虎は死して皮を、人は死して何を
人は死んでも何も残さない。
それこそ名誉や功績のようなものは残るであろうが、それは死んだが為に残ったものではない。それを差し引けば人には何も残らない、何も残してはやれないのだ。
ならばジュソはどうだろう。
ジュソは人の恨みから生じる。恨みとはいえ立派な人の感情。それならば、人が残したものであると言えるのではないか。
否、それは違う。
この島に、ジュソに対して共通の認識や学問的な決まりがあるわけではないが、わたしは幼い頃からそう教えられてきた。
ジュソは人の恨みから生じたもの。生まれたもの。
間違っても人から成ったものと解してはならない。
人はそれを予め持っているわけではない。死んだからといって、手から毀れ落ちるようにして残る筈もないのだ。残らない。残ってはならない。
だからジュソとは恐ろしいモノなのだ。そう、教えられてきた。
化け物として生まれ、化け物として消えていく。
幼い頃からそう、教えられてきた。
ジュソ。
死者の恨みが生前の姿を形作り、ジュソとなる。
そしてその手に握られるキョウキは、自身の致命傷と同じものを与えるべくして形作られる。だが、その形は恨みという感情により歪に歪められ、見るも恐ろしい外形を成す。
泥と泥が織り混ざるように、どす黒い感情が人の命を飲み込もうと。
まさに人を呪い殺す為の凶器。恨みを持った化け物の狂気。
死者に感情は無い。たとえジュソという化け物を生じさせたところで、死者の恨みが晴らされるわけではない。
人は何も残さないのだから。
残酷なことだ。これを呪いと言わずして何と言う。
* * *
「どう思う?」
「もし、いれば、あるいは見間違いじゃなければの話だけど、そんな色した虎なら十中八九ジュソでしょうね。ま、わたしだって本物の虎がどんなのか、絵でしか見たことないけど」
「放っておけ、あれだけ言ってこうなんだ。死んでも自業自得ってやつだろう」
「今だけはその男に賛成よ。放っておくといいわ」
「紗千までそんなことを言うのか」
二人揃って冷たい言葉を並べていく。こちらと目も合わせようとしないで。この二人はどことなく似ていると思っていたが、今に限ってはそれが忌々しくもあった。どこにもやれない気持ちを拳に込め、爪が手のひらに食い込むのがわかった。
「勘違いしないで。無意味だって言ってるの。ジュソは水を嫌うのよ、特に雨水をね。聞いたことくらいあるでしょう? 結構有名なんだけどね、雨には少なからず浄化の力があるって話。その虎の話が本当にジュソのことを言っているなら、雨の日に出会うことはまずないわ。成長したジュソに出会うことはただでさえ稀なのよ?」
「そうか、それは残念だな。あいつが死んで、お前は村に帰って、これで邪魔なガキ共がいなくなると思ったのに」
「何ですってぇ」
紗千がキョウを鋭く睨み付けた。
「でも、弱っちいあいつのことだ、雨水に滑って転んで死んでるかもな、今頃。なんなら今から村に帰って葬式の準備でもした方が良いんじゃないか?」
「何ですってぇ!!」
「…………そうか……。良く分かった」
騒ぐ二人を尻目に、落胆したわたしはそれだけ言うと、腰を上げた。
ジュソが人ではなく虎の形を成しているならば、それは紛れもなく成長したジュソだ。
成長したジュソはこの世のものを形作ることが多い。先日の熊然り、今回の虎然り。
それはジュソが人を恐れているからだ。
自分を殺めた〝人〟を恐れ、恨んでいる。
だから、生前の記憶を元に、恐ろしい姿を成す。自身が恐ろしいと感じる姿を。
恐れるが故、恐れさせようとする。
強い恨みは殺すだけには飽き足らず、人の恐れを求める。
果たして、今の雷華がそんな恐れに打ち勝てるのであろうか。ジュソ退治を生業にする者にとっては酷な宣告だが、それは到底無理な話だろう。今の雷華が虎のジュソを討とうとしているならば、それは明らかに死に急いでいる。それはまさしく虎の尾を踏みに行くようなものだ。
そっと裏口から出ると雨粒が肩を濡らし、着物の藍色を濃くしていく。
レンさんに言えば傘を貸してくれたであろうが、余計な心配はかけたくなかった。
それでも黙って勝手に出て行くことに後ろめたさが無かったわけではないが、雨水が肌まで染み込み、ひやりとする感覚を感じると、不思議と気持ちが吹っ切れた。自身の事など、どうでも良くなった。
雨空を見上げ、ふとわたしはヒナが川の水を嫌って川に入るのを頑なに拒んだ時のことを思い出す。ジュソは水を嫌う。確かにそうだ。だが、だからといって雷華が必ずしも安全であるとは限らない。何が起こるかわからない。ならばここで動かない理由は無い。
ヒナをレンさんの家に残し、わたしは佐久間さんとやらに会いに行くことにした。
雷華の狙いがヒノト達の言う虎ならば、もしかしたら先回りできるかもしれない。
わたしが先に斃してしまえばそれで済む話だ。そうすれば雷華がいくら探そうとも見つけられまい。
佐久間さんとやらのいる場所はヒノトから訊き出した。幼さゆえに話の要領を得ない上、きかっけさえあればすぐにあちこちへと話が逸れる為、訊き出すのには苦労したが、何とか居場所を知ることができた。
この家からそう遠くない海岸にある小屋。そこにその男は住んでいるらしい。
わたしは帯で縛った大鋏を背に担ぐと、髪から滴る水滴も構わず、海岸目指して歩きだした。
小屋らしきものは案外容易に見つけることができた。
元々何もない閑散とした所だ。何かあればそれだけで遠くからでも目立ってしまう。
しかし、小屋に近づくにつれ、その小屋が本当に小屋と呼んで良いものなのか、甚だ疑問に思えてきた。
わたしが川のほとりに建てた小屋もそう大層なものではないが、それでもこの海岸にある小屋はお世辞にも人が住んでいる所とは思えなかった。まちまちな大きさの廃材を無理矢理押し固めて、それが偶然倒れずにいる、そんな印象しか持てない。こんな所に本当に人がいるのであろうか。風が吹けばすぐにでも吹き飛んでしまいそうであった。
「頼もう!」
