表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
かわのほとりのみ  作者: 所為堂つばき
7/8

 おねえさま。


 と、呼ぶ声が聞こえた気がした。


 儚く虚ろで、けれども優しい声。

 心地良く、染みわたっていくような柔らかい声。


 ヒナもわたしのことを姉と呼ぶ。でも、どこか違う気がした。

 頭の中を穏やかに響き渡る懐かしい声。そんな気がした。


 もう聞くことはかなわない愛おしい声。

 気が付くとわたしは目を覚ましていた。


 微かに香るは畳と樟脳の匂い。

 隣で寝ている雷華に布団を掛け直してやると、わたしは辺りを見回す。


 当然ヒナの姿は無い。


 となると改めて、やはり夢であったのだとわかる。


 気まぐれに立ち上がると、虫籠窓の隙間の一つから外の様子を窺う。


 幼い時分のわたしはとんだ勘違いをしていたことがある。


 自分が夢を見ている時、夢の中に出てきたものと同じ夢を見ていると思っていたのだ。

 つまり、手毬で遊んでいる夢ならば手毬の見る夢、蜻蛉を追いかけ回している夢ならば蜻蛉の見る夢、といった具合にである。


 今思えば、蜻蛉ならまだしも、手毬が夢を見るものかと馬鹿馬鹿しく思うが、幼さゆえに仕方のないことだ。大目に見よう。

 だから、もし、夢の中に人が出てくれば、きっとその人も同じ夢を見ているのだろう、と疑いもしなかった。


 そんな淡い期待にも似た、けれども時折縋りたくなる妄想も、「おねえさま」という声を聞く度に、その絶望的な優しい声を耳にする度に、そして朝布団の中で孤独に目覚める度に、薄れてしまった。


 他愛の無い無邪気な子供心を、こんな悲しみで失ってしまったことが悲しかった。


 微かに青藍の空、正面に月が見えた。

 闇に慣れた目に月明かりが眩しい。


 やはり不安があるのだろうか。本来であるならば風情あるその様も、今はただただ、不気味でしかなかった。


 可愛い妹がジュソに殺されて、あの日からわたしの復讐は始まった。


  *  *  *


 恐らく、キョウはジュソを恨んでいる。

 そしてそれが故にジュソを討っている。

 本人の口から聞いたわけではないが、そう思った。

 そして何度か共にジュソを討つうちに、その思いへの確信は深まっていくばかりであった。

 キョウは、ジュソを切る時笑うのだ。

 それはいつもわたしを阿呆だのとろいだのとからかう時に見せる、嘲るような笑みではなく、嗜虐を含んだ、とでも言えばいいのだろうか、とにかく凄惨なものであった。

 その笑みは、しかし笑みであって決して目は笑わない。唇だけを残虐に剥くのである。

 あの仏頂面が刀を抜いた瞬間から背筋が寒くなるような表情を見せる。そして獲物の首を刎ねるその一瞬、口元の笑みとは裏腹に表情の冷たさはより一層大きくなり、ジュソが消えるのと同時に、それは手にすくった雪の一欠けらがいつしか解けてしまうかのように、なだらかに顔から引いていくのだ。

 満たされるように。あるいは失うように。

 刀を清め、収める頃には、いつものその表情が心寂しくすらあった。

 解けた雪は、手から毀れ落ちるその雫は、果たして何処へ向かうのだろう。

「キョウちゃーん! やめてーははは!」

「駄目だ、許さん。この期に及んで俺を嘘吐き呼ばわりした罰だ」

「ごめんなさーい! はははは!」

 キョウが笑っている。ヒノトと一緒に。それを眺めるツヅミや雷華も笑っている。

 こんな笑顔がすべてであれば良いのにと思った。

 わたしは知っていた。

 恨むが故に笑う。

 人が復讐をする時に見せる狂気。

 キョウキ以上に鋭く禍々しい狂気。

 嘲笑い、冷笑し、相手の恐怖を知ってなお、心で冷酷にほくそ笑む。

 恨みを持つ人間がどのような表情で復讐に及ぶか、わたしは知っているのだ。

 それは……目を背けたくなる程に……。

 そんなことを考えてからであろうか、ならばわたしはどのような表情でジュソを切っているのであろう。そう考えるようになった。

 それは今まで一人であったが為に、キョウや雷華の目が気になったのではない。単純に、周りに人がいるならば、その目にはジュソを切るわたしはどのように写るのだろうという、素朴な疑問であった。訊かずに知れるならば知りたい、そのくらいの気持ちだ。意味など無いに等しい。どのような表情であっても、それを恥と感じるような繊細な心は持ち合わせていないし、そのような繊細な心でジュソと対峙できるなどとも思っていない。

 キョウはわたしのことを事ある毎に鈍いだの、鈍感だのと言うが、それは左程悪いことだとは思っていないのだ。

 今まで、一人のわたしはどのように、どのような目をして、あるいは表情で、ジュソを切ってきたのだろうか。そしてそれは、キョウ達と出会ってから変わったであろうか。それともちっとも変わらなかったであろうか。

 本当に今更だ。

 今更そんな疑問を持ったところで何の意味も無い。今のわたしにはジュソを討つ術が無いのだ。今のわたしはただの人間。ジュソに憑かれた、この島の呪いを一身に受けたただの、普通の人間。

