隠れ鬼
本当に大切なものとは、失って初めてその大切さを知ることができるという。
しかし本当に大切なものなら、失う前からその大切さを理解しているもではないのだろうか。
言い古された言葉に、俺はそう抗言したのを良く覚えている。
それは戯言だ。幼い子供が気取って、少し背伸びをして言う屁理屈でしかない。
理解など、到底してはいなかった。
あんなにも痛く、辛いことだとは思わなかった。
ちょうど、今日のような雨空の中。
視界は薄く、他に音は無く、ただただ耳に届く雨音が頭中に響く中。
血に濡れ、動かなくなった母を前にそれを思い知らされた。
雨の日には、思い出さない日はない。
雨水に滲み流される真っ赤な鮮血の行方を、ただ茫然と眺め、立ち尽くしたあの日のことを。
母を殺した、あの日のことを。
* * *
雨は嫌いだ。
夏の晴れた日は、それはそれで暑くてかなわないが、雨に比べたら断然ましというものだ。
いつからだろうか、雨を嫌いになったのは。
やはり、一人になったあの日からだろうか。
だが、雨の日に限らず、近頃は毎日のように思い出してしまう気がする。
理由なんてものはもうわからなくなっていた。
ヒノトとツヅミが雨漏りを見てはしゃいでいる。雨粒がレンさんの置いた鍋に、かつん、かつん、と落ちる様が可笑しくてたまらないらしい。何がそんなに可笑しいのだろうと、そっちの方が可笑しく思う。
子供は不思議だ。大人ならば目にも留めないようなことに興味を持ち、執着する。幼い時分の俺には、果たしてそんなことがあっただろうかと考えを巡らせるが、すぐに断念した。こんなことを思い出したからといって何だっていうのだ。下らない。
やはり雨の日には他にやることが無い分、いらぬ考え事ばかりする。
それも嫌いな理由の一つなのだろう。
「キョウちゃーん。来て来てー」
「きてきてー」
雨水に夢中になっていたのも束の間で、すぐに遊びの対象を探し出す。そして最終的に行き着くのは大概俺だ。こんな日は特に、鬱陶しいったらない。
「キョウちゃーん」
こういう時は寝たふりに限る。雨の日は体が重い。それは家の中にいても不思議と変わることはない。室内にまで流れ込んでくる雨音や、雨の日独特の匂いの所為だろうか。不快極まりない。目に見えぬ瘴気のような類のものが戸の隙間から入り込んで、体に纏わり付いてくる錯覚さえ覚える。これは最早病気かもしれない。
「キョウちゃん起きてるんでしょ!」
「がふっ!?」
しまった、声を出してしまった。だが、寝そべっている俺の脇腹に子供とはいえ、いきなり二人分の体重がのしかかったのだ。これでは手心を加えられるまでもなく、誰も俺を咎めることはできないだろう。どうしても無理な時とはあるのだ。
俺は悶絶しながら二人を見上げる。ふと二人の背後にもう一人大人の人影が見えた。
「な? 起きていただろう?」
見上げた先にあったミの表情は、何故だか酷くこちらを見下しているように見え、屈辱的であった。
「ほんとだー。みーちゃん凄いね。何でもお見通しだね」
「そうだよ。わたしは凄いんだ」
「馬鹿言え! あんなことされたら寝てても起きるわ! 阿呆が」
「ごろごろとしているくらいならヒノト達の相手をしてやれ」
「ならばお前がしてやればいいだろう。なんだって俺に」
「わたしは……ほれ、今忙しいのだ」
ミは手に持っていたおたまらしきものを示した。さすがに今日は丈の短い着物は着ておらず、初めて川のほとりで出会った時の格好であった。しかし、相変わらず上半身は紐でたすき掛けにしている。だが今回に限ってそれは、恐らく料理の為であろう。
「今レンさんからおいしい煮物の作り方を教わっているのだ。前々からご教授願いたかったのだがな。今日はこんな天気だし良い機会だと思って」
「ちっ」
「まあ、そういうことだ。諦めろ」
そう言うとミは踵を返し台所へと戻ろうとした。
俺はそれを慌てて呼び止める。
「そうだ! あの鬼のガキ共はどこ行った。まさか外でもないだろう」
「それならまだ二階にいるよ。でも何やら話し込んでいたようだし、邪魔はしない方が――」
「知るか。おいガキ共、二階に遊び相手がいるぞ。行って来い」
「キョウちゃんも行こー」
「俺は後から行くから、ほら早く行って来い」