わたしは小屋の周りを一周し、戸らしき所の前で声を掛けた。戸を叩いてみようかと思ったが、迂闊に叩いて戸を外してしまっては大変と思い、止めておいた。
「おーい!」
小屋の中からは物音一つ聞こえない。やはり、誰もいないのではないか。そう思い、念の為もう一度声を掛けておこうと息を吸ったその時である。がたがたと揺らしながら戸がゆっくりと開いた。
「ん? 何だ? こんな雨の中お客さんか?」
中から姿を現したのは背が高く、恰幅の良い男だった。口元に無精髭を蓄えている所為か、それ相応に年を食っているように見えるが、声と肌で感じる雰囲気から、思っているよりもずっと若いのだろうと勝手に想像する。
「おや? ずぶ濡れじゃないか、どうしたってんだ。家出か何かか? まあ良い。お嬢さん、とりあえず上がりな。何も無いが髪を拭く何かくらいなら貸してやれる」
そう言うと、入口塞いでいた巨体をずらし、小屋の中へ促す。
「突然押し掛けてしまい、失礼しました。わたしはミという者です。佐久間さんに少々お伺いしたいことがありましてここまで来ました」
「いやいや、本当に驚いた。こんな日にこんな可憐なお嬢さんが訪ねて来るなんて、夢を見ているようだ。遠慮することはない」
佐久間さんはわたしを小屋へ上げるなり、ほれ、っと手拭いを頭から被せた。わたしはそれをありがたく使わせてもらうこととする。その間、佐久間さんはどうやらお茶を淹れてくれているようだ。いかにも急拵えといった感じの無骨な囲炉裏で湯を沸かすと、それを急須に注いでいる。
成程、中は中で快適とまではいかないまでも、暮らせるだけのものはあるようだ。
佐久間さんは二人分の湯のみを用意すると、囲炉裏を挟んで、どかっ、と乱暴に胡坐を組んだ。床が抜けやしないかと心配になる。
「いやしかし、随分とセクシーな出で立ちだな。こんなお嬢さんと二人でお話ができるなんて、歌舞伎町に通ってた頃を思い出すぜ。まあ飲んでるのは酒ではなく茶だがな。かっかっか」
「……? はて、せくしぃとは?」
急に理解のできない言葉を話し始めたので困惑する。そんなわたしの心境をよそに、佐久間さんは実に嬉しそうな笑みを貼り付かせている。
「あ? ああ、悪い悪い。これは本島の人間が使う西洋の言葉でな、まあ、なんだ、女として魅力的とかそんな感じだ」
本島の人間とはこの島の人間では理解のできない言葉を話すものなのか。初めて知った。キョウと話している時はそんな言葉を聞かないばかりか、違和感一つ覚えなかったのに。もしかしたら、わたしの気付かぬところでキョウは気を使って、言葉を選んで話すようなことをしていたのだろうか。そう考えると、仕方のないことではあるのだが、何も知らずにのうのうと接していた自分が、酷く浅はかであったように思われた。
「魅力的………、わたしの格好が魅力的ってことですか」
この、単に動き易さのみを考えた格好のどこに、佐久間さんの言う魅力があるのだろうか。
「ああそうだ。魅力的だ。生憎今は一文無しだが、金を持っていたらいくら注ぎ込んだっていい。なんなら毎日指名してやるよ」
この人の言うことはヒノト達以上にわからない。
「は、はぁ」
失礼と感じつつも、わたしは適当に相槌を打つ。そうせざるを得ない。
「まあ、冗談冗談。しかしこの島の人間相手だと話していて不思議な気分だな。まるで自分が時代の先を行く人間って感じだ。ま、実際そうなんだけどよ。こんなことで得意になるってのは下衆な考えだが、それでも新鮮には違いない。本島じゃ俺は若い奴らに馬鹿にされっぱなしだったからよ。話が古臭いだの、服装が古臭いだの。ったく古いことの何がいけねぇってんだ、あのクソ生意気なキャバ嬢共が」
「本島にはこの島の人間が理解できない言葉がたくさんあるのですか?」
「あるもなにも、本島の奴らはどんどん自分で言葉を作っちまうからな。特にお嬢さんくらいの年の女なんてのは特に」
言葉を……作る。
どうやら本島には学識豊かな女性が多いようだ。
「『ちょームカつくー』とか『まじキモイー』とかくらいならまだかわいいもんだが、『なんとかナウー』だとか『あげぽよー』だとか、さすがに最近の若者が使う言葉はもう、おじさんには理解できねーよ。あ、これももう古いんだっけか」
「ちょーむかつく?」
「あーそれは……、とにかく気に食わない相手に言う言葉だ。間違ってもお嬢さんは使うなよ? つっても通じやしないか、かっかっか」
気に食わない相手に……。取りあえず覚えておこう。誰も知らない島の外の知識を身に付けるのは、何だか少し得した気分だ。ヒノト達の気持ちが少しわかる。それでもキョウにだけは及ぶ筈もないのだが。
「そうそう。この島に着いた時から、村の女の子達に訊かなければと思っていたことがあるんだ。いやまあ、機会は十分にあったんだが如何せん内容が内容なだけにな、俺だってこう見えて元来真面目な性格だから……ってのは嘘で、正直嫌われたくないのよ、うら若き乙女たちからは特にな。その点お嬢さんなら大丈夫な気がする。わかるんだ、お嬢さんは身も心も美しい。そんな女は他人の言動にいちいち目くじら立てたりしない。東京にいた頃、セクハラを訴えるのはいつだって身も心も不細工な奴ばっかりだった」
「何ですか?」
そう尋ねると、佐久間さんは顔を強張らせ、これ以上ないというくらい真剣な目をした。今の会話だけでも他に尋ねたいことは多々あったのだが、それでは会話が進まなくなる気がした。
「本当に穿いてないのか?」
「は?」
「下着だよ下着。着物ってそういうもんだろ? 本島ではな、普段からそんな格好してるやつはもう珍しいんだよ。そういう催しでもない限りな。確か付き合いで行ったメイド喫茶っつう所は何故だか女の子がみんなそんなような格好してたぜ? 丈が異様に短い着物な。店のコンセプトらしいが、どの辺がメイドなんだか最早わかりゃしねぇな」
「めいど? したぎ? こんせぷ……?」
「メイドはさておき、だから着物の下に何も着てないのかって訊いてんだ。その短い裾を捲ればその下に肌を隠すような布はあるのか? 無いのか? さあどっちなんだ!」
襦袢のようなもののことを言っているのだろうか。
