第百二十四話「いくわよ、イール」
「やー、食べた食べた。お腹いっぱい!」
ララは満足げに言いながら、膨らんだおなかをさする。
談笑に耽りながらも彼女たちは、琥珀の匙の料理の数々を余すことなく楽しんでいた。
テーブルに並んでいた無数の皿は舐めたように綺麗さっぱりとなり、彼女たちはグラスを傾けながら膨らんだ胃を落ちつかせていた。
「こんなにいっぱい食べたのは久しぶりねぇ」
シアは苦笑しながらそう言う。
彼女の隣では、ミルが満足げに重たくなった瞼を擦っている。
「どうする? イールは何か追加で頼む?」
「あたしももう十分だよ。腹が割けそうだ」
イールはララに向かってひらひらと手を振る。
お代わり自由のパンもそれなりに楽しみ、いくつか追加で注文した料理もある。
健啖家のララでも満足する量がやってきたのだから、イールももはや一分の空きもない状態だった。
「ロミは……」
「無理ですもう入りません」
「ですよねぇ」
満足な顔を通り越して、若干苦しげなロミに、流石のララも察した。
「それじゃ、そろそろお開きにする?」
「そうね。時間もいいし、この子もそろそろ限界みたいだし」
ララの提案にうなずきながら、シアは肩に寄りかかってきているウサ耳を撫でた。
「確かに限界みたいね。それじゃあ帰りましょうか」
最後に手を合わせ、ララは席を立つ。
イールたちもそれに続いて部屋を出た。
「ありがとう。とっても美味しかったわ」
「ふふ、ありがとうございます。またのご来店、心よりお待ちしております」
帰り際、金髪のウェイトレスに声を掛ける。
彼女は嬉しそうに破顔すると、恭しく一礼した。
「わ、さむっ」
店を出ると、冷たい風が首筋を撫でた。
暖かい店内からの落差にララは思わず声を漏らす。
「この辺はやっぱり、朝夕が寒いな」
同じく寒そうに腕をさすりながらイールが言う。
海の間近に迫るアルトレットは、風が冷たく空気を冷やす。
「今日は星がよく見えるわね」
シアが空を見上げて言う。
随分と長時間店で楽しんでいたのか、通りはもう墨を流したかのような漆黒に染まっている。
空を見上げれば硝子のような星々が輝き、青白い月が柔らかな光を放っていた。
「とっても綺麗ですね」
惚れ惚れとロミが言葉をこぼす。
満天の星空は美しく、乳白色の薄い帯が細長く流れている。
中々見ることのない、絶景だった。
「今日は空が綺麗なのね。珍しいわ」
シアは見上げたまま言う。
アルトレットではたまに、こうして雲が全て流れて空が磨かれ、キラキラと輝く星空が現れるのだという。
「町から離れた広野の真ん中なんかだと星はよく見えるんだが、町中でこれだけ見えるのはすごいな」
感心したようにイールがため息をついた。
人家の明かりは星の淡い光を簡単に消してしまうため、町中で星空を見るのは中々に難しい。
「アルトレットの海が、星を洗ってるのよ」
微笑を湛えながら、とっておきの秘密を漏らすように、シアがそっとつぶやいた。
「それじゃ、帰りましょうか」
くてん、と力をすっかり抜いてしまったミルの手を握り、シアが言う。
「そうね。帰ってお風呂に入りたいわ」
それにララも同意する。
後ろではロミもしきりに頷いていた。
「ララはこの後あたしと鍛錬だぞ。一日サボってるんだから」
「うえええ!? きょ、今日もするの?」
イールがララの肩をつかむ。
毎晩日課にしているイールとの武術鍛錬は、昨夜は酔いつぶれていたためしていなかった。
容赦ないイールに、ララは思わず悲鳴をあげた。
「ほら、さっさと帰って始めるぞ」
「で、でも私お腹いっぱいで……」
「歩けば落ちつく。腹ごなしにちょうど良いだろ」
「うええええ……」