「はーい」
ヒノトとツヅミは素直に階段の方へ駈けて行く。階段のぎゅっ、ぎゅっと、軋む音を耳にすると、安心してまたすぐに横になった。
ミはその様子を見て呆れたように溜息を吐くと、再び台所へ向かって歩みだした。
俺達が紗千と出会ってから数日が過ぎた。しかし相変わらず四人でこの家に世話になっている。ミは小屋が直ったのだし、紗千に至っては村へ帰ると言っていたのだが、レンさんの、山を越えようにもここ最近は天気が悪いからしばらく泊っていきなさいという、わけのわからない理由で引き止められている。だが、ヒノトとツヅミは元より、以前と比べてレンさんやばあさんが妙に明るくなった様子を見ていると、それが単なる下らない言い訳だということは判然としてくる。
そういえば、台所から香ばしい匂いが漂っている。ミは煮物を作っていると言っていた。そろそろ昼飯時だろうか。
「おい、醤油」
「はい」
俺はミから受け取った醤油を卵焼きに掛けた。
それを見てミが反応する。
「邪道だな」
「は? 何がだ」
「そのままで十分おいしいだろう」
「勿論そのままでも食う。だが掛けてもうまい」
ふと視線を前にすると、紗千が醤油を片手に固まっていた。そして視線に気付いたかと思うと、急いでそれを食卓の上に戻す。持っていた位置で考えると、どうやら卵焼きに掛けようとしていたようだが。
「なっ! 何よ! ただ見てただけよ!」
急に耳を真っ赤にしてうろたえだす。
「別に何も言っとらんだろう」
「…………」
「どうしたんだい雷華ちゃん。元気ないね」
無言で箸を進める雷華を心配してか、レンさんが声を掛けた。俺とミからすれば、先程二階で話し合っていたことが原因だということが瞭然であった。もしヒノト達の邪魔が入らなかったならば、紗千の説教はいつまで続いていたのだろう。
「わたしの料理を食べても元気出ないかい?」
「そ、そんな! 凄くおいしいです」
顔を上げると雷華は無理矢理笑顔を作った。
「ならよし」
レンさんはそれ以上の笑顔を投げかけて雷華に応じると、再び箸を進め始めた。
顔を上げた雷華の目元には泣き腫らした形跡があからさまに見えていたが、レンさんは全く気が付いていないかのように、触れないでいた。
「ふんっ」
と、紗千が面白くなさそうな表情を見せる。
「ところで、雷華ちゃんとさっちゃんはご近所なの?」
レンさんは紗千のことをさっちゃん呼ぶ。紗千ちゃんと言うのが言いにくいからだろう。初めて呼ばれた時は当然驚いて、何か言いたげに口をパクパクとさせていたが、結局何も言い返す言葉が見つからなかったようだ。相手がレンさんのような人であれば、それは仕方のないことだろう。
「近所と言えば近所ね。まあ関係無いけど。わたし達の家は仲が悪いのだし」
紗千は何か怒ったように淡々とものを言う。
「でも小さい頃はよく一緒に遊んでいたんですよ?」
紗千の言い草にレンさんを気遣ってか、雷華が口を挟む。小さい頃といっても、今だって十分小さいのではないかと思う。俺からしてみればヒノト達と同じガキという認識でしかない。しかしその二人の口からジュソ退治だの、仕事だのという言葉が出るのだから妙であった。実際に目の当たりにした今でも俄かに信じ難い。
「遊んでないわよ! 何言ってるの? あなた」
「だってよく遊びに誘ってくれたじゃない」
「あれはわたしが一方的にあなたをいじめてただけ!」
「確かによく泣かされてたけど……」
二人は昔話でもしているつもりだろうが、その様子がありありと目に浮かんだ。
「ねぇねぇお母さん。おじちゃんに会いたいなー。おじちゃんの話が聞きたい」
「はいはい、もし明日雨が止んでたらね」
レンさんは軽く受け流すように答えた。
「あんな得体の知れん他所者、関わることはない」
ばあさんが吐き捨てるように言った。
「おばあちゃん、佐久間さんは良い人ですよ。心配なさらなくても」
それを聞いてレンさんは窘めるように言う。