「ああ、それならありませんね……」
少々押されぎみになりながらも、そんなことを訊かれて不審に思わないと言えば嘘になるが、取り立てて隠すようなことでもないので、わたしは正直に答えた。夏とはいえこんな天気の日には少々肌寒いことは否めないが、いざとなれば万全の状態で動けるようにしなければならない。余計なものなど身に付けるわけにはいかないのだ。
「なにぃ!?」
がたんっと、茶の入った湯のみをひっくり返し、佐久間さんは勢い良く立ち上がった。
何をそんなに驚くことがあろうか。
「どうかしましたか?」
「その丈で堂々とノーパ……いや、すまん。少々取り乱した。しかし調子が狂うな、お嬢さん。俺の言葉を聞いてせめて顔を赤らめてそむけるくらいのことはしてくれないと、セクハラのしがいがないってもんだぜ」
佐久間さんは再び腰を落ち着けると、薄緑の着物の懐から何やら書物らしきものを取りだした。そして筆だろうか、書物に挟んであった細い棒らしきものをさらさらと滑らせる。何かを認めているのだろうか。
「お嬢さん。俺はな、学者なんだ」
視線はそのままに佐久間さんは言う。学者という言葉がわからないわけではないが、それが意味する所はまるでわからなかった。
「学者……ですか。つまり佐久間さんはこの島で何かを調べているのですか?」
「調べてる……、ま、そんなところだ。ん? 疑ってるのか? 俺はそんな頭が良さそうには見えないってか?」
「ああ、いえ。ただ何を調べているのか気になって。それはやはり、この島の呪いや、現れるジュソについてですか?」
本島に渡ったことのないわたしでも、この島にあって他に無いものなどそれくらいだとわかる。外の世界は広いと聞く。きっとこの島にあるものなんて、世界から見ればほんの
一握り程に違いない。
「あ? ああ違う、違う。俺はそんな非科学的もの信じちゃいない。もっと単純なものさ。そう、例えばこの島の歴史とか文化とかさ。ちなみに服装も立派な文化だぞ?」
「佐久間さんはジュソをいないと思っているのですか?」
「いないと思ってるんじゃなくて、いないんだよ。いいか? それが学者の考え方さ。そもそも本島の人間でこの島の呪いについて知ってる奴なんてのはな、もうほとんどいないんだ。第一どうしようもなく科学的じゃない。まあ、信じちゃいないっつってもその辺の奴よりはずっと詳しい心算だがな。どんな地域にでも必ずと言って良いほど存在する抽象的な畏怖。神や悪魔とかな。それがこの場所では恨みから生まれた怨霊みてぇなやつってだけだ。ま、それも立派な文化なんだろうが」
「…………」
わたしは何と返せば良いのかわからなくなってしまった。ジュソの存在を否定する人間、そんな者と出会うのは生まれて初めてだ。この島の者にとってジュソの存在など疑いようもないことだ。島の七不思議にだって数えられていない。それは土に種を蒔けばやがて芽吹くが如く、仕組みを知らずとも当然のこととされている。
「ああ、悪い悪い。余所者にそんなこと言われたら気ぃ悪くするわな。でもこれも調査の一環なんだ、どうか許してくれ」
この人は最初から謝ってばかりだなと思った。
他の人ならわからないが、わたしはこんなことで不快に思ったり、頭に来たりすることはない。ただ、返答に困っていただけなのだが、その間はわたしが思っていた以上に長かったらしく、いらぬ誤解を生んでしまったようだ。しかし、調査とは何だろう。この話の流れのどこに調査するに値する所があったのだろうか。
「でもな、本当に呪われているのは本島の方かもしれないな。おっと、今のはたまたまだぜ? 俺はそんな寒いおやじギャグなんか言うつもりはなかった。信じてくれ」
「本島が呪われてるとは?」
「呪いだなんて言葉は例えだ。言っただろう? 俺はそんなもの信じちゃいないって。ただな、今の日本を見て、呪われてるだなんて言われれば、それはそれで納得できちまいそうだなとも思うのよ。俺はこの島に来てそれを痛切に感じたね」
「本島とはどのような所なのですか?」
わたしはキョウにしたのと同じ質問をしていた。
「なんて言うかなぁ。ま、一言で言うなら殺伐としてるな。皆いがみ合いながら生きてる。でも表ではそれを隠そうとするんだ。大人も子供も男も女もそれなりに、何故だかな。だから心に矛盾が生まれる。仕事の電話口で相手の苛立ちがこっちにも伝わってきてるのに、頑なに正しい敬語を使ってるのを聞いたりしていると特に感じちゃうね。まったく何をそんなにあやふやになってんだってね。本島の人間はそんな矛盾に押し潰されそうになりながら、それでも平静を装って毎日を生きてんだよ。なぁ? 聞くだけで窮屈そうだと思うだろ。広さで言えばこの島なんかよりずっと広いが、息が詰まりそうなくらい窮屈な所なんだ。本島ってのは」
「それが佐久間さんの言う、呪い……ですか」
「だから本気にすんなって。例えだって言ったろ? それも俺が勝手に思っただけだ。もしかしたらそれが正常なことかもしれねぇ。そうやって生きていくことが人間にとってのな」
「正常……ですか」
最早わたしは佐久間さんの言葉を繰り返すことしかできない。
「ああ、正常だ。そしてもし正常なら正すことは絶望的かもしれねぇな。何しろ正常なんだから」
「正常とは、それが正しいということですか? それが本来あるべき姿だと」
「まあそうだ、なにも良いことばかりが正しくて、駄目なことばかりが異常とは限らないしな。例えば、だ」
「人が恨みを持つことが異常だと思うか?」
異常……とは言えない。だがそんなものは無い方が良いに決まっている。この世に恨みが微塵も無くなれば、それは迷うことなく素晴らしいことだと言い切れる。正常か異常なんてことははっきりとは言えないが、少なくともわたしの人生は、この島での在り方は、もっと正常なものになっていたであろう。
「人が恨みを持つこと、それは正常なことなんだよ。恨みなんて無い世界、それは理想でしかない」
わたしの答えを待つことなく、佐久間さんは答える。そうはっきりと。