手を引っ張ってずんずんと歩き出すイール。
ララは涙目になりながら引きずられていく。
そんな二人を、シアとロミは面白そうに見ていた。
「そうだ、シアさん」
夜の町を歩きながら、ロミがふと隣のシアに声を掛ける。
シアは本格的にとろけてきたミルを背負って歩いていたが、彼女の声にきょとんと首を傾げる。
「何かしら?」
「シアさんは、人魚って知っていますか?」
「ええと、それは……どういう?」
唐突なロミの質問に、シアは戸惑いを隠せなかった。
「先日教会の師匠と話したときに、人魚の話を聞いたんです。シアさんなら、何か知ってるかもと思いまして」
「ああ、そういうこと……」
ロミの説明に、シアも納得がいったようだった。
ふむふむと何度か頷く。
「名前くらいは知ってるけど、あんまり詳しい訳じゃないわよ?」
「そうでしたか……。本当に人魚っているんでしょうか」
「んー、いると思うけどな」
半信半疑と言った様子のロミに、シアは軽い調子で言った。
「や、やっぱり居るんですか!?」
ロミは素早く振り向きシアに迫る。
「う、うん……。海との生活が長いと、そういう話もたまに聞くのよ。泳いでたら海底で人影を見た、とか砂浜に足跡があった、とか」
「ほうほう。中々興味深いお話ですね」
「とはいえ、実際に姿を見た人はいないのよね」
だから全部眉唾物なのだけど、とシアは言う。
ずり落ちそうになったミルを背負い直し、彼女は薄く笑った。
「ま、海辺の町なら多かれ少なかれこういうお話は残ってると思うわよ」
「水の中を空を飛ぶ鳥のように泳ぐ、美しい種族、ですか……。一度会ってみたいですね」
「もしかしたら、海の中の彼女たちもそう思ってるかもね」
ささやかな思いを胸に空を見上げるララ。
そんな彼女の横顔を見ながら、シアは穏やかに肩を揺らした。
「それじゃあララ、準備はいいな?」
時は少し飛び、場所は塩の鱗亭の裏庭。
シアとミルとロミが三人で仲良く入浴を楽しんでいる頃、イールとララは武装した姿で対峙していた。
一方に立つのは、鎧を纏って剣を握るイール。
長い赤髪を一束に纏め、琥珀色の瞳と剣の切っ先を鋭くララに向けている。
他方は浮かない表情のララである。
身の丈以上の白銀のハルバードを両手で握り、唇を尖らせている。
「ほら、そんな顔するんじゃない」
「分かってるわよ。……はぁ、仕方ないか」
そもそも鍛錬自体は純粋なイールの好意からである。
自分が武器の扱いに関してはまるっきり素人であることを鑑みて、彼女が人並みに扱える程度にまで面倒を見てくれるというのだ。
それを無碍にするのは、流石に人としてどうかと彼女も思っているのである。
「よし!」
彼女は自分に発破を掛けると、ハルバードを構える。
先端を低く、地面すれすれにまで下げる。
腰を落とし、イールを油断無く観察する。
このスタイルはこれまでの鍛錬の中で彼女が見つけた、自分の構えだった。
「いくわよ、イール」
今日こそは圧倒してやると、確かな意気込みを見せるララ。
対するイールは余裕綽々と言った様子で泰然と構えている。
彼女の構えは、あくまで自然。
背筋を伸ばし、剣をゆったりと伸ばす。
初めて見たときは、まるで適当に立っているだけかと思っていたララだが、それはその後に舐めた土の味で違うと思い知らされた。
それは自然体だった。
重心を低く安定させ、腕は剣と一本となる。
目は油断無く彼女を捉え、しかし全方位からの襲撃に常に備えている。
伊達に彼女も、剣一本で傭兵を名乗っている訳でもないのだ。
「いいぞ。今日こそあたしを倒してみせろ」
イールはララを眼光で射抜き微かに笑みを浮かべる。
次の瞬間、ララが猛然と大地を蹴ってイールへと肉薄した。




