第百二十六話「おはよう、シア。いい朝ね」
「……んん」
翌朝、ララは白い柔らかなシーツの感触に包まれて意識を取り戻す。
朦朧とした心地よい微睡みの中を揺れるように、ごろりと二三回寝返りを打つ。
「……んう?」
しばらくそうしていて、彼女はふと疑問を感じた。
なぜ私はベッドで寝ているのだろうか、と。
「……んんーー」
ララは魅力的な魔力を放つ掛け布をひっぺ返す。
辺りを見回せば、薄暗いが彼女たちの借りた花貝の部屋である。
「あれ、私、お風呂入ったっけ……」
未だクラクラとはっきりしない頭を振って、昨夜の記憶を掘り返す。
琥珀の匙でたらふく夕食を楽しんで、夜道を帰り、露天風呂に入る前にはイールと鍛錬をした。
「それ以降が思い出せない」
奇妙なこともあるものだ、と彼女は首を傾げる。
左右を見てみれば、ロミとイールが静かに寝息を立てている。
ララはそっと足音を忍ばせながらベッドから這い出る。
ベッドの側に置いた鞄の上に置いた今日使う服を抱き、床を軋ませないようにして部屋の外へ出る。
「ふわ、さむっ」
枯れた床板の張られた廊下には朝の冷気が溜まり、布団で暖められたララの体温を奪っていく。
彼女は素早く、しかしなるべく音を立てないように気をつけながら銀のスーツの上から服を纏っていく。
それでもまだ、少し寒い。
ララは一度プルプルと肩を震わせ、ナノマシンを起動させる。
全身を巡るナノマシンの微細な粒子が微かに振動し、熱を発する。
「……よし」
じんわりと全身が暖まり、ララは頷く。
そうして彼女は持ってきた靴を履き、そっと歩き出した。
「あや、おはようございます」
「おはよう。早いわね」
ロビーでは、白いエプロンを身につけて箒を携えるミルが立っていた。
朝の掃除の真っ最中だった彼女は、ぴくりと耳を動かして振り向く。
「宿屋の仕事は朝が本番ですから」
ミルは少し照れたように俯きながら、そんなことを言った。
「それよりも、ララさんも早いですね」
「ええ、ちょっと目が覚めちゃって」
ミルに今の時刻を尋ねれば、朝の鐘が鳴った直後だと彼女は答えた。
朝の鐘、というのは神殿が時間を知らせるために鳴らす鐘のことで、ララの時間感覚では六時、九時、十二時、十五時、十八時にそれぞれ鳴らされる。
となれば今は六時過ぎくらいか、とララは窓の外を見る。
うっすらと薄墨に濡らしたような空の端、町並みの向こう側から淡い太陽の光が滲み始めている。
「シアはどこに?」
まだ寝ているだろうかと思いつつ、ララは尋ねる。
すると、返ってきた言葉は少々意外な物だった。
「シアなら海岸にいると思いますよ。毎朝海を歩くのが、彼女の日課なんです」
「へぇ、そうだったんだ。ちょっと行ってこようかしら」
意外なシアの日課に、ララは目を丸くする。
そうして彼女は、ミルと別れて宿を出た。
「んー、外は一段と寒いわね」
低草が風に揺れる道の真ん中に立ち、ララは両腕を天に向かって伸ばす。
固まった体を解すため、そのまま数度四肢を動かし、ぴょんぴょんとジャンプする。
それだけ動けば汗ばんできて、彼女はナノマシンの発熱を止めた。
「それじゃ、シアを探しに行きましょっか」
ララは一人そう呟くと、宿の側にある海岸へと降りる小道を歩き出した。
宿の裏手に広がる海岸は、白い細やかな砂の美しい浜になっている。
細かな波が打ち付け、豆を転がしたような心地よい音が響く。
「さーて、シアはどこにいるかしらね」
ララはぶらぶらと波打ち際に足跡を残しつつ、シアの青い髪を探す。
彼女が散歩に出かけてそれほど時間は経っていないはずだ。
暗い時間に海の側を歩くのは、いくらこの町の住民でも危険だろう。
「……うーん?」
ふと、ララは妙な違和感を覚える。
見えなければならない物が、そこには見えない。
「足跡がない?」
海岸を見渡す。
それほど広くない砂浜のどこを見ても、シアの足跡らしき窪みは見つからない。
