第百九十一話「あぅぅぅ……」
「やっぱり船旅の後のお風呂は気持ち良いわね」
髪の水滴をタオルに吸わせながら、ララはしみじみと言った。
ミルたちとの再会を果たし、喜びを分かち合った三人は、ひとまず部屋を借りて荷物を置き、そして塩の鱗亭自慢の大きな風呂を久しぶりに楽しんだ。
「一週間くらいは入れませんでしたからね。久しぶりにおっきな湯船に浸かると心まで洗われますよ」
いつもの神官服を脱いで、湯上がりのラフな格好になったロミもうんうんと頷く。
旅の疲れを十分に癒やした三人は、そのまま一階の食堂へと向かう。
廊下の先にある扉を開けて中に入ると、醤油と出汁の良い香りが鼻先をくすぐった。
「この匂いも懐かしく感じるようになったな」
カミシロでは毎日のように感じていたそれらの香りに、イールが感慨深く言う。
他の二人もすでにおなかを押さえ、きゅぅ、と腹の虫を鳴かせていた。
「ララさん、イールさん、ロミさん。お久しぶりです」
彼女たちが扉の前で立っていると、厨房の方からそんな声が聞こえた。
視線を向けると、そこには白い割烹着姿の儚げな美女が微笑を浮かべて立っていた。
「ミオ! 久しぶりね」
「そういえば、もう完全にこっちに店を移したんだってな」
「はい。ミルさんにお料理を教えている間に、だんだんと成り行きで」
そう言ってミオは以前と何ら変わらない優しい笑みを浮かべる。
彼女ははるばるカミシロから単身やってきた料理人で、以前はこのアルトレットの港近くにある路地裏で小さな店を開いていた。
そんな彼女だったが、様々な縁があってこの宿の主であるミルに料理を教えることとなり、そのままこの宿へと店ごと移り住んだらしかった。
「路地裏のお店も気に入っていたんですが、こちらの方がお客さんは多くって。普段はアルトレットでもありふれた料理を作っているんですが、たまにカミシロ料理の注文も入るんですよ」
「それじゃあ、カミシロ料理も少しずつこの町の人たちに認められてきたってことですよね」
「そういうことだと、凄く嬉しいですね」
感激して言うロミに、ミオは恥ずかしそうに頷いた。
「とりあえず、お好きな席に。今日は特別腕によりをかけてご馳走しますよ!」
「やった! 船旅は楽しいけど、やっぱり料理だけは陸地よりも質素になっちゃうものね」
「そうでなくても、今は腹がへってしょうがない」
「うふふ。それじゃ、しばらくお待ちください」
口々に空腹を訴える彼女たちに思わず口元を隠し、ミオは厨房へと引っ込む。
入れ替わりにやって来たのは、制服を脱いでゆったりとしたいつもの服装に替わったシアである。
「三人ともお風呂楽しんだみたいね」
「ええ。やっぱりこの宿のお風呂は良いわね」
「そう言ってくれると、毎日掃除してる甲斐があるってもんね」
宿の目玉商品でもある温泉の清掃はミルとシアが手分けして行っているらしく、シアは安心したように息をついた。
「もう制服脱いじゃったみたいですけど、もう営業は終わりなんですか?」
「今日は上手く他のお客さんもいないしね。せっかく三人が帰ってきたんだから、今日くらいは盛大にお祝いしなきゃ」
怪訝な顔で尋ねるロミに、シアは茶目っ気の溢れる青い瞳でウインクして明るい笑みを浮かべた。
「三人には成長したミルの料理も食べて貰わないといけないしね」
「そうか。今日の夕飯はミルも作るんだな」
「あれでも今まで猛特訓してたのよ。ミオが一から丁寧に教えてあげて、あの子も随分成長したわ」
「ほうほう。それは楽しみね!」
その間には色々とあったようで、シアは遠い目をして言う。
期待に胸を膨らませ、ララが厨房に視線を送っていると、ほどなくして扉が開く。
