第百六十話「ふぅ、お仕事終わり!」
ララが海に飛び込んで、もうすぐ十分ほどになる。
たまに竿やロープが揺れる以外に、彼女の行動を示すものはない。
ロミは不安そうに手摺りに身を寄せて、穏やかに波立つ水面をじっと見ていた。
「そんなに見つめててもしょうがないだろ」
そんなロミとは対照的に、イールは泰然自若として木箱に腰掛けていた。
たまに欠伸さえ漏らしながら、彼女は特に焦る様子もなくララからのサインを待っている。
「そ、それはそうですけど……。やっぱりちょっと心配です」
「ララにはナノマシンっていう反則的な技があるんだ。海で呼吸したり空を飛んだりしたって、今更驚くことじゃないと思うけどねぇ」
「確かに、あの人ならやりかねない……」
イールの言葉に、ロミも頷く。
ずっと間近で彼女の規格外な能力の数々を見てきた彼女たちだからこそ、そろそろ慣れてきた頃合いだった。
ロミは手摺りから離れると、イールの隣に木箱を置いてそこにちょこんと腰掛ける。
「そういえば、カミシロにはキア・クルミナ教の神殿は無いのか」
ふと思い出したように、イールが口を開いた。
ロミの信奉するキア・クルミナ教は辺境に留まらず、大陸全土に広く信仰される一大宗教だ。
しかし、交流らしい交流がつい最近まで無かったカミシロまでは、教会の手も届いていない。
「そうですね。なので、武装神官という地位も、カミシロでは特に役には立たないと思います。ただの旅人ロミになりますね」
「宣教師みたいなことはしなくていいのか?」
「宣教師は別に、それ専門の方がいらっしゃいますので。それにわたしは宣教できないんですよ」
「資格みたいなのが必要だったりするのか?」
「単純に、仕方を習ってないからです」
ロミはそういうと、可笑しそうに笑みを零した。
彼女の説明によると、宣教師は武装神官や異端審問官と同じくらいに専門的な役職で、上級神官時代に志してから数年はそれに則した知識を詰め込み、難関な試験を通過しなければならないということだった。
「宣教師が必要とされるところは未開の地が多いので、武装神官以上に旅慣れしてる人も多いらしいです」
「そりゃそうか。かなり過酷な職なんだなぁ」
「その分、色々と補助や報酬も手厚かったりするんですけどね」
神殿の内情についてはあまり明るくないイールは、ロミの説明にふむふむと相槌を打つ。
聞けば聞くほどに厳格な階層社会となっている神殿は、恐らくイールには一生縁の無い場所の一つだろう。
「お、竿が動いたな」
その時、海に糸を伸ばした竿の先端がピクピクと動いた。
波や風ではなく、明らかな引きだ。
「引き上げましょう!」
「ロミはとりあえず竿を、あたしはララのロープを引き上げるから」
「分かりました!」
二人はすかさず立ち上がり、それぞれの位置につく。
ロミが竿を引き上げ、糸を巻き上げる。
イールは右腕の怪力を活かして、ロープをするすると船上へと回収していく。
「随分と深いとこまで行ってるな!」
たぐってもたぐっても先の見えないロープに、イールが思わずぼやく。
随分と長いロープを用意していたようだが、ララはそれを最大限活用していた。
「む、糸が重くなってきましたよ」
「そうか。ならもうすぐだな」
二人はタイミングを合わせて、たぐり寄せていく。
少しずつだが確実に、大きな物を引き寄せている確かな抵抗を感じる。
「ぐ、この……。って、随分でかくないか?」
ロープを引き上げていると、ようやくその影が現れる。
それは、彼女たちも予想していないほど巨大だった。
イールとロミはぱちぱちと瞬きして顔を見合わせる。
これを本当に、釣り上げていい物だろうか。
「ぷはっ! おーい、二人ともー、早く引き上げてよー」
丁度その時、海面からララが白い顔を出す。
水に濡れた銀髪が、彼女の頬にぴったりとくっついている。
彼女は唐突に止まったロープの動きに、思わず船上の様子を伺っていた。
