夜
俺はヒナというジュソのことを何も知らない。
だが、普段のミの様子を見るとそれがミにとって、とても大きな存在であることが見て取れた。
ただ単にジュソと戦う術として、武器としてではなく、もっと他の、それこそ家族のような、理由なく大切に思える存在、そんな風であった。
ヒナという存在に対し俺は、その存在を許すミが愚かであり、浅はかであり、危険を知らない命知らずという感情以外持ち合わせることができない。
ただ、夜になると唄が聞こえるのだ。
ヒナが口ずさむ唄が。
どこか聞き覚えのある旋律に、もしかしたら生前はそこまで遠くない過去の、俺と近い故郷の娘だったのだろうかと考えてしまう。
ジュソを人として見ることを許せない俺は、その唄を聞くたびにどこか懐かしい思いにもなり、未だそのような感情を持つ自分を戒めるのであった。
ジュソは人ではないと。
* * *
「お前、ヒナのやつはまだ帰ってないんだろう? 大丈夫なのか?」
紗千を見送った後も依然としてヒナは姿を見せない。
ジュソである以上、飲まず食わずが当たり前なので別段差し迫った問題も無いのだが、あの大鋏はあの晩に診療所で突然消えてしまったそうだ。それはヒナが持って行ったということらしい。ジュソのキョウキは、そのジュソの意思で所有し、所有させるからだ。
「心配には及ばないよ。これまでも拗ねて何処かへ行ってしまうことは度々あったし、ジュソは憑いた人間からそう離れることはできない。この島のどこかに必ずいる」
別に何も心配してはいない。
「それにしても、今回程長いやつは初めてだな。そう考えると大丈夫ではないのか……ヒナがいないと結局、わたしはジュソと戦えないのだし」
「とは言っても、お前の怪我も完全には治ってないだろう」
「あ? ああ、まあな。でもこっちの方は大丈夫だよ。武器さえあればすぐにでも戦える」
「…………」
「ヒナ……どこに行ったのかなぁ。とても怖い思いをさせてしまった。ちゃんと謝ってやらないと……」
そう呟くと、ミは酷く寂しそうな表情をした。
こいつにこんな表情ができるだなんて、思ってもみなかった。
何故だかわからない。レンさんからやりたくもない掃除を無理矢理やらされているような、そんなもどかしさにも似た何かを感じた。
「もしかしたらヒナはヒナで気を使っているのかもなぁ」
「ヒナが?」
「自分がいればお前は無茶をしてでもジュソ退治に行くだろうから、怪我が癒えるまでは身を隠そうと………あ、いや……」
ふと気が付くと、柄にもなく可笑しなことを口走っていた。慌てて口を噤むが、もう遅い。口から出てしまった分は取り返せない。
まあ、あんな目に会って、なおもこんなことをのたまう阿呆が相手ならば、それを恥と感じることはないが。
「キョウ……、やはりキョウは顔は怖いが根は優しいのだな――あいてっ!」
「引っ叩くぞ」
「もう叩いてるよ?」
思わず言う前に引っ叩いていた。
「それはそうと、そろそろレンさんに言われていた畑の時間だろう? 行こう。わたしも手伝うよ」
ミは叩かれた頭を撫でながら言った。
「駄目だ。お前、まだ怪我が治ってないだろう。ああ勘違いするなよ? お前を連れて行ったら俺が怒られるんだ。怪我人に無理矢理手伝わせたってな」
さっきのように変な事を言われないよう、そう付け加えておく。
「大丈夫だよ? レンさんにはわたしが勝手に付いて来たってちゃんと説明するから。それに、何でもいいから体を動かしたいんだ。鈍ってしまう気がして」
「ああ勝手にしろ。面倒くさい」
どうせこいつは何を言おうと訊きはしないんだ。
ヒノトとツヅミの子守を雷華に任せ、俺達はレンさんのいる畑へやって来た。
雷華はこういう時に便利だ。ヒノトとツヅミに揉みくちゃにされ、挙句の果てには抜け殻のようになってしまい、元に戻るのに時間が掛かることを除けばガキ共の良い餌だ。
