かわのほとりにて
「はっはっはっ」
心臓の鼓動に合わせ、必然と呼吸も荒くなる。
やっと突き止めた。
森の中特有の湿り気のある土の匂いも、四方から聞こえる筈の鳥の囀りも、蝉の声も、今は微塵も感じることができなかった。感じることができない程に無心で駆ける。代わりに感じるのは、内側から打ち付ける振動と、体の熱とは裏腹に、冷たい何かが静かに体の中を駆け巡る感覚。一筋、汗が頬を伝った。
やっとだ。本島からこの島に移り住んで早ふた月、初めての大物だ。
逸る気持ちからか、自然と駆け出していた。
森の中には獣道のような道らしい道もなく、木々や竹が縦横無尽に生い茂っている。
目的地目指して一直線に駈け、邪魔をする木や竹はすかさず腰の鞘から引き抜いた太刀で薙ぐ。
やがて、川の流れが見えてきた。
森の奥にある川のほとり。
そのどこかに古びた小屋がある。
獲物はそこにいる。そこに、潜んでいる。醜く、醜悪に。
木々の間から飛び出し、川の間近まで駈け寄ると、勢いそのままに砂利を撒き散らしながら素早く方向を転換し、今度は川沿いに駈けだした。もしも反対側だったなら、その時は仕方がない、走って戻って来るまでだ。気が急ぎ、詳細な場所まで聞いておかなかったことに多少の後悔の念が生じる。
獲物。
それは化け物だ。人に憑き、人を殺す。この島に古くから伝わる畏怖の対象。島の人々からはジュソと呼ばれ、恐れられている。それは憑かれた者にしか姿を見ることも触れることもできず、それ故憑かれた者は自身にしか理解の及ばない、その孤独な恐怖の中で取り殺されていく。そして憑かれた 者が死んで初めて、そのジュソは消えるという。まさに化け物と言っていいだろう。
だが、俺が狙うのはそんな安い獲物じゃない。そんなものは嫌というほど切ってきた。
狙うはジュソの中でも成長したジュソ。怨念を増幅させ歪に成長を重ねたジュソは、その強大さ故、もはや万人にその存在を晒し、見境付けず人を襲う。そして何人を殺そうとも決して消えることのないジュソ。化け物以上に醜悪で強大な化け物。人の恨みの成れの果て。
決して、人助けなどではない。そもそも俺は人助けが嫌いだ。俺ほど打算的な人間は恐らくこの島にはいないであろう。残念ながらそう自覚している。
自身の力が試せればそれでいい。これから何匹もの大物を狩っていくことになるのだから。今に限って言うのならば、ただ、それだけが理由だった。
そうこうしているうちに何か見えてきた。小屋だ。あれに違いない……。
「はっはっ」
相変わらず息は乱れ、鼓動は荒く内側を打ちつけているが、呼吸を落ち着ける必要はない。そんなつもりは毛頭ない。俺は俺自身の腕に自身がある。たとえこれが、成長したジュソを対する初陣であったとしても俺の腕の前には何ら累を及ぼさない、そのくらいの自身だ。一太刀で終わらせてやる。
駈けたまま小屋までの距離を目測すると、ゆっくりと両の眼を閉じる。
精神を集中させる。
耳には心臓の鼓動だけが届いている。
外からの音も匂いも感じない。
意を決し瞼を開くのと、その抜き身で木戸を十字に切りつけ、蹴破るのはほぼ同時であった。
「いた!」
眼前の獲物の姿形をはっきりとは認めないまま、勢いそのままに刀で横薙ぎに切りつける。
きいぃぃんと、耳を劈くような甲高い音を発し……、
「っ!?」
しかし刀が振り切られることはなかった。防がれたのだ。
なるほど、強い。
面を上げ、そこで初めて化け物の姿を認める。
「…………」
不意の出来事に言葉を失う。
女であった。
若い女。蝶の模様を配った藍の着物に身を包み、艶やかな黒髪を腰の辺りまでのばしている。足元には、恐らく先の初太刀で切ったのだろう、その女の頭のものと同じ長い黒髪が一束程、振り撒かれていた。
続けて視線だけで女の持つ獲物を確認する。俺の不意の一太刀を防いだその獲物を。それは禍々しい、実に禍々しい意匠が施された金属の塊であった。だが、その形のみに関していえば見覚えがある。
「これは……鋏……?」
そう口に出したのはその外形がおよそ、慣れ親しんだ鋏の形を成していたからであり、こんな大きさの鋏を目にするのは生まれて初めてだ。女の背丈ほどもある。
そうか、これがこのジュソの〝キョウキ〟か……。なるほど……、醜い。
「くっ……」