 他の呪われた者達と同様に、憑いたジュソが、ヒナがわたしを殺しに来るまで布団の中で怯えながら待つことしかできない、弱い人間だ。

「みーちゃーん。キョウちゃんがいじめるのー」

 これでもかという満面の笑みでヒノトが抱きついてきた。

「よしよし、わたしが守ってやろう」

 わたしは怯えている。

 わたしを刺した時の、ヒナのあの笑みを見るのを。

 それが本当に恨みを持つ者の表情(かお)なら。

 それが本当に恨むということなら。

 知れるのならば、知りたい。


 ねぇヒナ。お姉ちゃんはちゃんと(・・・・)ジュソを恨めていたのかな……。


*  *  *


 あれからひと月が過ぎようとしていた。

 にもかかわらず、体を動かせば傷が痛む。

 虎のジュソの時の傷とは違い、今度は紛れもなく深手を負っていたので、回復するまでにはまだ時間が掛かりそうだ。死ななかったのが不思議なくらいだ。診療所の医者が言うには、あと一寸もずれた所に傷を負ったならば、すぐにでも諦めが付いたそうだ。

 日は高く、光は容赦なく照り付けるが不思議と汗は流れない。  

 ざり、ざり、と乾いた地面を踏む草履の音も心なしか寂しげだ。いや、気の所為ではないのだろう。

 レンさんの家でじっとしているか、こうして外へ出ては当もなく徘徊し、何かを探すように見回してはその挙句、キョウや雷華に連れ戻されてレンさんにこっ酷く叱られる。そんな日々を繰り返していた。

「ヒナどこにいるんだろう……」

 呟いてはみたものの、本当にわたしはヒナを探しているのだろうか。だとしたら何故こんなにも足が重いのだろう。会ったとしてどうなるのだろう。ヒナはわたしを殺そうとするだろう。

 死ぬのは……怖い。

 あの子に殺されるのはそれ以上に悲しい……。


「おい、お嬢さんじゃないか」


 はっとして振り返る。

「佐久間さん」

 そこにはあの雨の日に会った大男の姿があった。外で立ったところを見るとさらにでかい。

「その着物、やっぱりそうだ。あの時のお嬢さん」

「佐久間さん、こんなところで何を?」

「何をって、調査だよ調査。言ったろ? 俺は学者さんだって」

 確かに言っていた。だが、何があるのだろう。村から少し離れれば、田んぼと、草と、木くらいしか見当たらないというのに。文化がどうのこうのと言っていた気がするが、それは本当にこんな島まで来て調べるに値するものなのだろうか。

「そういえば佐久間さんはどうしてこの島まで来れたのですか?」

 ふと気になったことを口に出す。

「そりゃあ俺が罪人だからじゃないのか? そういう島なんだろ?」

 躊躇いもせずにそう言い切った。しかし呪いやそういった類のものを信じない佐久間さんのことだ、それはある意味皮肉を含めた言葉なのだろう。

「って何だ? その口ぶりじゃあ俺が初めてなのか? まっ、そりゃあそうか。もっと早く見つかってりゃ大騒ぎだ。ニュースや新聞に載らないこと自体おかしい」

「あっ、そうか……。キョウだって本島の人間だった……」

 だがキョウに訊いたところで、果たしてすんなりと教えてくれるのか怪しいものだ。

「なんだぁ、噂の色男さんも島の外の人間かぁ。こりゃ俺の勝ち目が薄くなってきたな」

 戯けてみせる佐久間さんを尻目に、わたしの頭には一つの言葉が刺さったままであった。皮肉の一つと取れなくもないが、それでも訊かずにはいられなかった。だって、それが本当ならキョウは……。

「あの……、佐久間さんが罪人とはどういう……」

「人を殺している」

「え?」

 あまりの唐突さに言葉を失う。あまりに淡々とした口調だったので一瞬聞き間違えたかと疑った。

「それも一人二人じゃない。たくさんだ」

「たくさん……、それって……」

「おいおいそんな引くな。別にこの手で刺し殺したり首を絞めたりしたわけじゃない」

 そんなことを言われて、佐久間さんのことを恐れたわけじゃない。だからこそ頭が追い付かなかった。

「ただな、本島にはな、存在するだけで、そこにいるだけで人を殺しちまう、不幸にしちまう人間ってのがいるんだよ。俺はその一人ってわけだ」

「それでたくさんの人を?」

「ああ殺した。でもそれは俺が選んだ道なんだ。最初は違ったさ。逆だった。たくさんの人を救えると思ってた。でも無理だったのさ。いや、自分が思った以上に無能だった。だから途中で逃げたんだよ。そんな矛盾だらけの人生にさ」

 苦笑する佐久間さんの顔を見て、訊いて良かったと思った。やっぱり話の意味はさっぱりわからなかったが、仮に佐久間さんが罪人であったとしても、悪人ではないと感じたからだ。

「まあ最初はノリで言ったが、言ったろ? 俺はそんなオカルト信じねぇって。でもな仮にあるんだとしたらその色男さんは誰を殺して来たんだろうな」

 不意に意識を戻される。

 キョウが……人を……?

「ああ悪い悪い、そんなこと言っちゃあ駄目だな。やはりここはフェアにいかないと。いくら勝ち目がなさそうだからって相手を貶めちゃあいけねぇ。つってももう遅いか」

「いえ、大丈夫だと思います。キョウはきっとそんなことしませんから」

「おいおい随分信頼されてるじゃねぇか、その色男さん。これじゃあ俺が悪者だぜ」

「あ、いえ、そんなつもりじゃぁ」

「いいんだ、いいんだ。実際俺の調査ってのも褒められた内容じゃないしな、実際。調査って言えば聞こえが良いってだけだ」

「と言いますと?」

「早い話が宝探しだよ」

「宝……探し?」

「そうさ。桃太郎伝説って知ってるか? これは本島に伝わる伝説でな、この海のどこかに鬼が住む島があって、その島には金銀財宝が眠ってるってな話。俺は鬼なんて信じちゃいないが、宝はあってもおかしくねーって思ってるのよ。そしてこの島こそがそうだと考えてる。だってよ、こんな島自体が見つかりにくい島ならその昔、誰かが宝の一つくらい隠してても不思議じゃねぇだろ? つまりこの島は俺にとっての鬼ヶ島っつうわけだ」