日の眩しさに目を細めながら凝らすと、レンさんは既にせっせと働いている。
「キョウか?」
レンさんは俺の気配に気が付くと汗を腕で拭い、顔を上げた。拭った際、頬に泥が付いた。
「今日は怠けなかったじゃないかぁ、偉い偉い――って、あれ?」
ミに気が付いたレンさんは怪訝そうに顔を顰めた。
「みーちゃん?」
「あの、このまま何日も休んでいると体が鈍ってしまうので少し手伝ってもいいですか?」
「何でみーちゃんがいるの? キョウが連れて来たの? 自分が働くの面倒だからって怪我してるみーちゃん連れて来て、馬鹿なの? 死ぬの?」
レンさんの手にする鎌に付いた泥が古い血の塊のように見えた。
「聞けって! レンさん!」
「レンさん、違うんです。わたしがキョウに頼んだんです。手伝わせてくれと」
「あら、そう」
どうやら今度は言葉が届いたようだ。レンさんは時折こうだから困る。
「でもやっぱり駄目よ。野菜採るのだって結構腕の力使うんだから。それで傷が開きでもしたら大変」
「いや、でも……」
「駄目ったら。だーめ。ほら、これ」
レンさんはさっきまで採っていた赤茄子をミに無理矢理押し付ける。
「これ味見してなさい。みーちゃんの今日の仕事はこれっ」
釈然としない様子で赤茄子を受け取ったミは、渋々と一口かじった。
「おいしい……」
それを聞いてにっこりとほほ笑んだレンさんは、道に置いている採った野菜を運ぶ為の荷車を指差す。
「ほら、食べたい野菜持ったらあそこに腰掛けてなさい。仕事はわたし達だけでやるから」
「うう……」
さすがのミもレンさんの言葉には逆らえない。レンさんの言葉にはそんな不思議な力がある。
ミは野菜やら農機具やらを積む為の荷車の淵に腰掛け、鼻歌交じりに足をぱたぱたと揺らしながらこちらの様子を眺めている。足を前へ投げ出すように動かしている為、時折草履を下へ落としてはそれをわざわざ降りて拾い、また足をぱたぱたとさせていた。
余程レンさんの畑の野菜が美味しいのだろう。霧乃園で食べる時もいつもあんな感じだ。遠くから眺めるとそれが一層間抜けだった。
だが、問題はそこではない。ミの格好、それは恐らく動き易いからであろう、いつもジュソを退治しに行くのと同じものであった。あの異様に丈の短い着物。
つまりは、そんなはしたない格好でそんな動作をされては何と言うか…………、はしたない。
「おい、レンさん……あれ……」
俺はどこか迷惑がるような口ぶりでレンさんの視線を促した。
「ん? ああ……危ないわね」
俺の言わんとすることを察したのか、レンさんはそう呟いた。
そしてミに向かって大きく叫ぶ。
「みーちゃーん! 危ないわよー! 鎌とかもあるから後ろにひっくり返ってお尻に新しい穴をこさえないようにねー!」
「だいじょーぶー!」
ミの間の抜けた叫び声が聞こえてきた。
駄目だ、まるで伝わらない。
まあいい、俺達を除けば近くに人もいないことだし。俺は早々に諦め、作業を再開した。
今日の日差しも容赦がなく、早くも汗が滴っていた。
喉が乾き、採っていた赤茄子の一つを徐にかじる。口いっぱいに甘酸っぱい汁が広がる。これはレンさんから許されていることであって、一々目を盗んでやることではない。
「どう、おいしい?」
堂々と食べるので当然、レンさんの目にも入る。俺の手にある食べ掛けを見てレンさんが訊いてきた。だが、先程ミがいた時とは違って、とても静かな声色だった。
「まあ……、普通だ」
「…………」
「ふ、普通にうまい」
無言の重圧に耐えかねて、慌てて言葉を付け足した。
「そう、よかった……」
レンさんは微笑んだ。まるで童女のように。
だが、その表情もすぐに曇る。
少し間があって、
「ねぇ、キョウ。どういうことなの?」
「は?」