佐久間とは俺と同じく本島からこの島に渡ってきた人間だ。俺よりも一足前からいたらしいのだが、俺は会ったことも顔を見たこともない。確かにこのばあさんの言う通り、得体が知れない。だが、レンさんはそうは思っていないようだ。何でも、その佐久間という男は手先が器用らしい。壊れた台所用品を持っていくと、いとも簡単に直してしまうのだ。それでいて金は取らず、畑で採れた少しばかりの米や野菜を持っていくと喜んで受け取るのだそうだ。それでこの界隈の主婦連中からは割と親しまれているらしい。壊れたものを、本島から持って来たのであろう、見たこともない道具でもって直すところも見物だとか。
得体は知れないが、レンさんがヒノト達を安心して遊びに行かせるのだ、少なくとも危険な男ではないのであろう。
「余所者であることには変わりない。本島の話が聞きたければ、ほれ、そこの馬鹿から聞けばいいじゃろ」
「ばばあ、俺も本島の人間だぞ」
この島からすれば俺も余所者だ。
「佐久間とかいう奴は一度目にしたことがあるが、どうも信用ならん。あれは無駄に知恵を持っとる人間の顔じゃ。ああいう人間は何を考えているかわからんもんじゃ。昔からな。その点お前は馬鹿だ。知恵も何も無い、刀を振るうしか脳のない大馬鹿者じゃ。同じ余所者ならお前さんのような馬鹿の方がうんとマシってもんよ」
ミがくすりと笑ったのを見逃さなかった。後ろで正座をしているヒナまで同じように笑っている。さて、この老人は今俺に向かって、何度馬鹿と言っただろうか。
「ばばあ、大概にしとけよ」
「なんじゃ、褒めとるのに」
もう我慢ならん。
俺が思わず、食卓に拳を叩きつけようと両腕を振り上げたところで、横から「んん」と露骨な咳払いが聞こえた。我に返り視線を向けると、そこには突き刺すような眼光があった。
レンさんならばたとえジュソのような化け物に出会ったとしても、その目付きだけは劣ることはないのかも知れない……。
「だってキョウちゃん嘘吐きだったしー」
「だったしー」
「お前らまだ言うか」
「だって佐久間さんから〝デンワ〟見せてもらったけどキョウちゃんが言ってたのとは違かったよ?」
「〝デンワ〟だあ? そんなものこの島に持って来ても意味無いだろう。誰と話すってってんだ」
「本島の人と話すって言ってたよ」
「話せるわけがないだろう」
「話せるって言ってたもん」
「なら実際に話せたのか?」
「んーん。なんか〝デンパ〟ってやつが無いと駄目なんだって」
「はっ、そんなところだろうと思った。でたらめだ、そんなもん」
「違うもん!」
ヒノトは珍しくムキになって反論した。そこまでその男を信頼しているのであろうか。俺のことは嘘吐き呼ばわりするくせに。そう思うと何とも遣り切れない気持ちになった。
いつもならば面倒なところだが、どの道ジュソ退治には出れそうにもない天気だ、今日はとことん相手をしてやろう。柄にもなくそう考えてしまった。
* * *
「かくれんぼぉ!? 嫌よ、そんな子供みたいなこと」
ヒノトの提案に唯一反対したのは紗千であった。
まあ、いつもであれば俺も紗千の側へ付いただろうが。
「お前だって子供だろう」
「何ですってぇ」
俺の言葉に鋭い視線で返す。そうやってすぐに向きになるところも十分子供だと思うのだが。
「自分が大人って言うならガキの遊びに付き合ってやるくらいのことはしろ」
「キョウが言えることではないな」
すかさずミが冷静な意見を言う。
「さっちゃんもやろーよーかくれんぼ」
「やろーやろー」
ヒノトとツヅミが紗千に縋るように駄々を捏ねる。
「わっ、わかったわよ! だから離しなさいって、そこ引っ張ると脱げちゃうんだってば!」
案の定すぐに折れた。こいつらにああされては仕方がない。それは俺も良く知るところだ。
「じゃあヒノト鬼やるー」
「ツヅミもー」
「ちょっと待て、鬼はこいつらでいいんじゃないか?」
俺は雷華と紗千を指さした。正真正銘本物の鬼なのだし。
「はぁ? 探し回る役だなんて、そんな面倒御免よ」
紗千はあからさまに嫌そうな顔をした。
「ヒノトがやるのー」
「ツヅミもーツヅミもー」
「そうは言ってもお前らじゃ上手く探せんだろう。いつまでかかるのやら――って、おい離せ! わかった、わかったから」
「ならばこうしよう。見つかった奴は鬼と一緒に探してやる」
ミが提案をする。
「そして最後まで残ったら残った者の勝ち。全員見つかってしまえばヒノトとツヅミの勝ち。どうだ?」
「ああ、いんじゃないか?」