「本当に鬼が出たらどうしますか?」

 実はわたしの知り合いにいるのだが、可愛い鬼が二人。

「そりゃあ宝の為だ、戦うさ………ってのは冗談だ。つっても俺はただの一学者だ。俺にはそんな映画の中のハリソンフォードみてぇな真似はできねぇからな。そん時は尻尾巻いて逃げるわ」

 佐久間さんは悪戯っぽく笑うと突然顔をこちらへ向けた。

「ところでお嬢さん。何をそんなに悩んでいるんだ?」

「わたしが……ですか?」

 いきなりの言葉に困惑するわたしを完全に無視する形で佐久間さんは続ける。

「俺はお嬢さんが何で悩んでいるのか、苦しんでいるのかなんてわかりゃしない。ただ、悩んでいるのはわかるぜ」

 佐久間さんはこちらを鋭く見据えた。

 その瞳は黒く、深く、吸い込まれそうな程わたしを圧倒したが、化け物のものとは違ってそこに恐ろしさはなかった。ただ奇妙であるとは言えるが。

 わたしは目を逸らすことができなかった。元より逸らすつもりなどなかったのだが、それでも、何か見えない糸のようなもので無理矢理繋がれている、そんな感覚を受けた。

「だがな、俺の人生経験を踏まえてこれだけは言っとくぞ。いいかいお嬢さん」

 そして言い放ったその口は、鋭い視線とは裏腹に、どこか笑みを零していた。

「矛盾で苦しむな。後悔で苦しめ」

 意味なんてわからない。

 わたしは頭が良くない。

 だがその言葉は今のわたしの心にこれでもかと突き刺さった。この人の笑みを宿した視線は、わたしの心をどこまでも見透かしているようであった。まるでここで出会ったのが偶然とは思えないくらいに。気味が悪かった。

 でも、なんだろう。何も考えなくて良いような気がした。そんな許しを得たような、そんな気がした。気味は悪いが、悪い気分ではなかった。

「一度きりの人生後悔だけはしたくないからなぁ」

 後悔はしたくない……か。

「だから俺は後悔はしてない。結局最後は逃げたかもしれないが、それはまた別の話だ。最初から何もしないよりは一回りも二回りもマシだと思ってる」

 短い会話であったが、心に響くものがあった。佐久間さんの言葉は半分も理解できないことが多いが、それでもその言葉に込められた意志や思いはその場しのぎの、あるいはうわべのものではないということくらいわかる。恐らくこの人も悩んで来たのだろう。楽観的な様子からは決して窺い知れない程に、苦しんできたのだろう。今の私にはそれが理解できた。

 わたしは立ち上がった。

 確固たる意志を持って。

「ん? なんだ、また探しものか?」

 佐久間さんが訝しげにこちらを見上げる。

「はい、実は……」

 そこで気付き、言い止まる。

 佐久間さんに話したところで意味は無いではないか。知らぬうちに焦る気持ちがあったのか、思わずヒナのことを話しそうになっていた。

「いえ、やっぱりいいです。佐久間さんには見えないものですので」

「おっとそれはどんな意味だ? きたない大人には見えないとかそんなアレか? 失礼な。おじさんはな、本島の若者達の間では夢溢れる、外見とは裏腹に子供心満載な、時には見た目は大人、頭脳(おつむ)は子供だなんて褒め言葉も……」

「すみません、佐久間さん! 急いでるんで!」

「おいおい、それは俺の部下どもが俺の話から逃れる時にいつも使うセリフじゃないか。この島まで来てそんなだとおじさん、傷付いちゃうな」

 気が付けば、走りだしていた。



「雷華か」

 目の前に現れた小さな体を認め、立ち止まり、そして呼吸を整えながら近づく。 

「ヒナちゃん……ですよね……」

 何も言わずとも、雷華にはわたしがこうして駆け回っている理由がわかったらしい。

「いつもみたいに連れ戻そうとしても無駄だぞ。悪いが今日のわたしには行かなければならない理由がある。手伝ってくれるというなら歓迎するぞ。お前の目は少しだがヒナを見ることができるのだろう?」

「あの……その……」

 雷華はいつもみたいにわたしを連れ戻す時と違って、煮え切らない態度を見せる。

「なんだ、言いたいことがあるならはっきりと言ってくれ。何か手掛かりでも見つけたのか?」

「手掛かりと言いますか……その……、ごめんなさい!!」

 突然雷華が腰を折り、深々と頭を下げた。

「これを言えばミさんを危険に晒してしまうと思って言えないでいました。だって今のミさんにはジュソと戦う(すべ)が無いから……」

「雷華、どういうことだ」

「ぼく、ヒナちゃんの居場所がわかるんです!」

「本当か!」

「はい。召鬼という術を使えば、ぼく達は地獄にいる鬼をこの世に呼び出すことができるんです。そしてその鬼の力を使えば……恐らく」

「鬼を……だと?」

「はい。鬼と言っても、通常その一部だけを呼び出しているんです。思い出して下さい。紗千が何も無いところから鎌を出してみせたあの技を。あれは鬼の持つ武器だけを呼び出しているんです。普通の人間では無理ですが、鬼の血が混じったぼく達なら呼び出したものを使いこなすことができます」