言葉の真意を掴みかねるが、レンさんの返事を待たずとも薄々とわかってきた。レンさんの視線がまたあの荷車の方へ向けられていたからだ。
「あの子がうちへ帰ってきて、キョウもいて、これで少しは安心できると思ったんだけど」
レンさんの声は除々に力を失っていくようであった。ここからではミに届く筈もないのだが。
「どうしてあんな怪我をして帰ってくるのよ。森に籠ってた頃だってあんな怪我、したことなかったのに」
知らん。
とは、言えなかった。
いつも通りそれで済ましてしまえば楽なのだが、言わない方が自分の為でもある、という時もある。
だが、どうしたものか……。俺は何と返せばいい。
何と返せばレンさんのその表情が元に戻る。
「レンさんはジュソを恨んでいるか?」
「当たり前じゃないの。ヒノト達に何故父親がいないのか、前に話したでしょう」
「そうだったな」
レンさんの夫の話は以前聞いたことがある。確か、不器用で馬鹿なところが俺と似ていたと、遠巻きに罵られたことに腹が立ったので、よく覚えている。勿論その最期も。
「だからってあの子が化け物を退治する為に傷ついてるのを見過ごせないわよ。いい? この島の人間は遅かれ早かれ皆化け物にやられて死ぬの。それは決まった事なの。そういう呪いなんだから。しょうがないでしょう? ご先祖様達がそれだけ悪いことしちゃったんだからさ」
この島は監獄。
何かを諦めるような口調でレンさんは言う。
「…………」
「わたしはね、恨んでるものに復讐することが悪いことだと思わないの。わたしだってそんな力があればやってやりたいわよ。とても綺麗な気持ちだとは言えないけれどね」
復讐は悪いことじゃない。
レンさんみたいな人が母親だったら、もっと楽に恨むことができる人間になっていたかもしれない。そんな下らない冗談めいたことを考えてしまった。
「でも復讐の為に自分が傷つくなんて……、何か悲しいじゃない。見てられないじゃない。特にわたしみたいに、あなた達を遠くから見ていることしかできない人間にとってはね」
そう言うとレンさんは遠くに目を遣る。遠く。少し遠くの荷車へ。
「ほんとに遠くよ。遠い……。それでもあなた達は近くにいるの。わたしのとっても近くに」
どこか物悲しい、それでいて愛おしいものを見る、そんな目で。
「だからお願いよ……」
俺だって、あそこでミが傷を負うとは思っていなかった。
あの時、森で取り逃がしたジュソをあえて紗千に討たせたのも、あいつら鬼というものの戦い方を知る為でもあったのだが、成長したジュソにあそこまで力の格差があるとは思わなかった。紗千が討ったあの時のジュソ、あれは弱っていたとはいえ、紗千の攻撃を受けてほとんど動くことができなくなったというのに。
こうなるのなら紗千が札を張り付けたあの時間髪入れず、いやそれよりも早く、あのジュソを切ってしまえば良かった。今まで通り、すべて一人でやってしまえば。
どの道これ以上あいつらにさせるつもりはない。この先、目の前に現れるジュソはすべて、俺が一人で斃す。そう決心すればする程、どこか不甲斐ない気分にさせられた。
今回のことだって変な気まぐれさえ起こさなければ、最初から俺一人でやるつもりだった。布団の中でミに言ったことの半分は本当だったのだ。
「ま、いつもってのは無理だろうけど、それでも守ってあげてよ、あんた男なんだからさっ」
少し間があって、レンさんは何かに気が付いたかのようにハッとすると、急に語調を変えた。
「一番良いのはあの娘が化け物退治だなんてもんをやめることだろうけど、それはあんたがこの島に来る前から散々言って駄目だったことだしね。ほんとにわからずやだわ。それと雷華ちゃん。キョウ、本当ならあんたもよ? まったく、揃いも揃って困った子達」
「知らん」
結局言ってしまった。
「…………」
案の定、レンさんは不機嫌そうに眉を吊り上げた。子供のように頬を膨らませて、見るからに立腹だ。