「でも、その所為でジュソという化け物が生まれる。その所為でこの島が呪われた島となる。それは異常なことではないのですか?」
「それが本当ならな。俺は信じちゃいねぇから、この島が本島なんかよりずっと正常に思える。理不尽な死なんてのは本島には沢山あるからな。いっそのことそれが全部化け物の仕業ってことになれば逆に恨むべき相手がはっきりしていて良いのかもしれねぇ。恨む相手がいるってのは悲しいことだが、恨むべき相手がわからねぇってのはそれ以上に遣り切れねぇもんだしよ」
だから昔から人々は理不尽な死を呪いや妖怪の類の所為にするのだと、佐久間さんは言った。ジュソの存在を信じていないにも拘わらず、この人の言うことはそれはそれで正しい気がした。
「それに言っただろう? 必ずしも異常が悪いことなわけじゃない。お嬢さんのその格好、それは俺の価値観の上では少々異常だが、その異常が俺にとっちゃあ嬉しい。まあそれが男にとっての正常な反応ってもんだ」
また服のことを言われた。そんなに気になる姿だろうか。確かに、キョウにも色々言われたけれど。
「キョウはどうなのだろう」
「キョウ?」
無意識にぼそりと呟いた言葉は佐久間さんに聞こえてしまったようだ。
「なんだ? お嬢さんの気になる男か?」
佐久間さんは何やら怪しげな笑みを貼り付かせていた。
気になる? まあ気になると言えばそうかもしれない。正直に言って、不可解なところが多い男だ。わたしのような好奇心のある者でなくても、接しさえすれば自ずと気になってしまうだろう。この島の人間にとって、島の外とはそういうものだ。
「はい」
「かっかっか、お嬢さんは正直者だなぁ。こっちが照れちまうぜ」
感心した様子だが、こんなことで褒められてはきりがない。佐久間さんはわたしのことがそこまで幼く見えるのだろうか。もうとっくにどこかに嫁いでもおかしくない風貌をしていると、自分では思っていたのだが。
「キョウはわたしのこの姿を別に嫌じゃないと言ったんです」
「まあ、正常だな」
「でも佐久間さんのように嬉しそうな反応はしませんでした」
「そいつは異常だ」
「それではキョウはどっちなのですか?」
「まあ、一見矛盾しているようだが、正常ってのは純粋に正常なことを言うんだ。混じりっけけなしにな。そこに一つでも異常が紛れてしまえば、そいつはたちまち異常になっちまう」
「ではキョウは異常か……」
やはり、ただ者ではない。
「さあな。俺はそいつを真近で見たことがねぇ。そんなに気になるなら直接本人に訊いてみな。間違っても連れて来るんじゃねえぞ。俺は色男が大嫌いだ」
キョウに直接……。
「でも、ただ単にお嬢さんを姿を見て嬉しそうな反応をしなかったからといって異常と決め付けるのは早計かもな。男ってもんは例外なく変態だが、それが必ず表に出るかといえばそうじゃない。俺みたいなオープンすけべもいれば無論ムッツリだっている。いやむしろムッツリの方が多数派かもしれねぇ。心の中を読んで、それでもなお嬉しくねぇってようなら今度こそ本当に異常な奴なのかもな」
「はあ」
「だがな、お嬢さん。また矛盾したことを言うようで悪いが、正常、異常なんて見かたは結局、人それぞれなのさ。そんなものは価値観だ。絶対なんてものはない。今までの話だって俺の価値観で勝手に話していたにすぎない。学者ってのは大抵そんなもんだしな。だから世の中には自分にとっての正常、他人にとっての異常ってのが多いのさ。ようは考え方さ。自分が正しいと思っていればそれでいいのよ。そして相手にも正しいって思わせることができりゃあ上出来だ」
「わたしは自分が正しいかどうかなんてわかりません」
今更そんなこと、恐ろしくて考えたくもない。
「まあ焦ることはない。そのうちわかればそれでいいんだよ。でもまあ、世の男が皆変態だってのは、大抵の人間にとって正常な見解だろうがな」
かっかっか、と笑うと、佐久間さんは手に持っていた書をぱたんと閉じた。
「さらに言うならばその価値観ってやつもあやふやだ。価値観はそいつの人生を決定付ける重要なものだがその半面、些細なことで変わったりもするのよ。それこそ小石のような小さなものでな。お嬢さん、さっきのお嬢さんの『穿いてない宣言』はお嬢さんにとっては小さな小石みてぇなもんかもしれねえが、それでももう俺の価値観を、人生を、大きく変えちまったかもしれねえ」
わたしはいよいよ困ってしまった。どこから訊き返せば良いのやら。
「そういえば、俺に訊きたいことがあるんだろう?」
そんなわたしの心情を察してか、佐久間さんは勝手に会話を終わらせた。
そうであった。切迫した状況であるはずなのにのうのうと話し込んでしまった。これではキョウ阿呆と言われても仕方がない。
「とっ! 虎に、会いたいんです!」
前置きなどはなく、慌てて、簡潔にそう伝えた。
「虎に?」
「はい、佐久間さんならば、この島に現れるという虎の居場所を知っているということを聞きつけてここまで来ました」
佐久間さんは妙に納得したような顔をすると、そのまま黙り込んでしまった。
「……まあ、教えてやってもいいが、あまりお勧めはしないぜ?」
佐久間さんは少し考え込んでからそう言った。
「何故です? それはその虎が危険だからですか」
言ってしまってから自分が変なことを口走ったことに気が付く。実際にこの目で見たことはないが、知識としてなら勿論知っている。虎とは牙と爪を持つ猛獣だ。そして肉を食う。ならば虎とは概して危険なものではなかろうか。それがジュソであるに限らず。それに、佐久間さんはジュソの存在を信じていないのだ、こんな言い方をしたところでわたしの言葉の真意が伝わる筈もない。
だが、そんな心配をよそに、佐久間さんは至って真剣な面持ちであった。
「ああ危険だと思ったね」
そして静かに頷くのであった。
「別に襲われたってわけじゃない。俺は物陰からこっそり見ただけだからな。それに、その異様に黒い様を見て、異様にでかい様を見て、そう思ったわけでもない。だが目だ。奴の目を見た瞬間、こいつはやばいと思った。殺される、とね。俺がそいつに何をしたわけでもないが、こいつに見つかれば俺は決して許されないのだなと、そう思ったよ……」