「なるほど。それで一体どうするのだ?」

 雷華の言うことはわかったが、それでヒナの居場所を突き止める方法が浮かぶかと言えば、それはまた別の話だ。

「ミさん。千里眼という言葉をご存じですか?」

「ああ」

「では千里眼という言葉が元来は鬼の名だということは知っていましたか? 千里眼という鬼が存在するんです。そしてその鬼の目を召鬼すれば恐らく、ヒナちゃんの居場所はわかります。でも……」

 虎の件でキョウの言っていた妙な術とはこのことだろうか。

「頼む! 雷華。ヒナの居場所を探ってくれ。この通りだ」

 今度はわたしが雷華に向かって頭を下げた。

「そんな! 止めてください。方法があるのに黙っていたのはわたしの方なんですから…………。でも……思ったんです。ミさんのことですからこのままでは島中を駆けずり回ってでも探し出すだろうなと。そしてそんな疲れ切った体でジュソに会うくらいならば最初からこうした方が幾分かましだろうと、そう思ったんです」

「そうか」

「確認しても無駄だと思いますが、やっぱり一人で行くんですよね」

「当然だ」

「酷なことを言いますが、ヒナちゃんはジュソです。ミさんが今まで切ってきたのと同じ、ジュソです」

「ああ、わかっている」

「無事に帰ってくると……約束してください」

「ああ……、約束する」

 何の根拠も無い約束だった。

 雷華は札を両手で包み込み、祈るようにすると、静かに呟くように、噛み締めるように言葉を発した。

「召鬼二式……、千里眼」


   *  *  *


 せっかく探してくれた雷華には悪いが、実の所薄々わかっていた。ここではなかろうか、と。

 わかっていてあえて避けていたのだ。こんな所でヒナと会いたくはなかった。短い間だが、ヒナと二人きりで過ごしたあの場所。こうして探し回っていればここ以外の場所で会えるかと俄かに期待もした。だが、そこにいるとわかってしまった以上、行くしかない。行かなければならない。

 突然、眼前に光るものが入り、足を止められる。

「キョウか?」

 キョウの姿を認めて、その光るものが鞘から抜かれた刀だと分かった。

「何故わかった」

「別にわかったわけじゃない。しいて言うなら勘の良さだ。こいつさえあればあのガキ共の妙な術なんて必要ない」

「頼む、キョウ。一人で行かせてくれ」

「俺はな、とことんまで打算的なんだ。お前が勝手に死に急ぐってなら止める理由はない。だがな、お前に何かあるとレンさん達がうるせぇんだ。今晩、レンさんが気持ちよく俺に飯を振る舞う為には仕方のないことだ」

「キョウ……頼む」

「うるせぇ!」

 澄ましていた顔を急に歪め、睨みつけながらキョウは言った。それが怒った顔だということはすぐにわかった。普段から不機嫌に怒っているような顔をしているのだが、本当に怒る時はこんな顔をするらしい。なるほど……怖い。

「こんな島まで来て、そんな馬鹿馬鹿しい醜態を見せられるこっちの身にもなれ!」

「キョウ、何を言ってる。意味がわからないぞ」

「ああわからなくていい。ただこの先に進むってなら俺が今度こそお前を真っ二つにしてやる。お前がジュソにやられる前にな」

「キョウ、言ってることがめちゃくちゃだ。そんなことしたらレンさんに怒られるぞ? ご飯が食べられなくなるぞ?」

「知るか。気が変わった。俺はもう、お前のその醜態を前にして、いくらレンさんの飯でももう治りそうもないないくらいに気分を悪くしてるんだからな。手遅れってやつだ」

「キョウ、わからないよ。全然わからない」

「ならば教えてやる。俺が殺した母親のことをな」

「!?」

 母親を殺した? 今、俺がと言ったか?

 キョウが母親を殺した。

 人殺し……。

 罪人……。

 佐久間さんとの会話が頭を(よぎ)る。

「俺の母親の死に様はな、それはそれは無様だった」

 キョウは静かに話し始めた。

「俺の母親はジュソ退治をしていたんだ。今の俺みたいに。俺のこの剣術も母親から教わったものだった」

「そうだったのか」

 ジュソを見たり切ったりできる能力も母親譲りなのだろうか。

「母親は強かった。俺はそんな母親に憧れた。いつか俺も母親みたいな強い人間になりたいと思った。でも一つだけ、母親に関して一つだけ受け入れられないものがあった」

「受け入れられない?」

「俺の母親もまた、ジュソに憑かれてたんだ」

 そう言葉にしたキョウの口は苦しそうに歪んでいた。

「でも俺の母親はそれを受け入れていたんだ。そしてあろうことか、俺に対して見せる笑顔となんら違わないものをその化け物に対しても見せていたんだ。俺はそれが受け入れられなかった。俺が少しでもその化け物のことを悪く言おうものならば、母親は俺を本気で怒った。全く、理解ができなかった。当然、母親はそのジュソに殺された。時間の問題。至極当然だ。ジュソであるならばいずれ必ず自身の恨みを思い出す」

「キョウ……」

「だからなぁ、気分が悪いんだよ! そんなもん見せられても。別にレンさんやましてやお前の為でもない。俺の気分の問題だ」

 今まで耐えていた何かを爆発させるように、キョウはわたしに迫った。普段の怒り方とは違い、子供が駄々を捏ねるように捲し立てる姿を前に、わたしは宥めるようにキョウの名を呼ぶことしかできない。正直、戸惑った。