だが、曇った表情を見るよりかは幾分ましに感じた。
「キョウっていつもそう。その口癖、止めた方がいいわよ」
そしてやはり子供のように口を尖らせ、拗ねて見せる。
「……知らん」
* * *
一通り畑仕事を終えると、レンさんは少しばかり用があると、先に戻ってしまった。家の米が少ないと言っていたので、恐らく米を作っている知り合いの所へ、野菜と交換してもらいに行ったのだろう。日が暮れる前に戻ってくれれば良いのだが。ミ程ではないにしろ、ああ見えて割と呑気なところがあるから心配だ。
森を脇に歩いていると、突然思い出したかのようにミが立ち止まる。
「キョウ、ちょっといいか?」
「駄目だ」
それを聞いて、やっぱりとでも言いたげに、妙に納得したような表情で微笑むと、ミは勝手に話し出す。
「わたしの小屋の前の川に西瓜が冷やしてある。駄目にならないうちに食べてしまいたいのだが」
「駄目だ」
「でもいいのか? わたしは勝手に行くぞ? 今のわたしはジュソに敵わない。それで何かあったらレンさんはどう思うのだろうな。いや、何が無くとも怪我をしているわたしが一人で森に入ったという事実だけで大事だろうな、レンさんにとっては」
「お前……、畑での会話、聞いてただろ」
聞こえる筈もない距離だと思ったのだが、とんだ地獄耳もいたものだ。
「さあ何のことかな」
あからさまに恍けてみせる。
「まあいい、でも調子に乗るなよ? 俺にも限界ってやつがあるからな」
嘆息して見せ、そんな言い訳じみた言葉と共に俺は了承した。俺だってこの茹だるように暑い中、冷えた西瓜とやらに興味が無いわけではない。
「そうと決まれば急ぐぞ!」
ミは急に森の方角へ駈けだした。
「おっ、おい馬鹿! ………くそ、あの阿呆女が……」
レンさんからあんなことを言われた手前、見失うわけにもいかず、俺はミの跡を追いかける。
小屋に着く頃には日が傾きかけていた。
大きく切った西瓜を、川岸の大きな岩の上に腰かけて食べる。
ミは口の周りを汚しながら、そんなことは気にしにない様子で西瓜にかぶりついている。足をぱたぱたと揺らしながら。
「お前、草履を川に落として流されても取りに行ってやらんからな」
「自分で行くからいい」
ミは構わず西瓜を頬張り続ける。
近くで見れば、ミの着物は土やら何やらで汚れていた。存分に曝け出した足には所々引っ掻き傷のようなものがある。古いものもあれば、今さっきできたとしか思えない程新しいものまで。ここに来る途中の枝が原因だろう。馬鹿みたいに走ったりするからだ。
「はぁ。お前、見れば見るほどなんというか………残念だな……」
溜息に混じって、思わずそんなことを言っていた。
「ん?」
「いや、お前も、例えばあの紗千みたいに着飾ってみたいとは思わないのか?」
「キョウはそうした方がいいのか?」
「いいや別に。だがあんまりみすぼらしい恰好してるとレンさんが心配するぞ」
まあ、レンさんにしても人のことを言える立場ではないのだが。それでもあの人は一応、既に二人のガキを持つ母親なのだし。そう考えるとやはり一番正す必要があるのはこいつだ。
「そうか……考えておく」
どうせわかってはいないだろう。
「それとその足のぱたぱた、今は構わんが荷車の上でやるのはやめておけ。周りに人がいる時は特にな」
「駄目なのか? 本島ではそういう決まりなのか」
「そうだ。本島でそれをやることは、わたしはこの上ない愚か者だ、と自ら公言しているようなものだ」
そういうことにしておいた。
「そうか……気を付ける……。でも、今はいいのだろう?」
そう言うとミはぱたぱたを再開する。
いたずらっぽくこちらを伺いながら微笑むミを見て、忠告する気が失せた俺は、まるで懐いて寄ってきた猫を追い払うがごとく手でしっしっとしてやると、草の上に寝そべった。