* * *
佐久間さんの小屋を出てわたしが慌てふためいたのは言うまでもない。あれだけ降っていた雨はすっかり止んでいたのだ。加えてこの暗闇、急がねばならない。
佐久間さんに教えてもらった場所、それはとある廃墟であった。
村から少し離れた所にある古く大きな屋敷、瓦屋根や外壁は所々崩れていてもう人は住んでいないであろう屋敷の庭、そこで虎を見たという。
わたしは庭の砂利を踏む音にさえ注意を払いながら周囲の暗闇を見渡す。
廃れた屋敷の外壁の染み、風に揺れる木。闇の中ではそのすべてが異様なもののように、わたしの目には映った。
やがて、奥にある松の木の下に白い影を見つけた。
目を凝らし、ようやく安堵する。
よかった、無事だ。間に合った。
その時であった。
気配がした。
安堵するのは束の間、同時に雷華がわたしより早くここを嗅ぎ付けたことに、ここにいる事実に、背筋が寒くなる。
考えすぎだとも思わなかった。既に感情は昂揚し、自分の心に猜疑心さえ感じる余裕すらない。焦りだけが体中を巡っていく。
わたしは力一杯雷華の名を叫ぼうと息を吸い込む。
「らい! ……か……?」
月明かりに薄く照らされたその白い顔が恐怖に引きつっていると知って、咄嗟に息を呑んだ。嫌な予感で背筋の寒さが増す。そっと、雷華の視線の先に目を遣る。
そこにあったのは闇。
闇夜と紛うばかりのその闇は、月明かりに照らされ、そっと、輪郭を形作る。
おぞましく、醜悪に。
「雷華、いいか? そこを動くな、今行く。いいか? 動くなよ……」
「み、ミさんですか? じゃ、邪魔をしないで。あれはぼ、ぼくの獲物です」
何を強がっている。そんなに震えているではないか。
雷華の体の震えはここからでも存分にわかった。
「た、高天原に……か、神留り坐す」
雷華は懐から札を取り出し、その震える手で構えた。声はそれ以上に震えている。
「ぐるおおおお!」
雷華が仕掛けるより早く、化け物はその鋭い牙と爪を暗闇から露わにし、雷華に迫った。
「す、すめらがむつ――ひぃ!」
その勢いに耐えきれず後ずさった雷華は、松の根に足を引っ掛け、尻餅をついてしまう。
「雷華!」
化け物の巨躯が雷華に届く寸前、わたしはどうにか化け物と雷華の間に割り込み、大鋏で化け物の爪を受け止めた。
並々ならぬ衝撃が身体を揺らし、重みで両足が微かに地面に沈み込むのを感じる。
耐えきれず、爪がわたしの肩に僅かに食い込んだ。血が布の端から滴り、雨に濡れた地面をさらに濡らしていく。
化け物の顔が寸前にまで迫る。
生温い息が顔に掛かった。
そのまましばし膠着して動けなくなる。
漆黒の毛に唾液に濡れた牙、そして―――そしてその目は………。
真直に見据えたジュソの黒洞々たる目からは、名状しがたい何かが溢れ出ている錯覚を覚えた。煙のように漂い、しかし泥水のように重く、それはわたしの目から入り込み、脳髄を、まるで障子紙の端から墨がしみ込んでいくかの如く、じわりじわりと浸食していくのだ。
じわり、じわり、と。
目眩がした。
視界もぼやける。
ここまで走ってきたので、力を使い過ぎたのだろうか、流れ出た血の量が思った以上に多かったのだろうか。いや違う。わたしは恐れているのだ。勝てる勝てないの問題ではない。人の恨みは、その深淵は、わたし一人で受け止められるようなものではない。そう理解したのだ。理解させられたのだ。
何をしている。
ジュソの力自体は思った以上に弱い。見た目には気押されるが、現にこうして受け止めることができているではないか。
そうなればこの密着した状況、逆に好機と言えなくもなかった。腕の力はこれ以上耐えられそうにもないけれど、それでも次の一瞬に全力を込めれば、このジュソの腕をいなし、一撃を加えることができる。
だからこんな化け物の首など、すぐにでもこの大鋏で落としてしまえばいい。恐れなど、これまで通り血と刃で振り払ってしまえばいい。
そんな時であった。一瞬雷華の方を見る。表情は恐怖に引きつり、未だ起き上がれずにいた。だが、わたしと目を合わせるなり、その拳は強く握りしめられた。恐怖よりも、何もできずにいる自分が悔しいのだろう、瞳からぽろぽろと涙が毀れ始めた。キョウと紗千の、雷華に対する冷たい言葉が頭をよぎる。
何をしている。余所見などしている場合か。
そんな自問自答は裏腹に、わたしは自分でも思いがけないことを口にしていた。
それは口にするなんていう生易しいものではなく、悲痛な叫びと言ったほうが正しかった。
「雷華! これはお前の獲物なのだろう!」
自分でもどんな声を発していたかわからない。ところどころ、無様に裏返っていたに違いない。苦し紛れに喉から捻り出された声は、ちゃんと言葉になっていたであろうか。
腰が砕け、立ち上がることもできずにいた雷華は静かに片足を地に付ける。
「そんなことではいつまで経っても村には帰れないぞ!」
呑気なことながら、言ってしまってから、きつい語調になってしまったことを申し訳なく思う。
しかし、私の声を聞いた雷華は表情を固くすると、よろよろと立ち上がった。そして化け物の額に札を飛ばし貼り付けると、再び言葉を紡ぎ始めた。
そうだそれでいい。
「ぐるるるる。に……く……」
その時わたしはジュソの声を聞いた。微かに、だがはっきりと。
「にくい」
と、
苦しそうに絞り出される声はひどく歪んでいたけれど、確かにわたしの耳に届いた。
「憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い」
わたしの耳に届き続けた。
憎しみに爛れた化け物の声が。
化け物の呪詛が。
わたしの耳をこじ開けるように、その化け物の口にする呪詛はわたしの頭の中へ入り込んでくる。
思わず耳を塞ぎたくなる。それを堪えて鋏に込める力を強くする。
「憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い」
「ひっ」