俺は防がれた刀諸共力任せに押し進み、女を小屋の壁にまで追い込んだ。
しばし、拮抗状態は続く。
「どうした? 女相手だとやりにくいとでも言うか、化け物」
突如女が声を発した。涼しく、透き通るような声だった。端正に切り揃えられた前髪を揺らし、ただしそれは、俺を嘲笑するような含みのある声だった。しかし驚いた。声を発したことに対しては勿論のことだが、何よりもその言い草にだ。
化け物? この俺がか。
「化け物はお前だろう、この化け物」
すかさず、言い放つ。
両の腕に込める力とは裏腹に、極力余裕を持たせた声でもって女に応じる。
化け物……、そうだ、化け物だ。姿形が人の女であろうと、こいつが化け物であることに違いはない。それも、今まで俺が相手した中でも一番の強さだ。現にこうやって俺の刀を防いでいる。こんなことは初めてだ。それだけで相当の強さだとわかる。
だが……、
「甘い……」
俺は体重を乗せ、両腕に一層力を込める。
キチキチと音を立て、中程で交差している刀の切っ先は女の首筋に近づいてゆく。
「こんなものか……化け物……」
不敵な笑みを含んだ俺の言葉に反応するでもなく、女は相変わらず涼しい表情を保っている。
だがそれもいつまでだろうか。この刃を首筋に食い込ませれば、すぐにでもその顔は血と苦悶に歪むだろう。
そう考えると、自分の口の端が勝手に釣り上がっていくのを抑えられなかった。
体の底から何かが湧き上がっていくのがわかる。その快感と興奮で手元が狂わないよう、自分を落ち着かせようとするが、顔面に一度張り付いた笑みだけはどうしようもなかった。
しかし、次の瞬間、笑みと共に両の腕から力が消え失せる。それは女も同じであった。
「………! くる……」
不意に女の顔が険しいものになる。
声が聞こえたのだ。
けたたましく、おぞましい。それでいて悲痛に歪められた人の悲鳴のようでもあった。それはおよそ人の出せるような声ではないということはわかっていたのだが、何故だかそう感じた。
そしてその声はだんだんとこの小屋に近づいてくる。
「くるぞ!! さがれ!!」
鋭く一変した女の声とは無関係に、俺は徒ならぬ気配を感じ、大きく後ろに飛び退いていた。
片膝と片手を床に付き着地すると、すぐさま前方を確認する。
その刹那、女が背にしていた小屋の壁が爆砕する。
そして、最初に見えたものをただ漠然と表するならば、それは爪であった。
俺がそれを爪だと認識できたのは、その爪と思しきものが五本存在し、それぞれが巨大な腕へと続いていたからである。腕といっても、人のそれとは似ても似つかず、その黒い毛に塗れた姿はさながら熊のようであった。
女は壁を背にしたまま、その一本一本が草刈り鎌ほどもある爪五本のすべてを、先程俺の刀を防いだのと同じように、その巨大な鋏で受けきっている。
壁が崩れ、爪の持ち主がその全容を現した。
全身は腕と同じく黒い毛で覆われ、その眼光は自らの獲物を物色するように、醜く鈍く光っていた。黒に塗れたその中で、剥き出した二対の牙だけが異様に白かった。
間違いない、こいつはジュソだ。それもかなり成長している。
ぐるぐると唸り声を上げて女に迫る化け物は、突如反対の腕を振り上げる。それを察したか、目で確認しないまま女は後ろに飛び退き、俺の真横へと並ぶ。一瞬遅れて化け物の腕は空を切り、鈍い空気の音が小屋の中にこだました。
その風で女の髪がなびいては、さらりと元の位置に落ち着く。
「邪魔だ。さがれ」
女の一言にまたもや我が耳を疑う。
はて、こいつは今何と言った。邪魔だ? この俺に向かって。冗談じゃない。それはこっちの言い分だ。
「邪魔はお前だ。お前、ジュソでないのなら用はない。とっとと失せろ」
「…………。どちらにせよ、この中では上手く動けない、小屋から出るぞ」
「お前、俺に指図を――」
するなと叫ぶがしかし、その声は化け物の咆哮によってかき消された。化け物は愚鈍に一歩踏み出したかと思うと、次の瞬間にはこちら目掛けて飛び込む。
こっちだ、という女の合図に反応し、俺は先程自分が壊した戸から転げるようにして、女と共に小 屋の外へ飛び出た。片膝を付き、追って小屋から出てきた化け物を見据えると、手にした刀を確かめるように、ひゅんと一振り、空を切る。自然と笑みが毀れた。それを横目で見たか、女はどこか諦めたかのように、ふぅと短く息を吐くとすぐに向き直り、同じく化け物を見据えた。