「ああ勝手にしろ。愚か者」
気が付けば、日が半分程落ちていた。
低くなった日は空をより一層濃い橙に染め上げる。木々やその葉によって象られた夕焼け空は、真夏だというのに、まるで光り輝く紅葉のようであった。
レンさんはもう帰ってくれただろうか。
「わたしはこの島から出たことがないからわからないけれど、本島だとまた違う感じ方をするのかな」
「は? 何がだ?」
こいつの突拍子もない発言は今に始まったことでもないので、気に留めることでもないのだが、生憎この場にいるのは俺とこいつの二人。西瓜への礼も込めて、というのは勿論皮肉を込めた文言ではあるが、一応訊いてやることにする。
「この島の子達にとってあの夕焼けは危険の合図なんだ。もうすぐ化け物が出るぞ。早く家に帰れっていうな。……でも、あんなに綺麗なんだぞ。なんか勿体ないと思って。化け物なんていない世界ならもっと違う感じ方をするのかなと思って」
ミは伏し目がちに地面の草をいじりながら、どこかたどたどしく言った。
「さあな、どこもそんなに変わらないんじゃないか? それに、本島にはジュソがいない分、他に色々と危険なものがあるからなぁ。そしてそういうものは決まって暗い所からやって来る」
少し前に、本島の故郷で夜に子供の連続誘拐事件があったことを思い出す。
そういえばこの島に来てから人の犯罪など耳にしたこともなかった。
「そうかなぁー」
「そうだ。どこにいたって安全なんて無いんだよ」
初めて会った日の夜、ミはこの島に対して同じようなことを言っていた気がするのだが、本島にどんな幻想を抱いているのだろうか。
「ふふ」
目を伏したのはそのままに、ミの笑い声が聞こえた。
「どうした?」
「いやな、佐久間さんと同じようなことを言うのでな」
「なんだ、お前。佐久間って奴に会ったのか」
「ああ、ちょっとな」
「…………」
「どうした? キョウ」
しばらく黙っていると、急にミが顔を覗き込んできたので慌てて背ける。
「だが夜に悪いことばかりがあると決め付けるのは正しいとは限らんぞ」
「そうなのか? 例えば何があるんだ?」
「あ? まあなんだろうな……」
その佐久間という人間とは面識がないのだが、そいつと同じようなことを口にしているという事実が何となく不快だった。それだけなのだが……。慌てて考えを巡らす。
「……例えばあれだ。花火とかあるだろ。あれは暗くなければ意味が無い」
我ながら説得力に欠ける選択肢だと思った。思いつきで言うものではない。もっと良い例えがあるだろうに。
「花火……か」
だが、ミは不意を突かれたように言葉を詰まらせた。
「なんだ、花火知らないのか?」
「知ってるよ。ただ、話で聞いたことがあるだけだけどな。なあ、花火は綺麗か?」
「大したことはない。だが女共は決まってああいうのが好きだからなぁ」
「そうか、なら見てみたいものだな」
「馬鹿か、とてもじゃないがお前に普通の女の感性があるとは思えん」
「それは見てみなければわからないだろう」
ミがムッとした表情でこちらを睨んだ。さっきまでいじっていた草を抜き取り、俺に向かって放ったのだが、逆に吹く風のせいで俺にまったく届くどころか、反対にミの頬にその一本が張り付いた。
「いやわかる。お前にはそんなものよりも食いもんの方がお似合いだ」
「じゃあこうしよう。もしもわたしが本島に行った時は一緒に見よう」
頬の草を払いながら、何故かはわからないが、ミはどこか得意げな表情で提案してきた。
「嫌だ」
「いいではないか。行こう」
「そうは言ってもお前はこの島から出られないだろう。そういう呪いだってのは知ってるんだぞ」
「そうだな、この島の者の祖先は大体が重罪人だからな。そう簡単に出られてしまっては意味がない」
「ならばやっぱり無理だろう。馬鹿馬鹿しい」