お盆を携えるのは割烹着姿のシアと、そして緊張気味のミルだ。
「お、お待たせしました」
ミルはお盆をひっくり返さないように慎重に、緊張しながらゆっくりと歩く。
その後ろから保護者のように優しい視線を送りながら、ミオも付いてくる。
まるで親子のようなその微笑ましい光景に、自然と三人の表情も緩む。
「ウォーキングフィッシュのお煮付けです。お口に合うといいんですが……」
不安げな様子で、ミルが皿を並べていく。
メインディッシュはもはや懐かしい、ウォーキングフィッシュの煮付けだった。
丁寧に味を付けられたそれは飴色で、深い醤油の香りがあった。
「これ、ミルが作ったの?」
「はい。ミオさんに沢山教えて貰いましたが……」
「とっても美味しそうですよ!」
「ああ。カミシロ料理っぽいが、あっちではウォーキングフィッシュはいないみたいだからな。どんな味か楽しみだ」
三人の期待に満ちた声に、ミルはぴこぴこと耳を動かし、恥ずかしそうに唸った。
煮付けと共に並べられるのはつやつやに炊かれたご飯と、根菜の味噌汁、赤色の美しい漬物、胡麻和えの小鉢と、調和の取れた品々である。
「それじゃ、実食といきましょうか」
「うぅ、なんだか凄く緊張しますね……」
ぴこぴこと恥ずかしそうに耳を揺らすミルに見られながら、ララ達は食器を手に取る。
ララはマイ箸でそっと琥珀色の身を割る。
「ふわぁ……」
柔らかな身は簡単に解れ、綿のような白い内側をさらけ出す。
ほんわりとやさしい醤油の香りが立ち上がり、喉を鳴らす。
箸を繰り、口に運べば、どこか懐かしさを憶える深い味わいに満たされる。
「美味しい!」
自然、彼女達の顔は蕩けるような笑みを浮かべていた。
「あわ、ありがとうございます」
より一層ぴこぴこと耳を振り、顔を真っ赤にさせたミルが頭を下げる。
ミオの教え方が良いのか、彼女は以前が嘘のように料理の腕を上達させていた。
「ウォーキングフィッシュと醤油って、こんなに相性が良かったのね」
食べ進めながら、ララが驚いたように言う。
「そうですね。私もびっくりしました」
それに頷くのは、カミシロ出身のミオである。
彼女の故郷では獲れないウォーキングフィッシュと、彼女の故郷の特産品である醤油は、驚く程の親和性を見せた。
「ミオも、よくレシピをミルに教えたよな」
一応料理人としては秘匿するべきなのでは、とイールが尋ねる。
しかしミオは眉尻を提げ、首を振る。
「確かに無闇矢鱈と教えられるものではないです。けれど、私はカミシロの料理を大陸にも広めたいと思っているので」
「そういえば、そんなことも言ってたか」
イールは以前彼女と会ったときのことを思い出して頷く。
「ええ。ですからこうやって、ミルちゃんがカミシロ料理の知識を得て、その技術を使ってくれるのは凄く嬉しいんですよ。私みたいなカミシロ人には思いつかないような、斬新な発想もありましたし」
そう話すミオの表情は明るく、どこにも含みは感じられない。
イールはそれなら安心だと胸をなで下ろした。
「でも、穴掘り魚の煮凝りでゼリーを作ろうとしたのは勘弁ね」
そこへ遠い目をしたシアが割り込む。
穴掘り魚というのはアルトレット近辺で豊富に採れる細長い魚である。
切って煮込むととろりとした煮凝りが出て、冷やすとぷるんと固まる。
「わわ、あれはもう忘れてください! ちょっとした気の迷いというか……」
「真剣にジャムとか蜂蜜とか果物とか選んでたじゃないの」
「あぅぅぅ……」
羞恥に顔を真っ赤にして反論するミルだったが、シアに一蹴されてあえなく撃沈してしまう。
シアの英才教育があってなお、彼女の独特なセンスは健在らしかった。