「俺の母親はな、こう言ったんだよ! あの人を許してあげてってな! 俺は怒りで狂いそうになった! 頭がどうかなってこのまま直らなくなるんじゃないかとさえ思った! 俺の母親は、あの人は、人だと言ったんだ! あの化け物のことを! 今まで数え切れない程切ってきた化け物に対して、自分達と同じ人だと! 許してあげてと言ったんだ! 人を殺すだけの化け物に対して、自分を殺した化け物に対して! 悲しかった。絶望すら感じた。許すことなどできない。化け物も、俺の母親も。お前がもしあの化け物に殺されに行くってんなら、俺はお前を許さない。その前に俺がお前を殺してやる。どの道同じ結果だ。お前が死んで、化け物が消えて。お前の気持ちなんて知ったことではない!!」

「キョウ……」

「俺の母親にはジュソが憑いていた。今のお前みたいにな。そしてそのジュソは恨みを思い出し、俺の母親を襲った。今のヒナみたいにな」

 キョウは急に力を無くしたように目を伏せた。

「俺が殺したようなものだ……」

「それはキョウの所為ではないよ」

「あの頃の俺だって、それが危険なことだということはわかっていた。だけど母親の幸せそうな表情を見るとそれ以上何もすることができなかった。目の前で溺れている人間を何もせず黙って見ているんだぞ。俺が殺したのと何も違わない」

「キョウの言いたいことはわかった。わからないけど……でもわかった。ようはわたしがヒナにやられなければよいのだろう?」

「あ? 今のお前に何が」

 キョウは呆気にとられて言葉を止めた。

「ほら、これ」

 わたしは懐から札を取り出す。紗千から譲り受けたあの札を。

「ヒナ程度のジュソならこれで祓えるのだろう?」

「知るか。俺はあんな小娘ども信用してない」

「大丈夫だよ、キョウ。わたしは死なない。雷華ともそう約束したんだ」

「別にお前の身を案じているわけではない」

「え? 違うのか?」

 話を聞く限りでは、わたしがヒナに殺されなければ良いというような理屈だと思ったのだが。

「違う! 何を聞いてたんだ、お前は。ここを通るならば殺すと何度も言ってるだろう」

「ならば殺してくれ」

 わたしは両腕を広げ、できるだけ優しい声色でそう言った。

「今すぐ殺してくれ」

「…………」

 キョウは押し黙ったまま動かない。

「キョウ、わたしは後悔だけはしたくない」

「…………」

「わたしの手で終わらせてやりたいんだ。あの子の恨みを。恨みに苦しむあの子を。」

 確かめるように一歩づつ前へ進む。

「キョウ、わたしはキョウや雷華が羨ましいんだ。使命があって力があってジュソを狩る者達が。わたしはそうじゃなかった。偶然ヒナと出会い、恨みを晴らす一心で家を出た。親達に反対され、罵られながらな」

 そして動かないキョウの真横まで来たことを確認すると。

「キョウ、ありがとう。すまない」

 一気に走り抜けた。

 キョウは本当に優しい。とことんまで打算的だと? 

 ならば何故、先にヒナを切りに行かない。



 小屋の戸を開いても、そこにはヒナの姿はなかった。探すように小屋から出て辺りを見回すと、川のほとりにある大岩の上、わたしとキョウが一緒に西瓜を食べていたあの岩の上に、白い着物姿の幼い体が見えた。

「遅かったわね。いやでも早かったのかも。死ぬにはさ。まだ若いのだし」

 その幼い体には到底似付かわしくない口調で、その化け物はヒナの声を発した。

 とん、と地面に飛び降りるとこちらを振り返る。着物が肌けようとも直す気配はない。

 ヒナであった。

 ただ絹のように白かった髪が漆黒に染められていることを除けば、紛れもなく、いつも一緒にいたあの子であった。

「どう? 場所変える? わたしは今すぐお前を殺してやりたいのだけれど。ずっと我慢していたのだし。ふふふ」

「そうだな、戦いの最中でまた小屋が壊れても困るしな」

 わたし達は森の中を移動した。そしてあの、わたしがヒナに刺された場所へと辿り着いた。

「ふふふふ。さあ始めようかしら」

「ああ、いつでもいいぞ」

 嘘だった。良くない。

 確かに成長しきる前のジュソは弱い。それも不意打ちを取られることなく、こうして予め相手を認めた状態でならば、何も考えることなく、難なく討ち取ることができる。以前のわたしやキョウのような者にとってはそれが当たり前であった。しかしそれは斃す術があってのことだ。ジュソを斃す為の武器を持って初めて言えること。だがどうだ。わたしの武器は、あの大鋏はヒナの、今現在相対するジュソの手にある。

 ジュソの持つキョウキは人に自身と同じ傷を負わせ、殺すためのものだ。そしてそれがひとたび獲物を捉えたならば決して逃すことはない。鋼の鎧を身に纏おうとも、ただ虚空を通り過ぎるのと同じく、獲物を切り裂いてしまうのだ。力は要らない。重さも無いに等しい。大して力の無いわたしが、キョウに対してあそこまで虚勢を張れたのもそれがあってのことだ。

 わたしは見えないように懐にある紗千の札を握りしめた。

 見た目が幼い子供とはいえ、ジュソだ。わたしはそのジュソが持つ必殺のキョウキ、大鋏を掻い潜り、この札を貼り付けなければならない。加えて手負いのこの体。少々どころではなく、骨の折れる仕事だ。だが、わたしもこれまで幾度と戦ってきた身。闇夜の礫とまではならないだろう。