「だからもしもと言ったじゃないか。もしも、この島から呪いというものが綺麗さっぱりなくなって出られるようなことがあれば、その時は連れて行ってくれ」
「ああ、わかったわかった。その時もし、その約束を俺が覚えていたらな」
応対が億劫になり、了承することにした。どの道、無意味な約束だ。ムキになって応えてやることもない。
「だが遠くから眺めるだけだぞ。お前と一緒に祭りを回るなんて御免だ。考えただけで虫唾が走る」
それでも念の為、最後にそう付け加えておいた。
「そうか祭りかぁー」
話を聞いているのだろうか、こいつは。
「なあ、その祭りはどんな食べ物が出るんだ?」
「知るか、そんなの祭りの数だけまちまちだろ――って、ほれみろ、やっぱり食いもんだ」
祭りという言葉を知っていても祭りのことは知らない。
それはこの島に祭りというものが存在しないからだ。
「この島に祭りは無いのか?」
それでも訊いた。これ以上この島でこんな会話をすることに、ある種の虚しさを感じたからだ。そこでこんな質問の一つでもしておけば、晴れた気持ちもたちまち台無しにしてしまうだろう。
「無いよ」
ミは即答した。
「そういう決まりだから」
祝ってはいけない、めでたいことは何一つ無い。この島の決まりだ。この島の、この島の外の人間が決めた決まり。今で言う、監獄のような役割を果たしてきたのだから無理もないのかもしれない。その昔、『おめでとう』はこの島では禁句だったそうだ。
「ああやっぱり綺麗だな。この島の夕暮れは。とは言ってもここ以外の夕暮れを見たことがないが」
何かを振り払うようにミは言葉を大きくした。
そして苦笑する。
「だけど日が暮れるということは、もうすぐ夜が来るということ……。夜にはまた、どこかで人が襲われる。島の呪いを受ける」
「…………」
「キョウ」
しばらく黙っていたからだろうか、ミが改めて俺の名を呼ぶ。
「日など……ずっと暮れなければ……、夜など来なければいいのにな」
「そう……だな……」
いつしか、ぱたぱたとご機嫌だったミの足は止まっていた。
「夜は長いしな」
* * *
日は落ち、辺りは暗がりに包まれた。
すっかり無駄な時間を過ごしてしまった。昼間の話の後だ、こんな時間までミを森の中まで連れ回したと知られれば、レンさんは激怒するだろう。正確には俺がミに連れ回された形なのだが。まったくもって、溜息しか出ない。
「帰るぞ」
俺は半ば命令するような口調でミに言った。暗すぎてミの表情はおろか、木々の様子さえ満足に伺い知ることはできない。油断すれば枝にやられてしまうだろう。ただ、川に浮かぶ月だけが不気味に蠢いていた。
しかしミは素直に、
「うん」
とだけ言い、立ち上がる。
表情はよく見えずとも、その短い返事の勢いの中で、幾分か元気を取り戻したことを確認する。
落ち込んだり、元気になったり、忙しないところがとても嫌いだが、それだけに便利な性格でもあるなと、関心にも似た感情を抱いて歩き始めた。
だがそんな安心も長くは続かなかった。先を歩こうとする俺の背後から、足音が全く聞こえてこない。振り返るとミは案の定立ち止まっていた。
「きょ、キョウ…………あれ……」
ミが突然何かを指さす。
その指は震え、月明かりが薄っすらと反射する瞳は驚きか困惑か、大きく見開かれていた。
何故だか嫌な予感がした。
闇の中、薄っすらと白い影が見えた。
「ヒナ?」
はっきりとはわからない。その影に向かってミは問いかける。
確かめるような口調ではあるが、どこか確信を孕んだ言葉に感じ取れた。
葉の隙間から漏れた月明かりに照らされて、影は怪しく身じろぐ。輪郭さえわからないが、何故か怯えているようにもみえた。
「お姉ちゃん……」
その声を聴いた瞬間、ミの足は駆け出していた。影は逃げるように森の奥へと姿を消す。
「ヒナ!」
「おい!」
俺は慌ててミの後を追った。