「この砂浜じゃないのかしら」
とはいえ、そういうことならばミルが言っているだろう。
どういうことだ? とララは首を傾げる。
彼女はもう一度自分の足跡を辿って、小道へと戻る。
「たぶん、シアもここから来たはずよね」
砂浜の入り口に立ち、ララは浜を一望する。
物置小屋の前に無数にある埋まり掛けの窪みは、おそらく先日の酒宴の際のものだ。
それとは別に、もっとはっきりとした足跡があるはずだ。
「不用意に歩くんじゃなかった」
考えなしにぶらぶらと歩いて、いたずらに足跡をつけてしまった。
そんな後悔に眉間を寄せながらもじっと地面を観察する。
彼女が空を飛ばない限り、きっと足跡はあるはずである。
「……これかな」
そうしてララは、ようやくそれらしき足跡を見つけた。
はっきりとした物ではない。
なるべく足跡を残さないように注意しながら歩いたかのような、不自然な足跡だった。
「なんでこんな面倒くさいことをしてるんだろ」
まさに謎が謎を呼ぶような展開に、ララは好奇心を刺激されるのが分かった。
彼女はそれに導かれるまま、その不自然な足跡を辿る。
「あれ?」
しかし、それは更に不自然なことにまっすぐ海へと続いていた。
細かく打ち寄せる波が、足跡を濡らす。
「ええ、シアってば泳いでるの?」
流石にそれは危険ではないのだろうか。
如何に彼女が水の魔法に秀でているからと言っても、流石に朝から泳ぐのは。
ララは波打ち際まで駆け寄り、海原の中に彼女を探す。
「……いない」
しかし、穏やかな水面のどこにも、彼女の気配は感じられない。
とある考えが脳裏を過ぎり、ララはさっと顔を青ざめる。
「も、もしかして……! つっ、『環境探査』!」
白い閃光が駆けめぐる。
濃緑の海水すら透過して、それは光の進む限り情報を集める。
「流石に海は生命体の量も桁違いね」
彼女のデータベースに反映されていく、周辺の地形情報。
そこに羅列される生命体反応の多さにララは軽く目眩を覚えた。
「あれ、これ……。いや、今はシアね」
ララは目を閉じ、走査する光からのフィードバックを分析する事に集中する。
まだあまり遠くへとは行っていないはずだ。
しかし陸から遠ざかる離岸流に乗ってしまえば、かなり離れているかも知れない。
「シア、シア……。長い髪。そうね、髪……」
彼女の特長を思いだし、フィルターを設定していく。
データベースを再構築し、最適化していく。
プランクトンや魚類など大雑把に省いていき、選択肢を削いでいく。
そうしてついに――
「みつけ……た?」
ララはそれらしい反応を見つけたが、同時に首を傾げる。
一瞬ナノマシンの不調かとも考えたが、あまりそうとは考えにくい。
「ううーん、これは……まさか……」
信じられないが、おそらくそういうことなのだろう。
でなければ、他に説明は付かない。
ひとまず、彼女が溺れてしまったという可能性はなさそうだ。
ララは今も悠々と泳ぎ、そして陸へと近づいてくる反応を見て胸をなで下ろす。
そうして彼女は、水中からは見えない程度に海から離れ、彼女が戻ってくるのを待った。
「さて、そろそろ戻ってくるかしら」
環境探査の反応はもう取れなくなったが、タイミング的にそろそろである。
ララは極力気配を殺して、波打ち際を見る。
そうして、その時がやってきた。
白波を纏い、海面からシアが顔を出す。
水に濡れ首筋に張り付いた長い髪が朝日に反射し、艶めかしい。
彼女は、上半身に簡素な下着のみを身につけていた。
しかし、それよりも人の目を引くものがある。
彼女の腰から下。
そこにはあるべき二本の足がない。
そのかわり、細やかな青い鱗の煌めく魚の尾が伸びていた。
シアは隠れ潜むララに気づかず、器用に尾を使って垂直に立つ。
「おはよう、シア。いい朝ね」
ララが現れ、声をかける。
「きゃっ!?」
途端にシアは両腕で胸を抱え、驚いたように彼女を見る。
シアは、人魚だった。




