもよくも! 私の大切な大事な愛している可愛い可愛い可愛い可愛い子供達を! 二人も! 優しいアントニーを、笑顔の素敵なオルトンを!」
絹を裂くような絶叫が響き渡る。
暗い研究室にただ一人。
その声を聞く者は誰もいない。
「ああ……。ああ、あああ……!」
ガクンと彼女が首を落とす。
まるでスイッチを切断したかのような、不気味な挙動だ。
彼女は小刻みに震え、ガチガチと奥歯を打ち鳴らす。
「新しい子――。私の新しい子供を造らなくては。愛しい子、愛されるべき子。ああ、ああ……」
よたよたと、おぼつかない足取りで彼女は部屋を横切る。
本の柱を押し倒し、硝子の山を登り、裸足の踝が血に塗れるのも気にせず、雪崩の起きたような部屋を進む。
倒れては立ち上がり、阻まれては押し倒し、やっとのことで部屋の終端、ドアの前までやってきた女は、錆の浮かんだ真鍮のノブを握る。
「あひっ」
ニタリと笑みを浮かべ、ノブを回す。
「――あれ?」
しかし、ノブは動かない。
まるで何かで固定されているかのように。
まるで、向こう側から阻まれているかのように。
「あれ? あれ? あれ? あれ? あれ?」
首を傾げながら、何度も女はノブを回そうと試みる。
ガチャガチャと金具の擦れる音が響く。
どうして、何故、なんで、と女が呟く。
「なんで開かないの? なんで? 私をここから出してよ。私に子供を造らせてよ。私に、私に愛させてよぉぉぉおお!!」
狂気的だった。
まるで終末の到来に狂う人のようだった。
絶望に支配され、一片の理性すら消し飛ばし、獣の如く哀慟する。
何度も何度も何度も縋り付くようにノブを回し続け、そのたびに叫び声を上げる。
いつしか彼女はノブから手を離し、拳をドアに打ち付ける。
己を阻む壁を打ち砕かんと。
横たわる障害を突破せんと。
痛覚など感じる様子を見せず、ただ一心不乱に叩き続ける。
手から血がにじみ出し、ドアを赤黒く染める。
べちゃべちゃと水っぽい音が混じり始める。
それでもなお、女はただ叩き続ける。
「開けてよ。開けてよ。私が必要なんでしょう? 沢山の笑顔を見せてよ。お金なんていらない。名声なんていらない。あなたが私を連れ出したんでしょう!? 暗くて狭い部屋から逃がしてあげるってあなたが言ったんでしょう!? 早く来てよ! 私を助けてよ! 学校から私を連れ出したみたいに、私を助けてよ!」
暗い研究室の中。
一人の女の声が響く。
どこかで硝子瓶が落ちて砕ける音がする。
「早く助けてよ! いるんでしょう!? 私はここにずっといるのよ! 早く私を救ってよ!! ――イライザ!」
深い深い闇の中にひっそりと隠れる小さな部屋。
その慟哭を聞く者は誰もいない。