嫌な予感は大きくなるばかりであった。
ミが影に追いついたのは丁度、木や竹が生えていない開けた所だった。
俺が着いた時にはミはすでにその影に近づこうとしていた。
静かな風の中で、わずかに見える二人の長い髪の影がゆらゆらと微かに揺れているのがわかった。
月明かりが差し込み、白い影がその全貌を現す。
間違いない、ヒナだ。
「ヒナ……」
「お姉ちゃん……来ないで……」
名を呼び、近づこうとするミを、ヒナは拒絶する。
どこか苦しげで、どこか縋るような拒絶であった。
「どうしたんだ、ヒナ」
「おい、ちょっと待て」
やはり様子がおかしい。
「ここはわたしに行かせてくれ。頼むから。な?」
胸の奥で自分の心臓の鼓動が大きくなっていくのがわかる。とても嫌な感じだ。獲物を獲物を切る時の興奮とは似ても似つかない、何とも説明しがたいざわめきを孕んだ鼓動であった。
「ミ、駄目だ。そいつは……そいつらは……」
気が付くと、俺はミを引き留めようとしていた。
初めてこいつの名を口に出した気がする。
名と言っても、この島では〝呼び名〟と言った方が正しいのだろうが。
だが、ミは何とも言えない儚げな表情で小さく首を振ることで、俺を遮った。
「ヒナ、大丈夫だよ」
そっと近付き、優しく声を掛ける。
「お、お願い……来ないで……」
ヒナは震える足でじりじりと距離を取る。
「大丈夫だ」
しかし、ゆっくりと前へ進むミの足は容易くヒナへと届く。
「……お姉……ちゃん……」
ヒナは恐る恐る顔をあげた。
「いや、来ないで……お姉ちゃん」
ゆっくりと膝を付くと、ミはヒナを抱き寄せる。後退ろうとする体を無理矢理包み込んで。
「大丈夫、大丈夫だ」
駄目だ。
「お姉ちゃん、お願いやめて……お願い……お願いよ……お願いだから……」
ヒナは哀願するように言葉を繰り返す。
「お願いだから…………………………………………………………………………………」
駄目だ。
「お願いだから」
「お願いだから」
「お願いだから」
「お願いだから」
「お願いだから……」
駄目なんだ。
「お願いだから………………………………………………
…………………………………お願いだから死んで?」
だってそいつらは。
音は無かった。
驚くほど静かに。
ただ、ミの口の端から赤いものが一筋、ゆっくりと流れて滴った。
ミの表情はただただ驚きを見せているだけであった。腹に刺さった刃が乱暴に抜かれるその時ですらただ目を見開き、ヒナを見つめている。そして、そのままうつ伏せに崩れるように倒れた。
「ヒ……な……?」
ミの腹を貫いたヒナの表情はまるで、止めていた息を一気に吐き出したような、そんな快に満ちていた。どこか安心したような。心許なく揺らぐ瞳は風一つない水溜りのように静かになり、そして…………。
そして、そっと、その小さな花弁のような唇を剥くのである。
ヒナは乱暴に血を振り払った刃を睥睨するように見つめると、足元で蹲る女を一瞥し、今度は迷いなくその刃を死にかけの女の首筋目掛けて――――
「くそっ!!」
俺は刀を抜き、二人の元へ駈け寄る。
それに気付いたヒナは俺から逃げるように走り去って行った。
一度倒れているミを通り過ごし、しかしすぐに立ち止まり、遠くなっていくヒナと地に伏すミに挟まれながら一瞬迷った挙句、ミを抱き起す。なるべく、傷口を動かさぬよう、そっと。
「おいっ!」
ミの顔を見ると、目は虚ろだが辛うじて息はしているようだった。
「ああ……キョウ……か……。無様……だな……、へへ……」
ミは苦痛に顔を歪めながらも、可笑しそうに笑った。
「うるさい、喋るな」
俺はミの口から吐き出された血を袖で拭ってやると、すぐにおぶった。
診療所の場所は一度行ったから知っている。
「キョウ……すまない……、また着物を汚してしまった……」
「喋るなと言ってるだろう! 阿呆が!」