俺は適当に相槌を打ちつつ、既に隠れることばかり頭にあった。どんな些細なことでも勝負と聞けば本気にならざるを得ない。
「じゃあいくよー、いーち、にーい」
ヒノトとツヅミが柱に顔を伏せ、数を数え始める。
足早に散ったミと雷華に加え、紗千も溜息混じりに歩き出した。
さて、南京錠はどこだったかな。
「ここを選ぶとはなかなか見どころはあるが生憎俺が先客だ。出てけ」
家の外にある土蔵に入って間もなく、扉が開いた。
もう鬼に見つかったかと内心冷や冷やしたが、相手は紗千であった。まあ(ある意味)鬼だが。
「嫌よ、あんたが出なさい」
どうやら引くつもりはないらしい。まあいい、どの道ここは安全なのだ。下手にこいつと悶着を起こして騒がれる方が危険だ。
俺は早々に諦め、土蔵の扉に鍵を掛けると床に腰を下ろした。土蔵の南京錠には鎖を使用しており、それを両側の取っ手に潜らせるようにして鍵を掛ける為、内側からでも問題無く掛けることができる。レンさんが土蔵に鍵を掛けることなく、南京錠を鍵と共に仕舞っていたのを知っていたのでこの方法を思いついた。
「ちょっとお! そんなのズルじゃないの!」
それに気付いた紗千が声を上げる。
「うるせえ、勝てればいいんだよ。俺はな、どんな勝負でも負けるのが我慢ならないんだ」
「ほんっと大人げないわね、あんた」
「相手が子供なんだ、ならそれに合わせてやるのが筋ってもんだろう」
「屁理屈言ってんじゃないわよ! 大体あんたは――むぐっ!?」
「しっ! 黙れ!」
土蔵の外に微かな足音を感じ、咄嗟に紗千の口を覆った。
「むむーむむー」
暴れる紗千を空いた方の手で無理矢理押さえつける。
ぱしゃり、ぱしゃりと、泥水を踏むような足音は徐々に大きくなると急に止んだ。そして土蔵の扉ががちゃがちゃと揺れた。しかし開くわけがない。扉には鍵が掛かっているのだ。二、三度扉を引き、諦めたのか、再び足音が鳴ると、その音は遠くなっていった。
「よし、どうやら行ったみたいだな……」
「気易く触らないで!」
手を緩めた途端、紗千は俺の手を振り払った。目には涙を浮かべ、顔は薄闇でも真っ赤であることがわかった。そこまで力を入れたつもりはないのだが、やはり相手は子供だったようだ。
ぱたぱたと瓦を打つ雨音だけが土蔵の中に響いている。
「なんか話しなさいよ」
沈黙に嫌気が差したのか紗千が口を開いた。こっちとしてはこのままでいてくれた方が楽で良かったのだが。女という奴はどいつもこいつもお喋りが好きらしい。何とも面倒なことだ。
「なんかって何だ?」
「あんたが考えなさいよ。ほんっとつまんない男ね、あんた」
「お前の知らない話なら沢山知っている。俺は本島出身だからな。だがお前も俺の話を聞きたがるとは、ヒノト達と変わらんガキだな」
「何よ、嘘吐きのくせに」
「そういう所がガキだってんだ。ガキの言うことを簡単に信じるな」
「ふん、どいつもこいつも屁理屈だけは達者ね」
皮肉っぽく言った紗千の言葉の矛先は俺と、あとは恐らく雷華のことだろう。
「お前は随分とあのガキを目の敵にするじゃないか」
「別に、あんたには関係ないでしょ」
「関係無くはないぞ。あのガキはヒノト達への囮に打って付けなんだ。お前が二階に引き籠って長々と無駄な説教を垂れない限りな」
「無駄って何よ。子供の遊びなんかよりずっとあの子の為になると思うけど? わたしの言葉に従うのがあの子にとって一番良いことなの」
「阿呆か、どんな奴にだって一番良い選択なんてわかる筈もない。どんな道に進もうとも良いことと悪いことが必ずあるんだ。最後にその量を測って結果的にそれが一番だと思えてもそれは結果だ。途中でそれが一番だなんてわかる筈もないだろう」
「わからないわよ」
紗千は急に声を低くした。
「だからわからんと言っただろう」
「違うわよ、あんたの言ってることがよ」
そういうと、紗千はこちらへゆっくりと近付き、俺が腰掛けている長持ちに並んで腰掛けた。
「…………ふーん……」
紗千は急に何かに気が付いたかのように、俺の顔を覗き込む。心なしが、頬をほんのりと赤らめている。酒でも飲んだのか。
「なんだよ気持ち悪い」
「あんた……良く見ると、下品なくせに案外綺麗な顔してるわね。ま、私程じゃないけど……、ジュソ退治なんかより女形の方が向いてるんじゃない?」
