第二百二十三話「あなたがいると思ってね」
真夜中。皆が寝静まり、安らかな吐息だけが室内に響く。
格子の窓の外からは、微かに夜虫の囁く鳴き声が届く。
丸い月が静かに覗く下で、ララはパチリと目を覚ます。
「……時間ぴったり」
ナノマシンのタイマーによる正確無比な起床。
ララはそっとシーツから這いだして、僅かな物音すら立てず、猫のような足取りで部屋を出る。
「少し寒いわね。体温ちょっと上げておきましょ」
服を着る余裕は無く、久しぶりに銀色のラバースーツのみという出で立ちである。
ナノマシンにコマンドを送って、体温を調節する。
凍える寒海でも遊泳できるほどの性能を持つナノマシンにかかれば、この程度は造作もない。
「じゃ、ちょっと行ってくるわね」
眠っているイールとロミに囁いて、ララはツリーハウスを飛び降りる。
昏々と眠る二人から、返事は返ってこない。
「サクラ、準備できてる?」
『お待ちしておりました』
村の外れまで歩き、周囲に人影が無いことを確認して、ララが虚空に向かって呼びかける。
暗い木々の間から、サクラがじわりと滲むようにして突然現れる。
「やっぱ光学迷彩は便利よねぇ。魔法に対してはあんまり効果なさそうだけど」
自分のナノマシンにもインストールしようかしら、とララはとぼけるようにして言う。
『消費エネルギーがかなり多いので、そこまでされなくても。今でも疑似的な物はできますよね』
「まあね。ちょっとした冗談ってやつよ」
生真面目なサクラの声に軽く返しながら、ララは更に森の奥へと進む。
道無き道を歩き、倒木を乗り越える。
平坦に何処までも続いていると思っていた森の中は、予想外に起伏に富み、常人ならばかなりの体力を消耗するだろう。
しかしそこは規格外な科学の力を有した彼女である。
自分の背丈以上を軽く飛び越え、障害物を物ともせずにただただ一直線に進んでいく。
「それで、マップはどうだった?」
『やはり何処までも広大な森が続いていて、一筋縄では脱出すらできなさそうですね。それに気になることが……』
歩みを止めずに、ララとサクラは言葉を交わす。
サクラはララ達がオビロンと謁見している間、彼女からとある密命を下されていた。
無線通信によって密かに言い渡されたその内容は、リエーナ村周辺の更に精密なマッピングだった。
「なにか変なものでも見つけた?」
『変な物と言えば変な物です。全く同じ木、いえ、森が反復して連続しているんですよ』
「……なるほど。鏡面結界ね」
サクラの報告を聞き、ララは不敵な笑みを浮かべた。
知的好奇心に青い瞳を輝かせ、弾む足取りで森を進む。
「……、ここからね」
『はい。一定の範囲を一つのパーツとして、それと全く同じ森が何処までも続いています。マップを見ていただければ分かると思いますが、まるでパッチワークみたいですね』
「まるで合わせ鏡みたい。結界内の領域を複製して無限に増幅させることで、無限の土地と資源を確保してるのね。なかなか豪快な荒技じゃない」
そのような大規模で強引な術式の構築など、素人にも等しいララにもその難易度と出鱈目ぷりがすぐに分かる。
そんなことができる魔法使いなど人間はおろか、エルフにすら存在しない。
まさしく神の御技と称するのが相応しい。
「あの人も大概最強よね。女神様やら使徒やらなんかはそれよりも強力なんでしょう? ちょっと気が遠くなるわね」
『我々の科学力すら遙かに凌駕しています。超時空ワープ技術が確立されて数世紀経ちますが、空間の複製・隔絶・保持など、仮説すら立てられませんよ』
「スーパーコンピューター丸のあんたが言うならそうなんでしょうね」
『なんですかそのあだ名!?』
カメラアイを限界まで開いて震えるサクラを無視して、ララは何度目かの大跳躍を行う。
こうして飛び越えた倒木も、今までの物と全く同じ、鏡によって複製されたものだ。
「さて、このあたりまで来たらそろそろだと思うんだけど」
とすんと静かに着地したララは、おもむろに足を止める。
村からはすでに数十キロ以上の隔たりがある。
暢気な会話を交わしながら、その実彼女たちは迅雷もかくやという超速で森の中を駆け抜けていたのだ。
そんな彼女は手近にあった倒木に腰掛け、相変わらず静かに浮かぶ月を見上げる。
