第百四十二話「私も馬には乗れないけどね」
朝の身支度を終えたイールは、足音を立てずに窓際にあるベッドへと近づいた。
こんもりとした山を作るシーツは、漏れ出す吐息に合わせてかすかに上下している。
イールは一度振り返り、自分のベッドに腰掛けて目を閉じていたララの顔を見る。
それに気が付いた彼女は薄く目を開け、そして頷く。
イールは向き直り、そっとシーツの端を握り――
「そろそろ起きろ! この寝ぼすけ娘!」
「わひゅっ!?」
思い切り巻き上げられるシーツ。
朝の冷気が吹き込み、温かな安寧を破壊する。
首筋や下腹部へと入り込む風に、ロミが驚き跳ね起きる。
「ふぇ、さむ、え、ええ!?」
「もう朝だぞ。そろそろ起きろ」
混乱が抜けきらぬ様子でしきりに周囲を見て困惑の声を漏らすロミに、イールが言う。
太陽も全身を見せ、朝の早いアルトレットの漁師たちはすでに海へと出港している時間帯である。
「うぅ……。今日はお昼までゆっくり眠れると思ってたのに……」
寝起きで気が抜けているからか、いつもの丁寧口調が崩れるロミは唇をとがらせて言う。
「規則正しい生活は大切だぞ。それに朝は朝ですることがある」
「え、何か予定ありましたっけ?」
「とりあえず、ロッドを久しぶりに動かしてやらんとな」
「……それ、わたしいらないのでは?」
「ロミ、馬に乗れないんだろ? 良い機会だし練習して乗れるようになった方が良い」
「うぇぇ!? わたしは徒歩派なんですが……」
「選択肢は多いに越したことはないさ。それに馬は便利だぞ」
渋るロミ。
眉間に皺を寄せ、全身で拒否感を示す彼女に、イールは構う様子もなかった。
彼女は手に持ったまだぬくもりの残るシーツを軽く畳んで放り投げる。
「あれ、イールさん今日の髪型、いつもより凝ってますね?」
イールの髪が揺れ、ロミは気が付く。
彼女の赤い長髪は毎日何かしら手を加えて纏められているが、今日は輪に掛けて手の込んだ編み込みがされてある。
「うん? ああ、これな……」
「ちょっと慣れてきたら楽しくなっちゃって、つい……」
イールが髪型が崩れないようにそっと撫でる。
隣のベッドからララが苦笑ぎみに言った。
「え、これってララさんがやってたんですか?」
「……そうよ。毎朝ロミが気持ちよさそうに寝てる隣で」
がっくりと肩を落とし、ララが答える。
そういえばロミは、彼女がイールの髪の毛を纏めている所を見たことがなかった。
「すごい、器用ですね……。イールさんとってもかわいいです」
「そんなまじまじ見るなって」
瞳をキラキラと輝かせ、年相応の少女のような笑顔でロミが賞賛する。
イールはくすぐったそうに顔を逸らしてひらひらと手を振って応える。
「ほら、そんなことよりさっさと着替えろ。午前中のうちに乗れるようになってもらうぞ」
「う、わたしは馬車派なんですが……」
逃げるようにイールが厳しい声で言う。
途端にロミはしょんぼりと力を抜いて、のろのろと自分の着替えを用意した。
「そういえば、ララさんはなんで目を閉じてるんですか?」
着替えながら、ロミはずっと気になっていたことを尋ねる。
ララはベッドの端に腰掛けて、何をするでも無く目を閉じていた。
「んー、ちょっとね。なんというか、のぞき見?」
「ええ……」
歯切れの悪いララの言葉に、ロミは難色を示す。
「私の私利私欲の為に個人のプライバシーを覗いてるわけじゃないよ。目を開けてても別に大丈夫だけど、閉じてる方が混ざらないから楽なのよ」
「はぁ。よく分からないですけど、捕まらないで下さいね?」
ララが意味の分からない事をいうのはいつものことだと思い直し、ロミは困惑しながらも深くは考えないことにした。
白いシャツを着て、その上から武装神官の分厚い服を纏う。
いつもと代わり映えしない出で立ちだが、この姿になると彼女もすっきりと覚醒するような気がした。
「ロミ、それって暑くないの?」
外は燦々と陽光降り注ぐ良い日よりである。
ララが若干顔をしかめて尋ねる。
「わたしたち武装神官は年中何処に行ってもこの服装ですよ。温度調節の魔法も掛けられてるので、重い以外にはあんまり支障はありませんし」
「体温調節……。ほんと魔法ってなんでもありね」
「術者の技量と工夫次第で、大抵の事はできると思います」
実は高機能な神官服に、ロミはどこか誇らしげである。
魔法というのはそれだけ汎用性の高い技術なのだった。
「あたしも魔法が使えたら、魔法剣士みたいな戦闘法も採用できたんだがな」
絶えず右腕に魔力の殆どを喰われているイールが、少し残念そうに言う。
「魔法剣士か……。そういうのもあるのね」
「結構多い部類だぞ。まあ、鋭利化とか硬化とか剣に強化する魔法を掛けて戦うだけでも魔法剣士と自称することはできるしな」
「割と何でもありなのね」
「特に誰かが定義してる訳でもない。なんなら私も灯火くらいなら使えるから魔法剣士だ」
「それは苦しいんじゃ……」
「だから名乗らないんだよ」
指先に熱の無い光を浮かべてイールが白い歯を見せる。
殆ど魔力を喰われていると言っても完全にゼロという訳でもないので、彼女も初歩的な魔法なら使えるのである。
「お待たせしました。準備も終わりました」
そんな話をしていると、ロミが服装を整えて声を上げる。
跳ね放題だった金髪も整えられ、いつものお嬢様然とした姿である。
おなじみの白杖を抱え、いつでも出発できる。
「それじゃああたしとロミはロッドに乗って、その辺を走ってくるよ。ララはどうするんだ?」
「私もちょっと個人的にしたいことがあるのよ。だから……お昼にまた宿で集合でいい?」
「了解。それならちょっと走ってくる」
「うぅ……、やっぱりわたしも行くんですか?」
「ロミが馬に乗れるようになるまでやるぞ」
さらりと厳しいことを言うイールは、順調に鬼教官としての道を歩み始めているようだった。
涙目で引き摺られていくロミにどこか親近感を覚えつつ、ララは二人を見送った。
「……私も馬には乗れないけどね」
二人が出て行った部屋で小さく零れた言葉は、そのまま朝の風の中へと消えていった。




