第百五十七話「あっ! 掛かったよ!」
果てなく続く穏やかな海原を、一隻の帆船が滑るように走っている。
綿のような白い雲が群れをなす晴朗な青空は水平線で海と交わる。
帆船は大きく白い帆を掲げ、そこに目一杯の鮮やかな風を抱きかかえていた。
マストの先端にある見張り台では小柄な水夫が鼻歌交じりに代わり映えしない風景を眺めている。
人によってはどれだけ強く望もうと一生目にすることが叶わないこの絶景も、彼のような水夫にとっては見飽きた面白みの無い退屈な絵だ。
出港や着港、海が荒れている時などは彼らも忙殺されて欠伸を漏らす余裕も無くなるが、こうして何も無く順調に航海が進む間、彼らはまるですることが無い。
そうして彼が見張り台に登って何度目かの欠伸を漏らそうとしたその時、不意に下方の甲板から楽しげな少女たちの笑い声が響いた。
男所帯のこの船ではまず珍しい、可愛らしいリンとなる鈴のような声に、男はついつい下をのぞき込む。
大きく弧を描く帆のすぐ下に、三人の少女がいた。
「今日も元気だねぇ」
男は広い甲板で駆け回る小柄な銀髪の少女を見て、思わず呟いた。
今日は釣りをするのか、彼女はバケツと釣り竿を両手に持っている。
見張りを任されるだけあって、彼は船員の中でも人一倍目が良いのだ。
彼女はこの船の水夫ではない。
ただの船員である彼は詳しい事情を知らないが、船長が客人として乗せた。
なんでもこの船の故郷であり、今回の目的地でもあるカミシロへと渡りたいという奇特な少女たちらしい。
「神官のお嬢ちゃんも、今日は体調良さそうだな」
次に男が見たのは、銀髪の少女を追いかける緩くウェーブした金髪の武装神官である。
純白の重そうな神官服を着ながらも、はしゃぐ少女を捕まえようと奔走している様子はどこかコミカルに映る。
そんな彼女も、出港直後は慣れない船の揺れに顔を真っ青にして、船医のお世話になっていた。
「赤髪の姉さんもいるし、ほんとあの三人はいつも一緒だねぇ」
銀髪の少女と、金髪の少女。
二人を少し離れた場所から親のように見守るのは、長い赤髪の女傭兵だった。
その厳めしい右腕を初めて見たときこそ、彼も驚いたが、その実粗野なのは口調だけで性格は極めて常識的な事を彼はここ数日の航海の中で漠然と感じ取っていた。
彼女は二人の保護者的な立ち位置に納まっているらしく、大体の場合は少し離れた場所から二人の少女を見守っている。
幼い少女に、武装神官、それに傭兵と、外から見ればなんともちぐはぐで凸凹な三人である。
「とはいえ、今日はあの姉さんも釣り具持ってんのか。流石にあの子たちも飽きてきたのかね」
アルトレットの港を出港して三日。
穏やかな天候に恵まれた事には感謝しか無いが、こう代わり映えしない景色が延々と続くのも考え物である。
まだ日数的には折り返し地点ということも、精神的には重い物がある。
今日はその気晴らし兼、食料確保というわけで釣り具を持ち出しているのだろう。
平和なことはいいことだ、と男は無精髭の生えた口元を緩める。
丁度その時、ふと銀髪の少女が見張り台を見上げる。
その先からひっそりと眺めていた男は思わず仰け反る。
甲板からは降り注ぐ陽光によってこちらは影に見えるはずだ。
だというのに、銀髪の少女は白い歯を見せて大きく手を振って見せた。
†
「ララさん、どうかしたんですか?」
突然足を止めてマストの上に視線を向けたかと思うと、バケツを置いて手を振り始めたララを見て、ロミが首を傾げる。
「見張りのお兄さんがこっち見てたから、挨拶したのよ」
「ええ? 逆光で眩しくてよく分からないんですが……」
ララの言葉に手を翳しながら上を仰ぐが、燦々と眩しい太陽の光が目に直撃するだけで何も見えない。
「ま、それはいいわ。それより釣りよ、釣り! 大物釣って今夜の食事に一皿追加してあげるんだから」
ララは床に置いたバケツを拾うと、広い甲板を歩き回る。
毎日水夫が必死になって磨き上げる甲板は、曇り一つ無い綺麗な広場のようになっている。