ジュソの声に混じって短い悲鳴のようなものが聞こえた。
「ヒナ……か……?」
聞き覚えがあった。
いつだって怯えているようなその声を一層震わせて。
何故だ。レンさんの家に残してきた筈のヒナが木の陰からこちらを見ている。こっそり付いて来たのか。そうか、雨が止んだから……。
「お、お姉ちゃん……血……血……。いやっ!」
ヒナは目に涙を浮かべ、走り去ってしまった。
泣かないでくれ……ヒナ……。
すぐにでも追い掛けたかった。
「憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い」
だがそれもこの状況では無理な話だ。後でちゃんと安心させてあげなければ。
「憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い…………憎くて……つらい……」
頼む、大人しくしてくれ。もう少し、もう少しだから、大人しく消されてくれ。
「ミさん! ぼくの祓詞ではこれ以上は無理です! 直接ジュソを叩きます!」
「召鬼三式、夜叉ぁ!」
雷華が自身の腕に札を貼り付けたかと思うと、白煙と共に化け物の腕が現れた。
化け物と表する以外には考えられない程に太く、隆々たる腕。そしてその指の先には、岩でも削り取れそうなくらい分厚く鋭い爪があった。
そして驚くことに、それは雷華の小さな体から伸びているのだ。
「ミさん! 今いきます!」
雷華はその大きな腕の重さに体をよろめかせながらも態勢を整えると、こちらに向かってがむしゃらに駈けて来る。
「こぉおおのぉおおおお!!」
しかし、化け物は雷華を一瞥すると、地面に突いていた前足の片方を緩慢に、大きく振り上げた。
反対の前足を上げることで、その分の体重がのしかかり、わたしはついにがくりと片膝を付く。
いけない。このままでは前足が雷華目掛けて振り下ろされてしまう。
やはり無理だ。ここはわたしが……。
「!?」
体が言うことを聞かない。
いくら力を込めようとも腕の震えが増すばかりである。
わたしの腕には最早、化け物の腕をいなすだけの力が残されていなかった。
「おおおおお!!」
無我夢中の雷華はまるでわかっていない。化け物目掛け、ただただひたすらに駈ける。
――駄目だ。
――間に合わない……。
そう思った時だった。わたしの目に光が見えた。黒く塗りつぶされた両の瞳が、急に明るくなった。
それは残酷な光。
月明かりが反射したそれは薄く、しかし重く、冷たく、射抜くように闇を切り裂いている。
だがそれは、仲間であるわたし達にとっては、絶望を裂く希望の光であった。
「キョウ!!」
その光が一際真近で翻ったかと思うと、次の瞬間には、雷華を襲わんとしていた化け物の前足が血の尾を引いて宙へと吹き飛ばされた。
二の太刀が化け物を襲うことはなかった。流れるような閃光を描きながら勢いそのままに、その刃は吸い込まれるように暗い鞘に収まった。
そして、金属の涼しい音がするのと雷華の右腕が虎の喉元を貫くのはほぼ同時であった。勢いそのままにジュソをわたしから引き剥がすと、屋敷の壁に縫い付けるように叩きつけた。
少し遅れて宙に舞った前足が鈍い音を立てて地に落ちた。
頭上高く噴き出したどす黒い液体が地面を、雷華の白衣を、白い髪を、顔をばたばたと濡らしていく。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ」
少しの間、化け物の血が噴き出す耳触りな音と、雷華の呼吸と、風に揺れる松だけが辺りの音を支配していた。
化け物が消え失せた頃には、雷華の腕は元の白樺の枝のように白く細いものに戻っていた。しかし、雷華の腕は化け物の喉元を貫いた時の形のまま動けないでいる。
生きている虎と違って、ジュソである虎は何も残さない。死体さえも。生きていないのだから当然だ。 仕留めるあの一瞬を目にした者でないと、この幼い娘があんな巨大な化け物を倒したなどとは、とてもではないが信じられないだろう。
雷華の目は虚ろで呼吸は荒く、それはいつまでも落ち着くことはなかった。
わたしが静かに、「雷華?」と声を掛けてやるとようやくその腕を下ろした。そしてその震える腕をそっと胸元に抱き寄せると、がくりと膝から崩れ落ちてしまう。
「雷華!」
わたしは慌てて雷華の元へ駈け寄ろうとしたが、体が思うように動かない。やはり力を使い過ぎたようだ。加えて血も多く流し過ぎた。
足を引きずるようにしてようやく雷華のそばまで来ると、優しく包むように頭と肩を抱いてやる。化け物が消え失せると同時に雷華の白衣に付いた化け物の血も消えてしまっていたのだが、傷口を押さえていた手で抱いてしまったので、今度はわたしの血で汚してしまった。それに気付いてから、しまった、と思った。
「ミさん!」
急に雷華が我に返ったように声を上げた。視線の先を見れば、わたしの着物の裾の端、元々血で濡れようが暗くなるだけであまり目立たない色合いなのだが、それでもそこからは血が一定の間を置いてゆっくりと、けれども絶え間なく滴っていた。それを見てまたもや、しまった、と思う。
「ミさん! 怪我は大丈夫ですか!? ああ、血が! 早く手当てをしないと!」
「大丈夫、大丈夫。傷は見た目程深くはないよ」
正直、自分の傷の程などわからなかったが、そんなことよりもわたしは雷華の方が心配だった。雷華はわたしとは違ってまだ子供なのだ。それに心配してる側が逆に心配されてしまっては元も子もない。
「自業自得だ。あんな無茶をしやがって」
背後からキョウの呆れた声が聞こえてきた。
キョウはわたしを乱暴に立たせると、懐から手拭いを取り出した。そして無理矢理わたしの肩をはだけさせると、その手拭いで傷を覆い縛った。キョウがあまりに強く縛るものだから思わず声が出そうになったが、雷華に大丈夫といってしまった手前なので何とか耐えた。
「キョウ、このまま診療所まで連れて行ってはくれないか? その……こんな様子をレンさん達に見られるのは……ちょっと……」
「場所は知っているんだろうな」