そんなララの足下には、巨大な魚影が迫る。
それはだらりと手足を弛緩させ、ゆっくりと浮上してきていた。
「っとと、浮かんで来ちゃった」
海面に身体半分を出す、巨大なワニに乗り、ララは船上に向かって手を振る。
船上のイールとロミは、何やら呆れた様な目で彼女と足下の水棲魔獣を見ていた。
「ララ……。それ、どうやって引き上げるんだ。流石にあたしたちだけじゃ無理だぞ」
「え、む、無理かなぁ……」
「無理に決まってるだろ! どれだけデカいと思ってるんだ!」
「イールの怪力ならなんとかならない?」
あくまで楽観的なララに、イールは頭の奥に痛みを感じた。
「流石に海面から船の上まで放り上げるのは無理だよ。最悪、船が転覆する」
「ぐぅ……。それもそうね」
そこまでは考えていなかったらしく、ララは残念そうに唸る。
重量や大きさ的に言えば、恐らく何の問題も無く船に積み込むことはできる。
しかし、海面から人力で運び上げるのは、不可能だった。
だが、そこで諦めるララではない。
「じゃ、私が打ち上げるから、イール達は下がってて」
「は?」
ララの言葉が理解できず、イールとロミはそろって首を傾げる。
そうしている間にも、ララは巨大ワニの上で黙々と作業を進める。
「おやおや、どうかしたかいの」
丁度その時、イールの背後から老人の声が掛かる。
「おわっ、ガモン船長」
イールが慌てて振り向くと、そこには異国の衣装を身に纏ったこの船の長、ガモンが不思議そうな顔で立っていた。
「見張りからお主らが妙な事をしておるという話を聞いてやって来たが……、ララ殿はどこじゃ?」
「あー、ララは……」
ガモンの質問に対し、イールは気まずそうに視線を船の外に移す。
それに倣って老人が視線を向け、そして目を見開く。
「な、なんじゃあのどでかい水棲魔獣は!」
「あー、ララが釣り上げた? いや、まだあげては無いな。えっと、捕獲した魔獣だよ。これから、この甲板に載せるらしい」
「そんなことができるのか?」
「あいつがやるって言うなら、できるんだろうよ」
「なんというか、お主ら、妙に達観しておるな……」
諦観の目でララを見る二人の少女に、若干の戦慄を覚えたガモンである。
「おーい、それじゃ行くわよー」
「げ、もう始まるか。船長、端の方に避難しよう」
「え、避難? え、何が起こるんじゃ?」
「とりあえず話は後です。まずは自分の身の安全だけ考えて」
ララの合図を受け、イールとロミは迅速な行動を開始する。
狼狽えるガモンを連れ、甲板の端の方まで移動する。
「大丈夫! いつでもいいぞ!」
最後にイールが手摺りに寄って、ララに声を掛ける。
そうして、彼女も避難を終わらせると、船の下から爆風が弾けた。
「『空震衝撃』!」
ドン! と海面を勢いよく殴りつける音が響く。
引き起こされた波が、ぐらりと船を揺らす。
「なんだなんだ」
「魔獣の襲撃か!?」
船室に籠もっていた水夫達が、銛や鉈を携え血相を変えて甲板に現れる。
そうして、そこに立っている船長と二人の女を見て怪訝そうに首を傾げた。
「『空震衝撃』!!」
そこへ、二度目の衝撃が船を揺らす。
全員が思わず手を甲板に付き、音のした方へと視線を向ける。
「よーし、飛んだ!」
ぬっと現れる巨大な影。
太陽を遮り、一瞬甲板は薄暗くなる。
水夫達が見たのは、巨大なワニに乗って空を飛ぶ少女だった。
「『空震衝撃』『空震衝撃』!!」
ララは更に二度ナノマシンの白い輝きと共に、空気を震わせる。
一度目は横方向にワニの身体をずらし、甲板の上へ移動させるため。
二度目は下方向に、甲板を壊さないように衝撃を和らげる、エアークッションの役割を兼ねていた。
「ふぅ、お仕事終わり!」
ララは海水に濡れた髪を絞り、満足げな顔で甲板に降り立つ。
そんな彼女を、船員たちは唖然として見ていた。