「これ、月がオリジナルの領域の上空にまで来たら、それも無限に増幅するのかしら?」
手に顎を乗せて、ぼんやりと考える。
サクラはそんな彼女の隣にふよふよと浮かんで、首を傾げるように一回転した。
「それはないですよ。鏡面結界は守護樹を中心にして半球状に覆っているので、月までは届きません」
ララの背後、木の暗がりの中から、声がする。
ララはぱっと立ち上がって振り返り、目を細めた。
「やっと来てくれたわね」
「……数時間振りですね」
ララの視線の先。
そこには、呆れたような笑みを浮かべて立つオビロンの姿があった。
つい数時間前にテーブルを挟んで対面した時と寸分違わない姿で、彼女は木の側に立っている。
「こんな夜更けに散歩ですか。お肌に悪いですよ」
「あいにくスキンケアの悩みは持ってないの。それより、あなたはやっぱり分身?」
ララの問いかけにオビロンは頷く。
そうして、彼女の姿が不意に煙のように消える。
ララが体をずらし、別な方向にある木の影を見つめると、そこへオビロンが現れた。
彼女は少し驚いたように目を見開き、クスクスと笑う。
「よく私が現れる場所が分かりましたね」
「あなたの力のこと、ちょっと知ってるからね」
「そうですか。随分と珍しい方です」
「それ、ちょっとこの子には悪いから控えてくれるとうれしいな」
ララがぽんぽんとサクラを軽く叩いて言う。
オビロンは驚き、申し訳なさそうに眉を下げる。
「それは知りませんでした。ごめんなさい」
言葉と共に、空気が変わる。
いつからか漂っていた果物のような甘い香りが消え去り、夜の冷たい空気が流れ出す。
『むぅ、これは対抗策を考えた方がいいですかね』
「向こうが配慮してくれるし、大丈夫だと思うわよ」
コンディションに異常を感じたサクラが困ったように言う。
オビロンの纏う力は、サクラのような電子機器に干渉してしまう。
「それで、夜の散歩の目的はなんでしょうか?」
オビロンがゆっくりと歩み寄りながら尋ねる。
「ちょっとあなたに聞きたいことがあるのよ」
そう言って、ララははっと気付いたように言葉を止め、言い直す。
「正確にはあなたの上にいる人かな。本物のオビロンさんにね」
青い瞳が美しい精霊を射抜く。
ララの言葉を聞いてなお、彼女は穏やかな笑みを湛え続けて言った。
「……確かに私はオビロンの分身ですが、数刻前に本体とも会ったはずでしょう?」
「そもそも、あなたはオビロンじゃないよね。オビロンの部下なのか子供なのか兄弟なのか、その関係については、私は神話に詳しくないから知らないけどね」
「随分と自信がおありのようですね。しかし、そう言い切る根拠はあるのですか?」
断言するララに向かって、オビロンは臆する様子もなく立ち向かう。
依然として薄い笑みを湛えた彼女は、常人ならざる雰囲気を纏っていた。
「一つ目は、あの空間に入る前のことね。あそこが一番特殊粒子の影響が大きかった。ドアをくぐれば、むしろ薄かったわね。だから、あの空間はきっと本物のオビロンがいる場所じゃない。二つ目はあなたが現れたとき。突然あなたがテーブルの向こうに現れたときに感じたのは、魔力だったわ」
「……イドの揺らぎを見ることができるとは、良い目をお持ちのようですね」
「お褒めに与り光栄よ。まあ、私自身の力って訳じゃないんだけど」
ララの挙げた二つの理由に、オビロンは表情を少し崩す。
呆れたような、喜んでいるような。
例えるなら、まだ幼いと思っていた我が子のふとした成長を実感した母親のような、慈愛に満ちた笑みである。
「それでは、真っ直ぐこちらへいらっしゃったのも……」
オビロンの言葉に、ララは頷く。
「こっちの方にあなたがいると思ってね」
ララの答えは、彼女を満足させるものだったようだ。
オビロンは静かに彼女の方へと歩み寄ると、何か吹っ切れたような表情を浮かべる。
そうして、彼女はまるで顔の表皮を剥ぐように、顎の下に手をかける。
「……まさか見破られる日が来ようとは思いませんでした。これは我が主に万が一にも凶刃が及ばぬ事を思っての事。正体、真実を偽り、不誠実な事とは重々承知の上ですが、どうかお許しください」
謝罪と共に現れた、一枚下の顔。
美をそのまま形にしたオビロンに匹敵するほどの美貌が、悲しげに睫を伏せていた。
 