「ねぇ。恨むことは異常なことなの? ならばこのわたしは、恨む為に存在するこのわたしは、本当はいてはならないの? ねぇ」

 ヒナは笑った。

「お前とどう違う。恨みを晴らすためにジュソを狩るお前と、恨みを晴らす為に人を殺めるジュソとはどこかに違いはあるのか、答えてみなさいよ。ねぇ」

 手に持った大鋏を弄ぶように片手でくるくると回し、しゃりん、しゃりん、と開閉してみせる。

 そこにはかつて見た、儚く、しかし楽しげに微笑む表情は見る影も無く、艶めかしく、淫靡に嬌笑する女の姿を借りた化け物の面があるだけであった。

「何も違わないよ、ヒナ。わたしはお前と同じだ」

「だから消してやる。わたしが今まで切ってきたジュソと同じように、お前もちゃんとこの世から消し去ってやる」

「くく、くふふふふ」

 ヒナは笑う。

 わたしを見て。

「ふふふふふふ……憎い……。ああ憎い……。お前が憎い!」

 ヒナの怒声を合図にわたし達は動いた。

 ヒナはその醜悪なキョウキを手に、距離を詰める。わたしはそれをかわすように距離を保つ。

 ヒナのあの目は、わたしを殺そうと追っている。今まさに、わたしの体に刃を突き立てる為に、わたしの動きを追っている。

 胸が痛い。それが怪我の所為なんかではないことはわかっていた。あの、不安げに姉の行方を追う目にはもう会えない。そう思うと、無性に胸が痛くなる。

 決心をして来た分、挙措を失い普段の立ち居振る舞いができなくなるということはないのだが、それでもやはり悲しいことに変わりはなかった。

「いくぞ、ヒナ」

 鋏の一撃を引いて交わしたその後ろ足を踏ん張り、今度は前に出る。懐に隠すように握っている札にも力が入る。

「ヒナね……ふふ、笑っちゃう。すべてを思い出したのよ? わたし。お前が勝手に与えた名前なんてもういらない。でも、そうね。最後くらいそう呼ばせてあげるわ。ねぇ、お姉ちゃん(・・・・・)。こんなくだらない関係、終わらせてあげるから、お前を殺して、わたしも消えて、すべて終わらせてあげるから、早く来なさい」

 取った。と思った。


『お姉ちゃん』。


 だが、ヒナの言葉の中のその一言が耳に入り、腕から力が抜ける。

「くっ」

 攻撃の機会を失ったわたし目掛けて刃が横薙ぎに襲ってきた。それを刃の動きに合わせるように斜め後ろに引くことによって、すんでのところでかわす。

 血が頬を伝うのがわかった。

 『お姉ちゃん』。

 さっきの声が頭の中で残響する。その残響は消えるどころか、頭の中でどんどん大きくなって、ぐちゃぐちゃに掻き回される。

 もう駄目だ。

 ついさっきまでの決意も。約束も。強さも。気持ちも。

 その一言で、そのすべてが粉々に壊れた。

 跡形もなく、崩れ去った。

 なんて弱いのだろう。

 手にはもう力が入らない。わたしは握っていた札を離すと、選ぶようにまた一枚札を掴んだ。迷いと罪悪感に押しつぶされそうになりながら。そしてそれを懐から出して構える。

「いくぞヒナ。これで最後だ」

 すべてを失ったわたしの言葉は消え入りそうなくらい小さかった。

 その声を聞いたからなのか、札を構える姿を見てなのか、ヒナもそのキョウキを構え直す。  

 じりじりと互いに詰め寄ると、同時に飛び掛かった。

 そして、その二股に分かれた刃に飛び込むことも意に介さず、ヒナの額に札を張り付けた。

 ヒナの動きは止まった。だが、それは張り付けた札の所為ではない。そんな筈はない(・・・・・・・)。ヒナが自分で止めたのだ。わたしは刃に挟まれる形で、力なくその場に座り込んだ。

「残念ね……」

「ああ、残念だ。戦いの最中の不意の一撃であれば、死の恐怖を感じる間も無く逝けると思ったのに」

「ふふ、そんな思い通りに死ねるなんて思わないで」

 ヒナの額に張り付けた札。それは紗千から譲り受けたものではない。あの時、虎と戦った時に、雷華に見られないようにと拾っておいたものだ。一度使ったものだ、紗千の言う通り、こうして何の効力もない。

「怖い?」

「ああ怖いよ」

「残念だ。わたしは死が怖い。情けないな、最後にお前にこんな姿を見せるなんて。でも仕方がない。それがジュソだろう。人に恐怖を与え、恐怖の中で取り殺す。それが本来のジュソ(おまえ)だ。今更楽に死ねるなんて思ってないよ」

「さようなら。お姉ちゃん」

「さようなら。私はもう妹が死ぬ姿を見たくはない」


 別れの声と同時に、しゃりん、という金属が擦り合わさる、身の毛もよだつような音が耳に届いた。


 思わず目を閉じる。


 ばさり、とわたしの髪が地に落ちるのがわかった。


 悪い、キョウ、雷華。わたしは嘘吐きだ。



 ぽたっ、ぽたっ、と何か水滴がわたしの膝に当たるのがわかった。


 わたしの首から滴る血だろうか。


 ならば瞼を開けば、次に見えるのは空だろうか。土だろうか。

 それはわたしの首の転がり具合によるだろうな。


 できるならば、ヒナの顔が見たい。

 いつもの、あの、ヒナの顔が最後にもう一度見たい。


 わたしは恐る恐る瞼を開いた。


「さようなら。お姉ちゃん」


 ヒナの顔があった。

 笑っていた。


 それは化け物の嬌笑ではなく、いつも通りの見慣れた微笑(ほほえみ)であった。

 でも泣いていた。

 わたしの膝に滴る水滴が血ではなく、その小さな瞼から流れる涙なのだと、その時初めて気が付いた。


「さようなら……」


「ヒナっ!!」


 わたしは、はっとなってヒナの腕を掴む。ヒナの腕がわたしの懐へと延びていたのだ。目で見て初めてその感触が体へと伝わる。そして懐の中には紗千から貰ったお札がある。今わたしが手にしている、あの虎から剥がれ落ちた、既に効力を失ったものではない。