「しかしまあ、順調に進むのは良いが、いささか退屈すぎるな」
ララと同じく釣り竿を担いだイールがため息交じりに言う。
「そうなのよねぇ。ロミも初日で船酔い治っちゃうし」
「な、治っちゃうってなんですか!? わたし大変だったんですからね!?」
港を出てすぐに、ロミが青い顔になって甲板の手摺りに縋っていたのはちょっとしたハプニングである。
その後すぐに彼女はこの船の船医にかかり、その後は特に問題なく生活している。
「初めての船旅だったんだから、慣れないのは仕方ないわよ」
「そういうララさんだって船は初めてだって言ってたじゃないですか」
「え? 私を酔わせたんなら大したものよ」
「なんでちょっと強気なんですか?」
そんなとりとめも無い会話を交わしつつ、彼女たちは釣りのできそうなポイントを探す。
広い甲板には数人の水夫がいるだけで、かなり閑散とした雰囲気である。
周囲を取り囲む鮮やかな絶景も、三日で飽きる。
暇な船員達は部屋でトランプにでも興じているのだろう。
「よし、このへんがいいかな」
ララは船の側面やや前方に位置する場所で立ち止まる。
ぶっちゃけ、すいすいと水の上を進む船においては、釣り竿を投げるポイントはどこでも良かった。
「しっかし、これだけ高さがあると糸を垂らすのも大変ね」
釣り竿に対して驚くほど長い糸を見て、ララは呆れたように言う。
彼女たちの乗る交易船は、船室も二層に分かれているほどの巨大な船だ。
当然その高さも波の船の比ではない。
「せーのっ!」
ララは早速針に餌を付けると広い海に向かって竿を振る。
針は勢いよく船外へと飛び出し、キラリと光りながら落ちてゆく。
「さって、あとは待つだけね」
手摺りに釣り竿を預け、ララは持ってきた小さな木箱に腰掛ける。
それに倣ってイールも釣り糸を垂らし、ロミが持ってきた木箱に座った。
「そういえば、フゥリンはどうなったのかしらね」
ゆっくりと流れる白い雲を眺めながら、ふとララが言う。
つい数日前のあの死闘も、もはや遠い過去の出来事のように思える。
「昨日レイラ様と話したら、今ヤルダへと運ばれているようです」
「ああ、そこで審問に掛けられるんだっけ?」
「そうですね。その後投獄です」
ララの言葉に頷き、ロミはさらりと物騒な言葉を言い放つ。
普段は物腰柔らかで温厚な彼女も、かの老人には色々と思うところがあるのだろう。
「町の洗脳も解けてるのか?」
「みたいですよ。ちょっとずつ大行進について違和感を覚え始める人たちが出てきて、ギルドはその対応に追われているようです」
「それはそれで大変よね。いっそのこと洗脳したままの方が良かった気もするわ」
「あはは。流石にそういう訳にもいきませんよ」
微動だにしない釣り糸を眺めつつ、三人は会話に花を咲かせる。
こうして話題に事欠かないのは、イールの妹であるテトルが彼女たちに預けた首飾りのお陰である。
「テトルは元気かしら」
「元気だろ。というか昨日話したよ。なんで私を置いて船に乗ってしまわれるのですか!? って恨み言聞かされた」
げんなりとした様子でイールが言う。
「置いてって、今までも特に一緒に行動してた訳じゃないと思うんだけど……」
「同じ陸地にいれば妥協できたんじゃないか?」
「随分と範囲の広い同伴ねぇ」
姉思いな妹だからこそ、イールも彼女のことは憎からず思っている。
とはいえ、彼女の重すぎる愛には時折扱いに困ることもあった。
「テトルの事だから、そのうち自前で船を作って追いかけてくるかもねー」
「やめろやめろ。本当にしそうだ」
勘弁してくれ、とイールが首を振る。
流石の彼女でもそこまではしないとは思うが、もしかするとという思いが拭いきれないあたりが怖い。
「あっ! 掛かったよ!」
その時、ララの釣り竿がピクンと揺れる。
ララは立ち上がり、竿を握る。
持ち上げれば滑らかにしなり、確かな重量感を伝える。
「よし! 釣り上げろ! 夕食が増えるぞ」
「わ、わたしも手伝います!」