小屋から出た化け物は威嚇するようにもう一度だけ声を上げると、爪で土を深く抉り、こちら目掛けて飛び込んできた。
俺と女は左右に分かれるようにしてその一撃をかわす。外の光に照らされてぬらりと光るその爪をしっかりと確認するより早く、残像をひいては俺の顔面を目掛けて振り下ろす。
俺は、刀の峰を空いていた左手で押さえるようにしてかまえると、化け物の指と指の間に刃を通すようにして一撃を防ぐ。爪は俺の眼前、触れるすれすれのところでぴたりと止まる。
その瞬間反対側にいた女が、最初の一撃をかわした勢いそのままに体を回転させると、化け物の頭部へ鋭い一撃を叩き込んだ。
「ぐぉぉぉぉぉぉぉぉぉ」
化け物口から血と唾液に混じった悲痛の音が漏れる。
よろめき、刀で受けている腕の力が緩んだのを感じるや否や、化け物の手から刀を引き抜くと、化け物の腹に蹴りを入れ、間髪いれず俺との間に生じた空間の中を縫うようにして刀を通す。
ぼとり、と化け物の腕が落ちた。
鮮やかに切られた傷口からは少し間を置いて、どす黒い血が噴き出した。
化け物が耳が痛くなる程の声を上げる。森の木々がざわめき、鳥が数羽飛び立つのが確認できた。
追い打ちをかけようと右足を踏み出すが、女も負けじと鋏を構え、横に並ぶ。
俺は横目で女を睨みつけた。
「あれは俺の獲物だ。邪魔をするなら一緒に切るぞ」
俺は女に向かって低い声で唸るように言った。
そのやり取りが一瞬の遅れを生んだか、化け物は踵を返すと木々の中を飛ぶように消えていった。
慌てて視線を戻し、姿を探すが、もう遅いようだ。辺りは不気味な程の静寂に包まれている。裏寂しい鳥の囀りが微かに耳に入った。
* * *
ジュソは逃げ去り、川のほとりに残されたのは自身と壊れた小屋と、この見知らぬ女だけであった。
ジュソがジュソを襲うなんて話は聞いたことがない。そうなるとこいつは問うまでもなく人だろう。それに加えこの女の持つ、この世のものとは思えない得物。俺の中で一つの結論に至る。
「おい、ジュソはどこだ」
「何を言ってる。ジュソなら先程――」
意味が通じていることを前提に話しているので、こうしてとぼけられては腹が立つ。
「とぼけるな。ジュソの持つキョウキはジュソを切ることができる」
そして女の持つ禍々しい大鋏に目をやった。
ジュソに並の武器が効かないことは、この島に住む者にとっては周知の事実だ。それでなお立ち向かう理由があるならば、それはジュソに対抗する手段。すなわちジュソのキョウキを持っていることに他ならない。
「お前、ジュソに憑かれているだろう」
「…………、隠しても無駄なようだな。そうだ、お前が言うようにわたしはジュソに憑かれている。このキョウキもそのジュソから借り受けたものだ」
「お前、どういうつもりで……」
「知っているか? ジュソの中には自身の恨みを忘れ、それ故に人を襲わない、そんな哀れなものもあると」
「哀れだと?」
知っている。それは知識としてであって実際にこの島に来て見たわけではないが、人に憑いてもすぐにはその者を殺さないジュソが存在するという話は珍しいものではなかった。だが、そんな原因不明なジュソが、些細なことをきっかけに再び恨みを取り戻すということも、勿論知っていた。
「死ぬぞ、お前。そんなものを憑けていれば、いずれ、必ず。その前に俺が退治してやる」
「必要無いよ。これはまだわたしにとって必要なものなのだ。それに退治するといっても、切ることはおろか、先程の成長したものとは違って見ることもできないんだ、どの道無理だろう」
「いやできる」
俺は強腰になって答えた。
「俺の目、それとこの刀は少々特別でな、この目ならばジュソを見ることができるし、この刀ならばジュソを切ることができる」
「そうか、でも別に珍しいものでもないだろうな。この島には家業としてジュソの討滅を生業にしている者は多くいるし、その中でも優秀な家柄ならこんなこと造作もなくやってのける。別段奇妙というようなことではない」
「だから早くしろ」
この女の落ち着いたもの言いがいちいち癇に障る。
だが、やがて「ふぅ」と大げさに溜息を吐くと、女は驚く程優しい声色で「出ておいで」と言った。