「ふざけてると泣かすぞ」
紗千はハイハイと、腹の立つような態度をとると、すぐに語調を改めた。
「雷華はね、本当はわたしなんかよりずっと強い筈なの。祓詞や札の扱いはてんで駄目だけど、それでも鬼の力はわたしなんかじゃ太刀打ちできないくらい持っているのよ。悔しいけどね。それが血筋だもの、しょうがないわ。なのに祓えない、何故だかわかるでしょう?」
「さあな」
紗千の言わんとしていることはわかったが、子供に誘導された質問に易々と答えるのは癪だった。
「向いてないからよ。力がじゃない、心が向いてないの。結果って言うならもう結果は出てるのよ。これは力を付けてジュソに立ち向かうか、普通の女として一生を終えるかの選択じゃない。結果はもう出てるの。雷華は力があってもジュソを祓えないっていうね」
「わからんなぁ」
今度は俺がそう返す。
「俺が言う結果ってのは死ぬ時って意味だぞ。死の淵に立つその時までは何が起こるかわからないってな」
「死ぬに決まってるじゃないの! それがあんたの言う結果ならそれこそ答えは出てるわよ! 死の淵に立って、そのまま死ぬのよ! あの子は!」
紗千は自分自身の声がだんだんと大きくなっていることに気付いていないのだろう。この土蔵に隠れた根本的な目的は、最早どうでもよくなっているようだ。
俺は俺の言葉に別段意味を持たせて言っているわけではなかった。適当にそれらしいことを言っているに過ぎない。ただこの娘の意見と反対のことが言えれば良い、それくらいの気持ちだ。この娘がどの程度の情意でもってこの会話をしているのかわからないが、少なくとも俺はこのガキ共の問題に、何ら意見というものを持ち合わせてはいない。
「ならば死ねば良いだろう。それともお前はあのガキに死んでほしくないのか? 俺にはそうも聞こえるぞ」
「なっ、何言ってんの! 知らないわよそんなの! あの子がどうなろうと……」
「それにしては必死じゃないか。今日だって随分と熱心に説教を垂れていたようだし」
これ以上声を大きくされては見つかる危険が高まりそうであったが、他人が自分の言葉でしどろもどろする様は見ていて面白可笑しかったので、ついつい口を開いてしまう。
「あんなのは気まぐれよ! 気まぐれにあの子に自分がどんなけ無力かを知らせてあげてただけ。いいでしょ? 余裕がある人間がああやって助言をすることがあっても。それでも死にたければ勝手に死ねばいいわ」
「まあ、そりゃそうだ、本人が望んでやってることだらな。勝手にやって勝手に死ねばいい。余計なお節介など必要無い」
「くっ……」
ここでようやく紗千の言葉に賛同してやるが、やはり本人は釈然としないようだ。
「で、でも死なれたら死なれたでそれも面倒なのよ。そ、そうよ、同じ村のわたしが色々やらなくちゃいけないわけだし、そう、だからわたしは……」
「だから何で死ぬと決め付ける。死んだら死んだでいいが、死ぬとも限らんだろう。お前は最初から何でもかんでも決め付けたような言い方をするが、それが良くないんだ」
紗千は必死に返す言葉を探している。
「何でもかんでもすぐ決め付けるのは馬鹿のすることだ。思い掛けぬことなんてのは案外起きるものだしな。それこそ結果が出るまで、死ぬまでわかりはしない。まあ、それが良いこととも限らんが」
「馬鹿のあんたに言われたくないわよ」
急に冷静な返し方をされた。さっきのばばあの影響だろうか。腹が立つ。
「ああ? 泣かされたいか、小娘」
「なによぅ。変なことしたら大声出すからね」
凄む俺を、元々隠れている着物の胸元を両手できゅっと引き寄せ、怪しいものを見る目で睨んできた。
「それは困るな」
「へ?」
俺の言葉に、紗千が拍子抜けして間の抜けた声を上げた。
勝負の途中では仕方がない。ここは我慢しておいて後ほど今の言葉に対する制裁を加えることとしよう。
それはそうと、どれ程時間が経っただろうか。結構長い間この土蔵にいる気もするが、話をしていた所為か余り感覚が無い。探す側の奴らはもうそろそろ降参だろうか。恐らく室内を中心に探しているであろうあいつらを、ここから窺い知ることは到底できなかった。
そんなことを思っていると、ふとある疑問が頭に浮かぶ。
そもそもこの遊び、いつになったら終わりなんだ?
