第百五十八話「それじゃ、れっつ・ごー!」
「ぬぬぬ、随分粘るわね!」
ぐいぐいと引っ張られる釣り糸はピンと張り、ララと魚の攻防を間接的に表している。
かなりの大物が掛かっているのか、ララの力だけでは到底引き上げることはできない。
船の高い位置から釣り上げようとしていることも、原因の一つではあるが、それを加味しても随分と期待できる引きである。
「大丈夫ですか? いけますか?」
歯を食いしばって竿をあげるララの背後では、大きな櫤を持ってオロオロと狼狽するロミがいた。
ララが少しでも獲物をつり上げないことには、彼女がすくい上げることもできない。
「あたしがやろう」
「お願い!」
イールが手を伸ばし、ララもすぐに交代する。
単純な力勝負でいえば、イールの方に軍配が上がる。
「ぐっ、ほんとに強い引きだな」
しかしながら、竿を受け取ったイールは驚きの表情を浮かべながら言う。
海の底から抵抗する力は、まるで星をつり上げたかのような重く固い感触だった。
「マリンリザードよりもよっぽど手強いわよ」
「これ、糸は切れないんでしょうか……」
「大丈夫。こんなこともあろうかと糸も竿も特殊金属製よ」
ララの言葉に、二人はひとまず安心する。
これまでの経験で、ララが操る白い金属の様々な力は嫌というほど目の当たりにしてきているのだ。
「けど、いくら壊れる心配が無いからって、これはなかなかしんどいぞ」
イールが竿を手摺りに預けつつ言う。
よっぽど深く針が食い込んでいるのか、もしくは恐ろしいほどの執念を持っているのか、糸の先の何者かは離す気配も無く海上を滑る帆船の動きに合わせて移動しながら抵抗している。
「あ、ララさん。あの小さい青リンゴみたいな機械を使って直接見ることってできませんか?」
「青リンゴ……? ああ、【指先の眼】のこと? そうね、一度正体確かめてみましょうか。ろくでもないものだったら針を変形させてでも振り落とす方針で」
ロミの案を採用し、ララは懐から青リンゴこと【指先の眼】を一つ取り出す。
ブルーブラスト粒子によって広範囲長時間に渡って行動し、あらゆる情報を収集することのできる小型探査ロボットである。
ララはそれを手のひらの上で起動させると、早速船の下まで飛ばす。
「行ってらっしゃい!」
半重力振動波によって空中を滑らかに動く青リンゴは、糸を辿るようにして水中に飛び込んだ。
ララの視界に送られてくる映像が、一瞬白い水泡に埋まり、すぐに青く透き通った広い海中に切り替わる。
「おおー、綺麗ね!」
そこは恐らく、まだ誰も見たことのない海だった。
見たこともないような種々様々な魚群が横切り、ゴツゴツとした岩に絡みつく海藻が遙か下方でうごめいている。
太陽の光は僅かに食い込むばかりで、すぐ下は墨を溶かしたような濃い闇が広がっている。
「さてさて、結構沈んでるわね」
水中に伸びる糸を見つけたララは、リンゴを操作して辿っていく。
随分と下方まで引っ張られているようで、視界の制限される海中では先も見えない。
青リンゴは沈み、暗くなるとその目を光らせる。
薄ぼんやりとした海中を、ぐんぐんと沈んでいく。
「随分引っ張られてるのねぇ」
「糸がもう殆ど余裕ないからな。その分の抵抗もあって、かなり重かったんだろ」
竿のリールを見てみれば、糸はもうほぼ全てが伸びきっていた。
知らず知らずの間に、随分と引っ張られていたようだった。
「これは中々の大物って予感がビンビンするわね」
舌舐めずりをしつつララは口角を上げて言う。
彼女の頭の中を占めているのは、おおよそが今夜の食事の事である。
この交易船のシェフは随分と腕がいいのだ。
「とりあえず、そういうのは釣ってから考えような」
気味の悪い笑みを浮かべ始めたララに、イールが呆れた様に言った。
「そうね。うーん、どこまで伸びてるのかしら……」
ララも素直に頷き、調査を再開する。
誰がこんなに糸を伸ばしたんだと悪態をつきながら辿っていくと、ようやく遠方に黒い影が動いているのが見えた。
「お、見えた見えた……って、これ――」
「ん? どうしたんだ」
段々と尻すぼみになっていくララの声に、イールとロミが訝る。
そんな彼女たちの目の前、ララはプルプルと震えた。
「おい、どうしたんだ? 何が引っかかってるんだよ」
イールが不安げに尋ねる。
ロミが櫤を放り投げ、彼女の肩を抱く。
「で――」
「で?」
「でっかいお魚! とっても美味しそう! よっし絶対釣り上げるわよ!!」
目をキラキラと輝かせ、ララは宣言する。
予想の外から飛び込んだ言葉に、イールたちはよろめきそうになる。
「なんだよそれ……。まあ、危険な魔獣とかじゃなけりゃいいさ」
「ま、紛らわしいです」
何のかんのと言いつつも、二人も準備を開始する。
ロミは櫤を握り、イールが竿を引っ張る。
しかし肝心のララは踵を返すと船内へと駆け込んだ。
「あれ? あいつ何処行ったんだ?」
「船の中に入っていきましたけど……」
「は?」
ララの行動の意図が掴めず、イールは首を傾げる。
そんな彼女の前に、ララはすぐに戻ってきた。
「あれ、なんでそんなロープ持ってるんだ?」
「ちょっとあれは竿一本で釣り上げるのは不可能かなって思って」
船内から戻ってきたララは、その手に太いロープを携えていた。
恐らくは船の備品だろう。
「ロミ、ちょっと手伝って」
「は、はい!」
ロミと共に、ララはそれをマストに括り付ける。
太いマストに太いロープが括り付けられた。
「よし、それじゃ行ってくるわ」
「行ってくる? は?」
そうして結んだロープの先端を、ララはおもむろに自分の腰に巻き付けた。
服を足下に脱ぎ捨て、今の彼女は銀色のスーツだけという目のやりどころに困る姿である。
彼女の奇想天外な行動に、イール達は首を傾げるばかりだったが、そのうちに彼女の真意に気付く。
「まさかララ、お前直接!?」
「そういうこと。それじゃ、れっつ・ごー!」
結び目を確認し、ララは準備体操を終えると、だっと駆け出す。
イール達が制止する声も届かず、彼女は手摺りを踏んで飛び出す。
まるで空中を泳ぐように、彼女は風の中を進む。
数秒後には重力に従い、海面へ向かって落ちてゆく。
「おおお!?」
「え、ララさん!? ええっ!?」
突飛な行動に、二人は反応できない。
そのままにララは姿を消し、少し遅れてドボンと着水する音が届く。
慌てて二人が手摺りに駆け寄れば、たゆむロープの先から細かな白い泡が浮かんでいた。
「ほ、本当に行きやがった……」
「変わった人だとは思ってましたけど、ここまでだったとは……」
呆気にとられた様子で、二人は言葉を漏らす。
彼女の常識に囚われず躊躇しない行動には、毎度肝を冷やされる。
しかし、それでも彼女ならなんとかするんだろうという、不思議な安心感もあった。
「はぁ。まあ、あたしたちには待つことしかできないかね」
「それもそうですねぇ……。青空が綺麗です」
何もかも諦めたような目でロミは穏やかな青空を見る。
イールは手摺りに身を預けて、ほう、と息を吐く。
何も無い穏やかな時間が、船上にゆっくりと流れていた。