しばらく間をおいて、女の後ろにある無骨な木製の押入れの戸が、すぅっと開いた。
そして現れたジュソを認める。柄へ伸びかかった右手が、親指一本分の距離を残した所でぴたりと止まる。
ああ駄目だと思った。
女に憑いているジュソもまた女であった。しかも背丈は俺の腰程くらいしかない、年端も行かぬ子供だ。女と同じように腰の辺りまで伸ばしている髪は雪のように白い。だが、そんなことは関係無い。理由にならない。女であろうと子供であろうと老人であろうと、ジュソであるならば迷いなく切ってきたのだ。今更躊躇うことなどおかしい。だが、今度は駄目だと思った。ただ一点。
目だ。目が違った。
外見が何であろうとジュソには共通するものがある。ジュソであるならばそいつの目は、恨みからくる狂気と殺意に満ちているのだ。目だけならば、こんな子供のジュソでも、先程の成長したジュソに負けず劣らない。そしてそのお陰で何の躊躇いもなく切ることができた。
だがそのジュソの子の目は、今まで切ってきたそんなジュソのものとは明らかに違った。その目は常に不安に揺らいでいる。まるで、それが本当に生きた人のように。だから、駄目だと思った。
「お姉ちゃん……」
ジュソの娘が震える声を発する。
こんな筈ではなかった。そんな甘い考えで俺はこの島まで来たのではない。そんな甘い考えを持っているから、後々後悔することになるのだ。そんな考えを捨てる為に、捨てたことを確かめる為に、どのようなジュソだって切ってきたのではないのか。女であろうと、子供であろうと、老人であろうと。まったく、忸怩たる己に嫌気が差す。
柄に掛けた手を、さてどうしたものかと悩んでいると、女がずいと前に進み出た。
そうしてジュソの少女の前に立ちはだかると、
「この子を切るというのなら仕方がない。今度こそわたしが相手になろう」
そう言って大鋏の切っ先をこちらに向け構える。女の目は、ジュソと対峙した時のそれに変わっていた。本気と見て取れる。
俺は少し考えるふりをしてから口を開いた。
「やめた」
「え?」
「やめたと言ったんだ。人を切る趣味はない。それに、そんな弱そうなジュソを切ったところで俺の心が満たされるとも思えんしな」
正直、女がジュソの前に立ちはだかってくれて助かった。こうして、もっともらしい言い訳ができたのだから。
俺が切るのを諦めたことで、この女がいずれ殺される羽目になったとしても俺には関係ない。自業自得ってやつだ。無関係な人間が死のうが、ましてや自ら望んで死の淵にいるような奴を助けるような真似をしてどうする。馬鹿馬鹿しい。
俺は無意味な人助けが嫌いなのだ。
「ところで、お前は何者だ?」
今度は女が問う。
「つい最近までわたしは近くの村に住んでいたのだが、お前のような人間は見たことがない。もしかして他の村から来たのか? 他の村には、お前のような力を持ってジュソを退治する者が多くいると聞く。それでも、一人でこのような森の奥に退治にやって来る者は聞いたことがないぞ。大抵三人、少なくとも二人で行動するのが定石の筈だ」
「俺は本島の人間だ」
「本島の…………、本島にもお前のような力の持ち主がいるのだな。驚きだ。その力を買われて派遣されたのか?」
「別に、仕事でやってるわけじゃない。好きでやってるだけだ」
「ジュソを……切るのが好きなのか?」
「ああ」
真面目に答える気などなく、適当に返した言葉なのだが、面倒なのでそういうことにしておいた。
俺は女越しにジュソの少女を見据える。少女はびくりと小さく体を震わせると、すっかり女の影に隠れてしまった。
この様子を傍目から見たならば、悪者は紛うことなく俺の方なのだろう。そう思うと何となく居心地の悪さを感じた。
「ところで、宿はどうしている。仕事で来たのではないとすれば、宿代も稼げないだろう。もしかしてわたしと同じような暮らしをしているのか? だとしたら、申し訳ないのだが………少しの間寝床を貸してはくれぬか? わたしの小屋はほら、この通りだ」
改めて言われずとも、そんなことはわかっていた。だが俺にはこのような小屋はおろか、寝床なんて用意できる筈もなかった。
「俺はこんな小屋など持っていない。村の人間に世話になっている」
俺は村にいるレンさんという人の家で暮らしていた。レンさんは、宿のことなど何も考えずにここまで来てしまった俺のことを快く受け入れてくれた。