探す側の人間は隠れた人間をすべて探し出してしまえば良い。だが、隠れる側の人間はどうなる。いつまでこうしていれば良いのだ。勝負という場合、こういうものは事前に制限を設けておくものではないのか。
そう考えると急に馬鹿らしくなった。勝負がつかない勝負など、しても意味が無い。そう思い、懐に手を入れる。そしてあることに気が付く。
はっとして上体を起こすが、すぐに諦め、また寝そべる。
「やはり、俺は正しいな。こんな話に中身を持たせるつもりなんて毛頭なかったんだが」
「はあ?」
意味を掴みかねた紗千が気の無い声を漏らす。
「まさかこんなことになるとはな。まさに思い掛けなかった」
生きていればこんな過ちを犯すことなどいくらでもありうる。そしていくら実力があろうと、些細なことが原因で命を落とすことだってあるのだ。
「何がよ」
「まあ大したことでもない。今回に限れば命に関わるわけでもあるまいし」
俺は懐から手を出すと腕を組み、埃の積もった天井の梁を見上げる。
「だから何よ! 早く言いなさいよ!」
「鍵が……見当たらない」
確かに南京錠と一緒に持ってきたのだが、どこかで落としたらしい。
「――――っっっっ!?」
紗千が悲鳴とも呻きともわからない奇怪な声を上げた。
「どどど、どーすんのよ! 出られないじゃないの!」
「仕方ないだろう。誰かが気付いてくれるのを待つしかない」
「冗談じゃないわ。あんたなんかといつまでもこんな所………誰かー! ねぇ! いないのー!」
土蔵には僅かな格子窓が開けられている。紗千は近くにあった長持を足場にすると、それでも窓には全く届いてはいなかったが、大声で叫んだ。
紗千が反応を確かめるように黙ると土蔵の中は再び雨音という名の静寂に包まれる。そういえばこの土蔵に人がやって来たのは最初のあの一度きりであった。この雨では無理もない。子供の遊びではそう必死になれない。そう考えるとやはりここは隠れ場所としては最適であったということだ。
「あんた! なにぼーっとしてるのよ!」
「お前こそあまり大声出すな。うるさいんだよ」
「なによ! 誰の所為でこうなったと思ってるの!」
「俺は出て行けと言ったのにお前が勝手に残ったのだろう」
「あんたが勝手に鍵を掛けたんでしょう!」
紗千はとん、と長持から降りると、懐に手を伸ばした。
「もういいわ、こんな所でいつまでもあんたと二人きりなんて御免よ」
そして懐から取り出したのはあの時、ジュソを祓った時に使った札であった。そしてそれが意味することもすぐにわかった。
「召鬼いちし――きゃぁ!」
俺は体の反動のみで素早く立ち上がると、紗千の後ろから札を持った手を掴み、空いた手で口を塞ぎ、足を払い、その場に捩じ伏せた。そのまま手から札を取り上げる。
「むむーむむー、ぷはぁ! なにすんのよ! 触らないでって言ったでしょう!」
「お前こそ何をするつもりだ。鍵を壊そうってんなら許さんぞ」
「何でよ! もうそれしかないじゃない!」
「そんなことをしてみろ、俺がレンさんに怒られる。それも遊びの最中でとなれば大目玉だ」
閉ざされたこの島では、金属加工業を生業としている者も必然と多くなく、金属加工製品は割と稀少で高価なのだ。
「馬鹿ぁー! あんたってほんと馬鹿ぁー! 子供はどっちよ!」
紗千は俺の腕を逃れようと暴れ出した。
「絶っ対嫌。鍵を壊してでもここから出てやる」
「させるか」
俺は残りの札をすべて奪ってしまおうと紗千の懐に無理矢理手を入れる。
「いやぁ! 破廉恥! やめてぇ!」
紗千も子供といえ女。傍から見れば存分に背徳的な光景であろうが、そんなことは関係なかった。レンさんに怒られたくない。その一心で俺は小娘の白衣の中を弄る。
「いやぁー!!」
たとえ相手が子供であったとしても、全身全霊で暴れる一人の人間を押さえつけるのにはそれなりの体力を要するらしく、いつしか両者の呼吸は荒く、夏の暑さ、雨による湿気も相まってか、汗に塗れていた。紗千の抵抗する手が偶然俺の着物に引っ掛かり、肩が肌ける。着衣は乱れ、互いの汗に肌を滑らせながらも、しばし格闘は続いた。
「いやぁぁぁぁぁー!!」
「そろそろと思ったが、お邪魔だったようだな」
頭上から声が聞こえた。