言い辛そうに口籠っているわたしを遮るようにそう言うと、キョウは徐にわたしを背負った。
「ふぇ? あ、ええ?」
力の抜け切ったわたしの体を物凄い力で引っ張るものだから、もう何と言うか、されるがままであった。
「あの……えっと……」
「何だ? なら一人で歩けるのか?」
わたしが困ったように言葉を選んでいると、キョウが不機嫌そうに言った。
「すまない、助かる」
それだけ言い、深く呼吸をすると、そこで初めて強張った体をキョウの背に預けるようにした。家の者以外の、それも男にここまで接するなど生まれて初めてであったが、体が疲弊しきった所為か、不思議と心地よかった。油断すればこのまま眠ってしまいそうだ。
雷華に続き、キョウの着物までもわたしの血で汚してしまうことに気が咎めたが、正直もう一歩たりとも歩けそうもない。潔く諦め、ここはキョウに任せるとしよう。
「あの、ぼくも一緒に行きます。ミさんがこうなったのはぼくの所為ですし」
「知らん。勝手にしろ」
「ありがとう、雷華」
そしてもう一人。
「紗千! いるのだろう!?」
わたしは近くの茂みに向かって叫んだ。そして自分で驚いた。こんな状態でも声とは意外と出るものらしい。合図も無しに大声を出してしまった所為か、キョウがびくりと体を震わせるのが、密着した背を通じてわかった。悪いことをした。後ろからでは様子はわからないが、きっと怒らせてしまっただろう。
「お前……叩き落とされたいか」
ほら怒られた。
わたしが声を掛けた茂みががさりと音を立てたかと思うと、そこには草まみれの紗千が立っていた。
紗千は声を掛けたわたしには目もくれず、雷華目掛けてつかつかと歩いて行く。そして目の前まで来たかと思うと、雷華の胸倉を両手で勢いよく掴み上げた。
「あなた、命懸けで手に入れた功績がそんな大層なものだと思ってんの? ばかぁ! 死んだら、死んだらあなたには何も残らないのよ!」
そして叫ぶように目一杯怒鳴った。
「ぼくは何も大層な功績が欲しいわけじゃない。志乃咲家という重圧が無いと言えば嘘になるけど。それでもぼくは……」
「あんな刺し違えるような戦い方。あなた、ジュソを斃せれば死んでもいいの!? 死んでもお役目通りジュソを退治できればそれは何か意味があることだとでも思ってるの!? 御免よ! あなたが死んで! その死体を村まで持ち帰って! 燃やして! 灰にして! そんなの御免だって言ってんの!!」
紗千は聞く耳を持とうとしない。いつも怒りっぽい紗千。ここ最近で一番の剣幕であったが、それでいてしかし、持ち前の気の強さは薄れてしまっているようであった。どこか危うくすら思える。
「それでもぼくは少しばかり認めてもらいたい。それだけなんだ」
雷華は胸倉を掴んだ手を両手で包み込むと、見た目に反してその手は簡単に外れてしまう。そして両の手を繋いだまま雷華は紗千を見つめた。
「父上にも、母上にも、村の人達にも、紗千にも、もうこれ以上心配をかけたくないんだ」
紗千は俯いたまま黙り込んでしまう。繋いだ両手はわなわなと震えていた。
「心配かけたくないですって? ほんとに……どこまで馬鹿なの……あなたは……」
そしてそう呻くように小さくそう言った。
「ありがとうね、紗千。手を出さないでいてくれて。最後までぼくにやらせてくれて」
その声を聞くなり、きっ、と怒りの表情を見せ、両手を振り払う。
「手なんか出すわけないでしょぉ! 馬鹿ぁっ! あんたなんか、化け物にやられちゃえばよかったのよ! あんたみたいなわからず屋は死んじゃえばいいのよ!」
気持ちが高ぶった所為か、紗千の言うことは最早、どうしようもなくあやふやで支離滅裂であった。恐らく、目に溜まった涙を零さないようにするのに一生懸命だったのだろう。
それ以上に必死だった雷華は気が付いていない。正面から対峙していた雷華の位置からは見えない所、ジュソの背に何枚もの札が貼り付いていたことにわたしが気付いたのは、ジュソが消える時、地に伏したジュソを上から見た時であった。
成程、道理でジュソの力が不自然に弱かったわけだ。冷静になって考えてみれば、おかしなことだとわかる。本来ならばあれ程までに成長したジュソが、あんな風に人の、それもわたしのような女の力とあそこまで拮抗することなどあり得ないのだ。
ありがとう、紗千。
雷華の元へ行く途中、ばれないように拾い上げておいた数枚のお札を握りしめて、
ありがとう。
わたしも心の中で礼を言った。
肩の傷はそこまで酷いものではなかったのだが、出血が多かったわたしは医者の勧めもあって、大事を取って一晩診療所で過ごすこととなった。
診療所の窓から見える闇夜は信じられないくらいに暗かった。
ずっと見ていれば、吸い込まれそうな錯覚を覚え、思わず目を逸らすのだが、やはり自然と視線は暗闇に向かってしまう。
何も見えない暗闇に。
できることならば見ていたくはないのだが、あの暗闇がどうしても虎のジュソの瞳と良く似ていて、それができなかった。黒洞々たる闇。今にもあの暗闇が襲い掛かってくるのではと、キョウに話せば笑ってからかわれるような言い分だが、どうしてもできなかった。
わたしは何かを探すように窓の周囲に目をやる。
諦めて目を閉じる。少しの間だけ。
そしてわたしはまた、あの暗闇を見つめた。
* * *
私がレンさんの屋敷へ戻ってから二日後、屋敷近くの畦道にて、雷華は決心を口にした。まさにこの時まで決心は揺らいでいたようだが、今の表情はあの時、初めてジュソを祓った時に見せた表情と同じものであった。
「ぼく、決めました。もうしばらくの間、ミさんとキョウさんと一緒にいさせて下さい。あなた達と一緒なら強くなれる気がするんです。あなた達のような人が手本ならきっと。これは別に甘えで言ってるわけじゃありません。いずれは自分一人の力でも戦えるようになります。きっと強くなって村に帰ってみせます」
「そうか、俺は別に構わん」
珍しくキョウは素直だった。いつもならここで厳しい言葉の一つでも浴びせるところなのに。
「お前が死ぬまでそう時間は掛からなそうだからな。それまでの間は我慢してやる」