「もしかしてレンさんの所か?」
不意の一言に思わず一驚する。
「知ってるのか?」
「ああ、実はわたしもジュソ退治でここにいる身でな、来たばかりの時に世話になっていたことがある。とても親切な人だ。村の人達は皆良い人だが、それでも見ず知らずの人間を快く受け入れてくれるのはあそこの家くらいだろう。屋敷も広いしな」
そう言ったかと思うと女は少し迷うような素振りを見せる。
「しかし、困ったな……そうなると示しがつかない。しばらくは森に籠るつもりだったのだが……」
何やら理由はわからないが女には村に戻りづらい理由でもあるのだろうか。
「いや、でも、考えても仕方ないな。こうなった以上どうしようもない。小屋が直るまでの少しの間、今一度レンさんに世話になろう」
「勝手にしろ」
それを聞くなり女は、手ぶらでは悪いからと小屋に貯蓄してあった山菜やら魚の干物やらを、大きな籠にこれでもかと詰め始めた。
俺は床に腰を落ち着け、それを眺めていた。
ふと床のあるものに目が行く。
「どうした? 早く行こう。森を通るなら日が暮れる前がいい」
準備を終えたらしい女が声を掛ける。
「いや、その……、悪かったな……」
「ん?」
俺の視線は床に振り撒かれた黒髪に向けられているのだが、謝罪の真意はわかってもらえていないようだ。案外鈍い。
「だから髪だ」
「髪? 髪……」
「さっき刀で切ってしまっただろう。だから一応謝っている」
多少のもどかしさを感じ、声を荒げる。
これでは最早謝罪になっていないだろうと思いつつも、女に目を向けるが、当の本人は心底「わからない」という面持で眉根を寄せている。案外? いや、前言を撤回しよう。こいつ、かなり鈍感だ。
「ああ、髪か。髪を切ってしまったことを謝っているのか」
女はようやく得心がいったかのように目を見開いた。しかし、謝罪の内容をみなまで言われると何となく居心地が悪い。
「さっきからそう言ってるだろう」
「そうか。だが、何を気にすることがある。こんなものほうっておけば自然と元に戻るだろう」
そういうものだろうか。上手く説明できないが、年頃の娘にとって髪とはもっと違うものではないのではなかろうか。それでなくとも、この女の長い黒髪は良く手入れがされているように思えるのだが。それとも俺が知らないだけで、女の髪とは手を加えずとも、自然とこのようになるものなのだろうか。わからない。
「それより早く出よう。体を動かしたらお腹が空いてしまった。久々にレンさんの夕飯を頂くとしよう。うん、実に楽しみだ」
そうして見た女の微かな笑みは、先程までの涼しく澄ました表情や、ジュソと対峙した時の切迫した表情とも似付かず、無邪気な子供の表情そのものであった。
空を見上げると、日が傾き始めていた。ジュソが壊した壁からそれを存分に眺めることができた。
* * *
「ミだ」
森を連れ立って歩いていると突如女が口を開いた。
女はやはり森を歩き慣れているのか、道無き道を迷いなく進んで行く。
「あ? なんだって?」
「名だ。わたしの名。ミという」
こちらを振り返った女の表情は、可笑しいくらいに真顔であった。ふざけているわけではなさそうだ。
「そうか、変な名だな」
この島の人間は大抵〝名前〟というものを持ってはいけないので、これは〝呼び名〟といったところだろう。
「お前の名は?」
「……キョウ」
この女に易々と名を名乗るのは何となく躊躇われたが、先に名乗られてしまっては断るわけにもいかない。
「キョウは本島の人間だと言ったな。本島とはどのようなところなのだ?」
「俺はそんな都会に住んでいたわけではないからな、この島とそんな変わらん」
「そうか、でもいつか行ってみたいものだな。自分の知らない世界が海の向こうに広がっているのかと思うと不思議でしょうがない。それにジュソなんてものもないんだろう?」
「そうだな、この呪われた島とは違うからな」
呪われた島。あえてその言葉を口に出したのは、それを聞いてこの女がどのような反応を見せるのかという興味本位でしかなかった。早々に嫌われてしまえれば、それはそれでありがたいのだし。
「呪いか。そうだな。その所為でわたしも島の人達もこの島から出られない。出ることは許されない。まあ、叶わぬ夢というやつだな。色々な意味で呪われているよ、この島は」