手を止め、見上げると格子窓越しにミの顔が見えた。
いつに増して驚くくらい無表情だ。
何故あんな高い所に…………格子に掴まってぶら下がっているのか。
こんな雨の中、あんな所にぶら下がってまで中を覗きに来るとは、俺に負けず劣らず熱心なことだ。
何はともあれ、これでこの下らない遊びは終わりだ。
「おい、家のどこかに鍵がある筈だ。探して来てくれ」
「鍵とはこれのことか?」
ミが目を泳がせた先を良く見れば、格子に掴まる右手の指に鍵が引っ掛けられていた。
「おお、多分それだ。よく見つけたな。阿呆の割にはたまには役に立つ」
「この蔵のすぐ外に落ちていたよ」
気の所為だろうか、いつにも増して淡々とものを言う。普段からあまり感情を表に出さないで、それでいてなお、冷たさを感じさせることのない妙な雰囲気の持ち主であったことは確かなのだが、今回のそれは若干、いや、大分違った感じだ。視線が雨の中を靡く風のように肌に刺さる。
「それで、続きはしないのか?」
「続き? 止めだ。こんな勝ち目の無い勝負。それどころか、今お前に見つかっただろう」
「人に見つかってはできないことなのなか?」
ん? 何を言ってるんだ、こいつは。話がいまいち噛み合わない。
「御託はいいからさっさと鍵をよこせ。この阿呆が」
「えいっ!」
そんなふざけた掛け声と共に、ミが鍵を格子の隙間から勢い良く投げ入れた。そしてそれは不意打ちを食らった俺の額にぶつかった。
「おいっ! そんな乱暴に投げる奴があるか!」
「ふんっ」
「よく俺がここだとわかったな」
「蔵に内側から鍵が掛かっていたからな。外側ならともかく、内側に鍵を掛けるとなると中に誰かがいなければならない」
土蔵を出て居間に戻ると既に遊びを終えた奴らがくつろいでいた。
「ほう、阿呆のお前にしてはよくそこまで考えが回ったな」
正直、俺もそこは危惧するところではあったのだが、相手がミを除いては全員が子供、加えてミの鈍さを勘案すれば、そこまで意に介することではないと判断したのだ。
「実はな、ヒナが教えてくれたのだ。鍵が掛かっているのに外側に鍵が無いのはおかしいって」
となると、あの最初の時点で俺が中にいることに気が付いていたのか。
「ふん、お前なんかよりもそのジュソのガキの方がよっぽど頭が良いらしいな」
決してヒナを褒める為ではなく、ミのことを馬鹿にする目的で言ったのだが、俺の言葉を聞いたヒナは、恥ずかしそうに顔を赤くしながら身を捩った。
「ちょっと待て」
そこであることに気が付く。
「最初にあの土蔵に来たのはお前なんだよな?」
「ああそうだぞ」
「お前、見つかるの早過ぎだろうが!」
あの土蔵に何者かがやってきたのはこの遊びが始まってすぐのことであった。つまりは、それより早く、こいつはヒノト達に見つかってしまったということだ。遊びとはいえ子供相手に情けない。
「お前……一体どこに隠れてたんだ?」
「どこだっていいだろう」
「…………、お前、何を怒っている」
俺とは違って、こんな勝負にむきになるような奴には見えない。しかし、ミの無表情はあの土蔵で見た時から、どこかいつもの無表情とは違った気がしてならない。はっきりと違いを挙げろと言われれば、それは困ってしまうのだが、しいて言うならば感情が無かった。変な表現かもしれないが、いつもなら感情がある無表情なのに、今はそれが見えなかった。あえて例えるならば、まるで拗ねた子供が駄々を捏ねて閉ざしてしまっているようだ、と感じた。
「怒ってる? わたしがか?」
そこで初めていつもの間の抜けた無表情に戻った。きょとんとした顔でこちらを見ている。腹が立つ。
「何故だ?」
「知るか」
それはこっちが訊きたい。
* * *
「虎が出るんだってー」
「とらぁ、とらぁ」
ヒノト達が例の佐久間とやらから聞いた知恵を自慢げに話してきた。本島出身の俺からするとそんな話、面白くもなんともないのだが、ここで上手く機嫌を取ることも子守のうえでは要なのである。後々面倒な要求を押し付けられては墓穴を掘ったと言われても仕方がない。話を聞くだけならば楽なものである。この家に厄介になってから学んだことだ。
「虎だぁ? そんなもの本島では珍しくともなんともないぞ」