そうでもなかったようだ。
「はい、これ」
雷華とキョウの様子を不機嫌そうに眺めていた紗千は、こちらに向き直ると数枚の札を手渡す。
「あんた、あのジュソがいないと戦えないんでしょ? それ持っときなさい。弱いジュソくらいなら祓い詞無しでも祓えるから」
ヒナはあれから戻っていない。冷静を装ってはいるものの、心配でならない。
「そんな、心配には及ばないよ。ヒナだってすぐに帰って来ると思う」
「別に心配なんかじゃないわよ。あんたのその怪我は雷華の為にしたものなんだから同じ村の者として当然の償いをしたまで。気持ちの悪い勘違いしないでよね、ったく。ああそれと、その札は一度使うと効力を失うから忘れないで。あと間違ってもこの間のような大物相手に使おうだなんて馬鹿なこと思わないでよね。それで祓えるのはせいぜい人の形をした弱いものだけ。わかった?」
「ああ心得た。ありがとう」
「一応ジュソを祓えたようだし、わたしはもうあなたに何も言わないわ。勝手になさい」
今度は雷華へ向かって、まるで独り言のような語調で言葉を贈る。
わたし達は村へ帰るという紗千の見送りに来ていた。
「本当に帰っちゃうの?」
「当たり前でしょ。何でこんな所にいつまでもいなくちゃいけないの? わたしは忙しいの。村から必要とされてるんだから。あなたと違ってね」
雷華はしばし考え込む様子を見せる。何かを言うか言うまいか迷っているようだ。それを見て眉を顰める紗千であったが、雷華は意を決したように顔を上げると……しかし、その顔はすぐに元の頼りないものに戻った。
「思ってたんだけど、紗千って何でこの村まで来たの? 一人で来たってことは仕事の依頼ってわけじゃないんでしょう?」
確かに、それはわたしも予てから思っていたことだ。思っていながらも、あえて口にしなかったこと。
「は? へ? ど、どうだっていいでしょう!? そんなこと、どうして一々あなたに教えなきゃいけないの?」
一変して明らかにうろたえている様子が見て取れる。とてもわかりやすい。
「もしかして、僕の為に来てくれたの? わざわざこんな所まで」
「べっ、別にぃ! あなたなんかの為じゃないわよ! 大体この村にだけ来たわけじゃないし……………………そう! 色々な村を回っているうちに偶然あなたを見つけただけ。そう、偶然よ」
紗千は行方の知れぬ雷華を探し回っていたのだろう。そしてようやくこの村で見つけた。紗千が雷華を見つけた時のあの叫ぶような声を思い出す。あの時紗千は、態度とは裏腹に胸を撫で下ろしていたに違いない。ようやく見つけたと。ようやく二人で村へ帰れると。
「ありがとうね……紗千……」
「………………………………………………………………………いらないわよ……」
「え?」
「お礼なんて……いらないわよ……」
紗千の言葉には先程までの気迫は無く、微かに震えていた。
言葉を震わせ、体を震わせ。
見ることも聞くこともできない気持ちの揺らぎは、それ以上にこちらへ伝わってきた。
「お礼なんてするくらいなら…………一緒に帰ろうよ……」
そしてゆっくりと手を差し出す。しかしその手は、真っ直ぐに上がりきることはなく、遠慮がちに斜め下の地面を向いていた。
雷華はその手を取ろうとしない。「もう決めたことだから」と、微笑んで首を振った。
「そ! じゃあもう知らない!」
紗千は何か熱いものにでも触れてしまったかのように素早く手を引くと、顔を上げ、あっけらかんとした態度でくるりと背を向ける。そして名残惜しそうな雷華を尻目に、足早に歩き出してしまった。
数歩歩みを進めたかと思うと、ぴたりと立ち止まる。
「?」
「?」
振り返って今度はこちらを、わたしとキョウを見据えると、深々と頭を下げ、
「雷華のこと、よろしくお願いします!! もし雷華が死んだりなんかしたらわたし、あなた達のこと絶対に許さないんだから!」
一息にそれだけ叫び、山の方角へ向かって駈けて行ってしまった。
見間違えでなければ、紗千の目にはやはり少し涙が浮かんでいたように思う。
それは雷華を連れ戻せなかったことに対する悔し涙か、別れを惜しむ悲しみの涙か、はたまた雷華の成長に対する嬉し涙か。恐らく全て当てはまるのだろうな。
遠くなって行く紗千の背中を眺めていると、突然姿が消えた。石にでも躓いたのだろう、「きゃん!」と子犬のような短い悲鳴を上げて倒れ込んでしまった。
聞き逃してしまいそうなくらいに静かな、しかし吹き出すような笑い声が聞こえたので横に目をやると、キョウが子供のように無邪気な笑みを浮かべていた。
子供の痛々しい姿を眺めて笑うなど、なんて薄情で意地の悪い奴だろうと思ったが、これには正直、わたし自身も口元を緩めずにはいられなかった。
* * *
「ありがとう、キョウ」
夜、雷華の寝息が隣の布団から聞こえてきたのを確認してからキョウに礼を言った。
「何がだ? 礼なんて言われる覚えは無いぞ」
「あの時助けてくれて、ありがとう」
肩の痛みはまだあるが、わたしの傷がこの程度で済んだのもキョウと紗千のお陰だ。
「知らん。俺は化け物の首を狙ったんだが、あのガキが邪魔で手元が狂った。それだけだ」
「それにしてもよくあの場所がわかったな」
「あの生意気な鬼のガキがこそこそと妙な術を使っていたからな。獲物を横取りしようと跡をつけたまでだ」
それは紗千のことだろう。二人ともなんだかんだ言って、最初から雷華を助けるつもりだったらしい。 一人で奔走していた自分が恥ずかしくなる。それなら最初からそうと言えば良いのに。やはり、この男のことはよくわからない。
「そうそう、キョウ」
「あ?」
佐久間さんとの会話を思い出す。
直接本人に訊いてみな、か。
「キョウは異常な変態なのか?」
佐久間さんの言うことは難しくて、あまり正確に内容を覚えてはいなかったので、掻い摘んで言おうとしたのだが、あれ? 何かおかしかったかな。
「ん? あ? …………ああ、そうか、一度ぶん殴ればいいんだな」
キョウは一瞬困惑したかと思うと、妙に納得し、乱暴に跳ね除けた布団そのままに、こちらへ向かって来た。