だが、肝心のその反応には肩透かしを食わされたようであった。どうやらこの女は鈍いだけではなく、随分とめでたい頭をしているようだ。
「キョウ、故郷は良い所か?」
「ああ? ああ、まあな」
「帰りたいとは思わないのか?」
「思わん」
それはこの女との会話が面倒になったわけではなく、いや、面倒といえば最初からずっと面倒なのだが、紛れもない俺の本心であった。
「お前はどうなんだ。あの村で生まれ育ったわけじゃないんだろう?」
「……違うよ。生まれ育った村ならまた別にある。とても良い所だ。……でも、やっぱりわたしも帰りたいとは思わないかな」
最後の一言は訊かせるつもりではないのか、酷く消え入りそうな声であった。
「村を離れ、こんな所に小屋を建ててジュソ退治の真似ごとか?」
そう言いつつ、目の前の細い竹を乱暴に払い除ける。
意味も無く挑発めいた言い草になってしまったが、依然として女の表情は変わらない。こいつの実力は先ほどの身のこなしだけでも、決して真似ごとなどという生易しものではないということは嫌でもわかるのだが、俺はこの女のことを心のどこかでまだ、認めたくはないのだろう。
「まあな。ジュソはこの森のような薄暗い所を好む。予め森に住みついて、ジュソを退治してまわれば村の人への被害が少なくなるだろう」
ならば何故、自分の村で退治をしないのかと疑問に思ったが、それ以上は訊かなかった。初対面の女に故郷の話を乞うなど、気味が悪い以外のなにものでもない。そもそも俺はこんな女の素性に興味がない。
「レンさん達には当面の間は森に籠り、村には戻らないと言っておいたのだが、予想以上に早く帰る羽目になってしまったな」
「そうか、それは悪かったな」
この謝罪は、髪を切ってしまった時の謝罪の意味合いとは勿論違う。
「なあに、これも縁さ」
俺の本心を知ってか知らずか、ミと名乗った女はそう返した。
やがて森の終わりが見えてきた。
成程、思った以上に近かったのか。無駄に走らされたことを思うと誰にでもなく、無性に腹が立った。事あるごとに腹を立たたせる女だと思った。
レンさんの家の戸を開き、中へ入るなり忌々しいものが目に入った。忘れかけていた怒りが込み上げてくる。
草履を揃えることも忘れ、居間へ押し進む。
「おい! ばばあ! 騙しやがったな」
俺は腰を落ち着ける間もなくばばあに迫った。
「なんじゃ、お前さんが化け物を倒す倒すとうるさいから少し力試しをしてやったまでのことよ」
当のばばあはこちらを見もせず、茶を啜っている。
「ふざけるな、危うく人を切るところだった」
「果たして、それはどうかな」
背後からミの澄ました声が聞こえる。
俺は横眼でミを睨みつけた。その、涼しげに瞼を伏せている表情を見ていると腹が立つ。
「ほっほっほ、ミのその様子を見る限り、お前さんは随分と見栄っ張りだったようじゃなぁ。あれ程どんなに強いジュソでも倒してみせると豪語しておったのに」
「知らん、途中邪魔が入った。それさえなければ今頃そこの女の腹は真っ二つだ」
「おお怖い、怖いのー」
どれだけの大事かわかっているのか? このばばあは。いつもこうだ。一笑に付してこちらの話をまともに取り合おうともしない。俺が実際にこの女に切りかかったことなど信じていないのだろう。一度、このばばあの目の前で刀を抜いてみせれば、そんな態度も改まるだろうか。
「そんなことよりも仕事が待っておるぞ。化け物退治なんぞより名誉ある仕事じゃ」
「キョウちゃーーーーん!」
家の奥から二人の幼い娘が走って来た。
「馬鹿! お前ら! がふっ!」
態勢を整える前に二匹のガキにのしかかられ、俺の体は床に仰向けに倒れた。
「お前ら! よせ! 今日は無理だ」
森を駈け回った疲れがここにきて急に出ていた。正直、ガキ共の相手をする気にはなれない。だが、こんな時は良い手がある。
「ほら、また本島の話を聞かせてやるから。大人しくしろ」
「えー」
何やら乗り気ではない。妙だ。いつもなら俺の前に二人仲良く正座し、喜んで俺の話を聞くというのに。
「うっそだぁー、遠くの人とお話ができるなんて、うっそだぁー」
〝デンワ〟の話を聞かせてやると、ヒノトはあからさまに疑いの眼差しを向けてきた。
「うっそだぁー」