正直、俺もこの目で見たことがあるわけではないが。そういうものを見世物にしている場所は本島にいくらでもある。
「違うよー、この島にだよ」
「そんなわけあるかぁ。やはりその佐久間って奴はとんだ嘘吐き野郎だな」
「違うもん! おじちゃんは嘘吐きじゃないもん! 嘘吐きはキョウちゃんの方だもん」
「おい、確かにレンさんの約束は破ったが、お前らに嘘なんてついたことないぞ」
「だって昨日だって遊んでくれなかったし」
「何故お前らと毎日遊んでやる決まりになってんだ。そんな約束した覚えがない」
「だってばあちゃんが言ってたもん。キョウちゃんはヒノト達の為にこの家にいるんだって」
くそばばあが、妙なことを噴き込みやがって。一番の嘘吐きは貴様だ。
「あーあ、雨じゃなかったら見に行きたかったなー、虎」
「でも夜は外出ちゃいけないんだよ? 母さんに怒られるよ?」
ヒノトの言葉に対しツヅミがそう反論した。いつも姉に連れられているのかと思いきや、意外としっかりしているところもあるようだ。
「ああツヅミの言う通りだ。お前達のようなチビ共が夜出歩いたら、すぐに化け物に食われるぞ」
「でもどーしても見たいんだもん。ねぇねぇキョウちゃん連れてってよ。キョウちゃんは強いから化け物出ても平気でしょ?」
「阿呆が。お前達が見たくても俺が見たくないんだ。ほかの奴にでも相談するんだな」
「けちー。キョウちゃんのけちー」
「けちーけちー」
ヒノトに続いてツヅミも囃し立てる。お前は一体どっちの味方なんだ。先程一瞬でも感心してしまったことを馬鹿らしく思った。
「大体お前ら、どうして虎なんて見たいんだ。この島では珍しいかもしれないが、それでも別段面白いものじゃないだろう」
幼い子供が見たことのないものに対し幻想を抱く気持ちもわからないではないが、虎はいないにしろこの島にだって似たようなものはそこら中にいる。実際に見たところで何の感慨も湧かないのが落ちであろう。まあ道端で出会えば、襲われる恐怖くらいは生じるだろうか。
「だって佐久間おじちゃんが言ってたんだよ。その虎、本島にもいない珍しい種類だって」
「ほう、一体どんな虎なんだ?」
子供相手とはいえ、ここまで下らない嘘を並べるとはその佐久間という男、余程取るに足らない思考の持ち主なのであろう。最初は腹が立ったが、最早呆れることを通り越して、少々憐れに思えてきた。
「その虎、まっくろなんだってー」
「っ!?」
黒い。その言葉がヒノトの口から出た瞬間、ミと紗千が一斉にこちらへ視線を投げかけた。
蒸し暑い筈の室内が急に涼しく思えた。しかしそれは心地良いものではない。気味の悪い空気が一瞬で辺りを包み込むようであった。あるいは何か冷たいものが体の中を巡っていくような。腹の底から込み上げるような。どの道良い気分ではない。
今更ジュソを恐れるわけがない。ただ、ヒノト達の口からそんなことを聞くのが何とも許し難かった。誰にというわけではない。俺はこのガキ共をあんな化け物に微塵も近づけたくない、それが例え単なる言葉であっても、単純にそう思ったのだ。
「御飯よー」
レンさんのその一言で、張り詰めていた緊張が一気に解けた。
この天気だ。今は考えていても仕方がない。よくよく考えれば、それはあくまで可能性でしかないのだ。
俺達は互いに目で合図すると、何事もなかったかのようにその場を収めた。
さっき昼を食べた気がするのだが、家でずっと怠けていた所為か嫌に早い気がする。だが腹の減り具合からみて確かにそんな時間なのだろうと勝手に納得した。
「あれ、雷華ちゃんは?」
だが、解けた緊張も束の間で、すぐにまた不穏な空気が立ち込める。
レンさんが雷華を探して家中を歩き回る。
「雷華ちゃーん。おっかしいわねー、さっきまでいた筈なのに。厠かしら?」
先程まで一緒にいたのだが……レンさんの呼び声が掛かるなり、腰を上げ、一人居間を出て行ったのだけは知っている。最初は夕飯の準備を手伝いに行ったのだろうとしか考えてなかったが、レンさんの様子を伺う限り、違うようだ。
「厠には誰もいなかったぞ!」
心配して見に行ったミが騒々しく戻ってきた。
それこそ、何が起こるかわからない。
死の淵に立つまでは。
その日、雷華がレンさんの家から姿を消した。