 無理矢理ヒナの腕を懐から引き抜く。

 だが、既にヒナの手にはお札の一枚が握られていた。

 ばちんっと何かが弾けるような音がしたかと思うと、ヒナの表情が苦悶で歪んだ。

「ヒナ!?」

 力を失ったヒナを抱き留める。

 とても、軽かった。

「ヒナ……なんで……」

「お姉ちゃんと一緒にいられるなら、どんな辛いことだって我慢できるよ」

 ならば何故だ。何故。戻ってきたのに。いつものヒナが戻ってきたのに。

「そう思ってた」

 ヒナの頬から滴る涙はもう、わたしの膝に届くことはない。届くことなく消えていく。

 この世から、消えていく。

「でもね駄目なの。わたしの手でお姉ちゃんに刃を向けるなんて嫌だよ。わたしの所為でお姉ちゃんが傷つくところなんて、もう見たくないよ」

「大丈夫だ! そうなったら、もし耐えられなくなって今回みたいなことになったら、また一緒にがんばろう! お前がどこに行こうともまた必ず探し出してやるし、お前がどんなにわたしを傷つけようともわたしはお前を責めはしない! ほらっ、ヒナはちゃんと戻ってきたではないか。いつものヒナがちゃんと。一緒に苦しんで、どこまでも一緒に苦しみ貫いて、だから……」

 もう、わかっていた。元々川の水のように透き通っていたヒナの肌が徐々に薄くなり、もう取り返しがつかなくなっていることなど。わかっていた。腕なんかは殆ど消えてしまい、もう手を取ることさえ叶わないことを。

 それでも、信じたくなかった。

 奇跡が起きるならば、このジュソという人間の恨みから生まれた存在に、神が、仏が、奇跡を与えてくれるのならば、それを信じたかった。

「だから……逝かないでくれ……」

 涙が頬を伝った。

 あれだけ恨んでいたジュソに対し、わたしは涙を流している。

 初めてヒナという特異なジュソに出会った時、わたしはこいつを心行くまで利用してやろうと思った。なんと便利なものを手に入れたと、そう思っていた……筈であった。そうでならなければいけない筈であった。

「お姉ちゃんはジュソを恨んでいるのでしょう?」

「ああ、恨んでるよ」

 恨みを晴らす為、恨むべきジュソを利用し、恨むべきジュソを心行くまで切り刻んでやろうと、何度も心に言い聞かせた。

「お姉ちゃんの大切なものをたくさん奪ったのでしょう?」

「ああ、そうだね」

 ヒナの言葉を聞いて、わたしは自嘲めいた笑みを浮かべる。

「そうだよ……、まったく、ジュソという存在はいつもわたしの大切なものを奪っていく」

 後悔はしたくない。

 だから、震える声を何とか落ち着かせて、最後に言った。

 今まで言えなかったその言葉を。ジュソに奪われたわたしの大切なものの為、言ってはならないと思っていたその言葉を。

 最後にわたしは言った。

 良いことは長くは続かない。それは母の言葉だった。

 好意を持ち続けることには嫌気が差し、楽しいことには飽きがくる。優しさなんてものは次第に卑しさに埋め尽くされるだろう。それは仕方のないことだ。気持ちだけじゃない。若さは老い。力だってやがては衰える。

 だが恨みはどうだ。逆ならば、それはどうだ。恨みも長ければ好意に変わるだろうか、恨んでいる者と一緒にいることが楽しいと感じるようになるであろうか。ならばこの言葉を言うことも仕方のないことだろうか。至極自然なことだろうか。人として、正常だろうか。

 いや、そんな筈は無い。そのくらい、言われずともわかる。それは言い訳だ。ヒナと共に笑顔でいる為にした、言い訳でしかない。

 己の弱さを隠す為の、言い訳でしかない。

 土台無理な話だったのだ。わたしがこの子をジュソとして恨むことなど。一緒にいるうちにこの子に対する恨みがなくなったわけではない。

 最初からそんなことは、できやしなかったのだ。

 そう、最初からだ。最初からわたしは……、


「ヒナ、大好きだよ」


 無理矢理涙を拭い、そして無理矢理精一杯の笑顔を作る。

「お姉……ちゃん?」

「ヒナ、お姉ちゃんはお前のことが大切で、愛おしくて、とても大好きだ」

 他にもたくさんの言葉を伝えたかったが、出てこない。生まれて初めて学の無い自分を呪った。わたしにも本島の女性のような学識があったのならば良かったのだが。キョウや佐久間さんからもっと教わっておけばと後悔した。

 それでも言い続けた。同じ言葉でもたくさん言えばそれだけ意味を持たせられるかもしれない。それだけ伝わるかもしれない。学の無いわたしの滑稽な、それでも必死の抵抗だった。