ツヅミが面白がってそれに続く。
「なっ! お前ら! この間までは俺の話を疑い一つせず聞いてたのに」
「だって、お母さんがキョウちゃんは嘘吐きだって」
「レンさんがか? くそっ、余計なことを……」
「ねぇねぇ、キョウちゃんは本当に嘘吐きなの? ってことはこの間のも全部嘘……なの?」
ヒノトは残念そうに表情を曇らせる。
それを見てツヅミも同じような表情を見せる。
「ばっ! そんなわけ――」
「嘘吐きだね」
『ない』と発音するより早く、戸口から両腕いっぱいに茄子やら胡瓜やらを抱えたレンさんが現れた。
「嘘吐きも嘘吐き、大嘘吐きだね。キョウ、午後からは畑を手伝う約束だったろう?」
レンさんはこのチビ達の母親だ。子を二人も産んでいるとは思えないほど若く、美しい人。
この人の計らいで寝床があるわけだから、俺がこの島で最も感謝しなければならない人だ。
しかし、俺より年上とはいえ、よくよく目を留めれば、まだあどけない顔をしている。そんな彼女を見ていると、その男勝りな言動といい、毎日の泥に塗れた働きっぷりといい、ああなんて似つかわしくないのだろう、と感じずにはいられない。まあ、本人にとってはいらぬお世話なのだろうと思うが。
「ああ、悪かったよレンさん、どうしても我慢ならなかった。埋め合わせはするよ」
俺はレンさんの持つ野菜を受け取りながら言った。
「そうかい、じゃあ早速だが家の掃除でもしてもらおうか。夕飯までもう少し掛かるからね」
宿代として払うものが無い以上、この人から延々とこき使われるのは、避けようもないことだ。
「キョウありがとね、みーちゃんを連れて帰って来てくれて。正直気が気じゃなかったんだよ。女の子があんな森に籠って、ましてやジュソを退治してくるなんて言うんだからさ」
廊下へ出たところでレンさんにそう呼び止められた。
「知らん。勝手に着いて来ただけだ」
疲弊した体を奮い立たせ、床の雑巾掛けをしていると、程なくしてレンさんの声が掛かった。
急なことだというのに、運ばれてくる料理は足りないどころかやたら多い。ミの分を勘定に入れて、それでもまだ多い。急遽用意したのだろうか。それにしては心なしか、いつもより手の込んだ内容だ。
「さあ! 食べようか。今晩はみーちゃんも帰って来るって言うし、腕に縒りをかけたよ!」
ん? 何やら妙な言い回しに聞こえた気が……。
「みーちゃんも帰ってきたし、キョウちゃんもいるし、大勢いると楽しーねー。ご飯もおいしーねー」
ヒノトが口の周りにご飯粒を付けながら満面の笑みを咲かせた。
「そうじゃろう、そうじゃろう。大勢おれば何でも楽しい。わしの作戦勝ちじゃ」
その言葉に、俺の中のゆらゆらとした疑念が確信に変わる。
「おい、聞き捨てならんなぁ、ばばあ。まさかこんなくだらんことの為に俺に嘘を吐いたのか?」
やはり、さっきのレンさんの言葉は聞き間違いではなかったようだ。
「でもジュソは出ただろう? キョウ」
そんなことは関係無い。俺はこのばばあの下らん考えが許せん。お前はすっこんでろ。
「お前さんの言葉こそ聞き捨てならん。こんなことじゃと? 孫の笑顔はわしの生甲斐じゃ」
「ばばあ!」
「キョウ!」
身を乗り出そうとしたまさにその時、茶碗と箸を持ったレンさんがこちらを見ないまま一喝した。
「行儀よく食べれないなら飯はもう出さないよ!」
その言葉に俺はぴたりと動きを止めると、未練たらしく緩慢な動作で腰を落ち着かせる。
「怒られたー、キョウちゃんさっきも怒られたばかりなのにまた怒られたー」
「怒られたー怒られたー」
ヒノトとツヅミが面白がってからかう。
それを眺めていたミもクスクスと笑みを零した。気に食わない。
「くそっ! チビ共、後で覚えてろよ」
「わーい」
俺の悪態に心底嬉しそうな表情を見せるチビ共。
こいつら、この間は泣くまでくすぐり倒してやったことを忘れたか。まあ、勿論そのあとすぐにレンさんに怒られたのだけれど。
散々暴れたヒノトとツヅミを寝かし付けたところで、あることに気が付く。
寝床はどうしたらいいだろう。
ふと何気なく考えたことも、考えているうちにとても重大なことだと思えてきた。
今まではそんな心配は無用であった。何しろ居候は俺一人であったのだから。しかし、今は俺とミの二人。空いている部屋は二階の広間が一つ。