「大好きだ。大好き。お姉ちゃんはヒナのことが……だい……す……」

 どれだけ言っただろうか、そしてとうとう嗚咽で言葉が出てこなくなる。今まで耐えていた涙も堰を切ったように溢れだす。止まらない。 


「ヒナもお姉ちゃんのことが大好きです!」


 ヒナはもう泣いてはいなかった。

 今までで一番の笑顔だ。こんな顔は見たことがない。

 消えてゆくヒナ。ヒナの姿を少しでも長く見ていたくて目を凝らすが、どうしても涙で視界が霞んでしまう。それが悲しくて余計に涙が溢れた。

 やがて腕の中の感触が無くなっても、わたしはしばらく動くことができなかった。


   *  *  *


 森の出口へと歩いているとキョウの姿が見えた。

 ここへ来る途中に足止めされた場所から全く同じ位置に。まさか、ずっとあそこでああしていたのだろうか。

 わたしは半ば横を通り過ぎるような勢いで、真っ直ぐ向き合うことなく立ち止まった。

「キョウ、わたしは死ぬつもりだったよ」

 言ってから上手く声が出ないことに気が付く。

「……そうか」

「勿論、最初は約束通り帰ろうと思っていた。でも駄目だった。ヒナを前にしたらやっぱり駄目だったよ」

「そうか」

「ヒナは消えたよ」

「そうか」

「キョウから言わせればこれで良かったのだろう? これが正しいことなのだろう?」

 八つ当たりと言われても仕方がない。

 みっともない。そう思うとまた無性に泣きたくなった。

 キョウからの返事が途絶えた。恐らく返答に困っているのだろう。惨めだ。キョウを困らせてどうする。

「唄が……聞こえたんだ」

「え?」

 突然の一言に頭が追い付かない。

「夜、布団の中で唄を聞いた。どこか懐かしい唄だった」

「ヒナ……か……、わたしも聞いてたよ。ジュソは眠らない。ヒナは夜になってすることがなくなるとああやってよく唄を口ずさんでいたんだ。羊を数えても眠れない時は、それが良い子守唄になっていた」

「懐かしい唄………それだけが心残りだ……」

 キョウは本当に優しい。

「キョウ、わたしは今どんな顔をしている?」

 言ってキョウの正面に向き直る。

「笑ってる。とても気持ちが悪い」

 キョウは笑ってしまうくらいに真面目な表情でそう答えた。

「なら良かった。それならヒナの前でもちゃんと笑えていた筈だから」

 わたしは縋るようにキョウの腕を掴むと、また泣いた。

 今度は声を上げて、キョウの胸に頭を押し付けて、子供のようにわんわんと泣いた。

 キョウはそんなわたしを抱きしめるでもなく、拒絶するでもなく、それでもわたしが落ち着くまでずっとそこに立っていてくれた。



「キョウ、わたしを小屋まで連れて行ってくれ」

「あ? お前何を」

「いいんだ。わたしはもうこれ以上弱くなるわけにはいかない」

 言葉を聞いたキョウはそれ以上は何も言わなかった。泣いて、笑って、それでもまた泣いて、疲れ果てたわたしは結局またキョウにおぶわれる形で小屋まで行くことになった。

「あの鳥は島の外に出るのかな?」

 葉の合間合間から鳥達が飛ぶのを眺める。

「出るんじゃないか、鳥には罪は無いし、何よりもあいつらは自由だ」

「ということはあの鳥は島と島の外と、両方の風景を知っているのだな」

「そうなるな」

「なんかずるいな」

「俺だってそうだけどな」

「うん、キョウもずるい」

「…………」

「だからその分、いつか祭りにはちゃんと連れて行ってくれよ?」

「意味がわからん。それに間違えるなよ? 祭りに、じゃない。花火を眺めるだけだ。遠くからな」

「うん、それでもいい」

 もしこの島から呪いが消えてなくなってくれるのならば。

「ああ、わたしもキョウみたく強ければいいのになぁ」

「俺は強いか?」

「強いよ。すごく強い」

「そうか。でも俺はまだ許すことができないんだけどな」

 最後にキョウが呟いた言葉は風で良く聞き取れなかった。でも恐らく聞かせるように言った言葉ではないのだろう。訊き返すようなことはしなかった。

「キョウ、わたしはキョウが好きだ」

 今更何も恥じる気持ちなどなかった。ただ思ったことを口にしたのだ。

 予想に反して背中から伝わる振動に微塵も変化はなく、ただただキョウの足が土を踏む振動が一定の間隔で胸のあたりに届いていた。

「そうか、俺はそんなに好きじゃないなぁ」

 一拍置いて、感情のない言い方でキョウはそう答えた。

 まったくひどい返答だな。でも、いつもなら「俺は嫌いだ」と答えそうなところを考えると、弱っているわたしを考えてのキョウなりの精一杯の気遣いなのかもしれない。

 キョウの背中で交わした会話は、そんな他愛の無いものだけあった。

 小屋までの短い時間だというのに、おぶわれて間もなく、わたしはキョウの背中で眠ってしまったからだ。身も心も疲れ果てたのだ。今回は我慢ができなかった。

 その際、キョウの着物をよだれで濡らしてしまい、それを怒ったキョウから頭を引っ叩かれた。やはりこの男はこんな時でも容赦がないなと苦笑しつつも、わたしは別れの言葉を言った。

「さようなら」

 と、

 これでわたしはもう、キョウと共にジュソを退治して回ることはできないだろう。

 それでも縋ればきっと皆わたしを助けてくれる。手を取ってくれる。温かく向かい入れてくれる。レンさんも、雷華も、勿論キョウだって。それでもわたしはこれ以上強さを捨てるわけにはいかなかった。気持ちだけは強いままでいたかった。

「ああ」

 とだけ、ぶっきらぼうに返事をし、キョウは小屋から出て行った。

 目を閉じて、ヒナの唄を思い出す。

 詩のすべてを覚えているわけではないけれど、それでもあの声ははっきりと頭に響く。

 川のせせらぎのように優しく、静かに。

 耐えられるだろうか。

 夢の中で、お姉さまという声を聞く度に、わたしはこれまで以上に苦しむだろう。

 わたしはそれに耐えられるだろうか。


 その日の夜はやけに長く感じた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