「いい? キョウ。みーちゃんに変なことしたら承知しないよ」
レンさんはそれだけ言うと、ヒノトとツヅミのいる寝室へ向かった。
「つまり、なんだ。レンさんはあの部屋で一緒に寝ろと言っているのか」
「そうみたいだな」
ミは何とも感慨の籠らない声を漏らした。食後に出された西瓜の種を取るのに必死になっている。いつまで食っているんだ、こいつは。
「冗談じゃない。誰がお前なんかと」
「そうか? わたしは構わないぞ」
その淡々とした口調が腹立たしい。これではこっちが、まるで世間擦れしていない奴みたいではないか。
「別に女と一緒の部屋にいるのが嫌なわけじゃない。お前が気に食わないんだ。お前と同じ部屋で寝るくらいなら野宿した方がましだ」
思わず心にもないことを言ってしまった。この島で野宿なんて、それこそ御免だ。
「それはいけない!」
野宿という言葉を聞いて、ミが大きく反応した。西瓜にばかり注がれていた視線も、この時になって初めてこちらを向く。
「いけないよ、キョウ。暗闇からは良くないものばかり湧く。ジュソに限らずな」
「いけない? 何がだ。お前だって似たようなことをしていただろう」
小屋の中とはいえ、あの森で暮らす奴の言うことではない。
「わたしか? わたしは大丈夫だ。一晩中ヒナが見張りをしてくれる。ジュソは眠らないからな」
そんな風に言われてしまえば返す言葉が無い。実際俺だって寝込みを襲われればひとたまりもないのだから。
それに野犬や大きく成長したジュソとは違って、脆弱なジュソはこんな夜中に、音も気配も無くやってくる。寝ている間にそんな雑魚にやられるなど、汗顔ものだ。想像するのも恐ろしい。
「そうか…………、変なことするなよ」
「変なことをしてはいけないのはキョウの方じゃないのか? レンさんはキョウに言っていたのだし」
俺達は二階へ上がると、各々自分の布団を敷き始めた。
広間といっても十二畳である。しかし大して調度品なんかも置かれておらず、一人で使うには広すぎる広さだ。かといって、こんな女と共に一夜を明かせるかといえば、それは別の話。
「だからってお前に許されているわけではないだろう。まさか何かするつもりでいたのか? そんなことしてみろ、すぐさま首を刎ねてやる」
俺は枕元に刀を大事そうに横たえながら言った。
「大体お前、女ならこういうことに対して少しは気に掛けることがあっても――ってぇ! 何をしている!」
「何って、布団を敷いているのだが……」
言っていることはごもっともだが、問題はその位置だ。その位置は俺の布団の敷いてある所まで畳半畳分と離れていなかった。
「変なことをするなといった矢先何だ! 切られたいのか、貴様」
「変なこと? 女が布団を敷くことがか?」
「違う。場所だ。場所が近いと言っているんだ」
「近い? ならどこなら良いのだ」
「もっと、その、あっちの方だ」
俺は適当に、俺の布団が敷かれている場所とは反対の壁の方を指さす。
ミは黙って指の先をしばし見つめた後、口を開く。
「嫌だ、それでは寂しい」
「ふざけるな! この阿呆女が!」
昨日まで人里離れた森の中で寝泊まりしていた奴が何を言うか。
「ならばここでどうだ」
ミは先程よりも気持ち離れた場所を指さす。
「駄目だ」
「ならばここは」
「駄目だ」
「この辺ならどうだ」
「駄目だ」
幾度かそんなやり取りを繰り返し、ようやく布団の位置が落ち着いた。先程の位置から離れたとはいえ、この広さの部屋で考えれば、まだ近過ぎるくらいだと思うが、言い合っているうちに何だか馬鹿馬鹿しく思えてきてしまい、そんな馬鹿馬鹿しい茶番劇を演じている内の一人が、あろうことかこの自分だなんて考えると耐えきれず、思わず適当なところで「勝手にしろ」と、妥協を口にしてしまった。
「羊が一匹、羊が二匹」
「…………」
「羊が三匹、羊が四匹」
「…………おい」
「羊が五匹」
「おい」
「羊がろ――」
「おい!」
「ん?」
「何なんだ、それは」
「それとは何のことだ」
「その羊がなんたらってやつだよ! 鬱陶しくてかなわん」
「…………、そういえばキョウは数えないのだな、羊」
「数えるか、阿呆が」
そんな西洋の子供騙しのおまじないを信じている奴がいたなんて……、そもそもこの島に羊なんかがいるのだろうか。
「それならばキョウは何を数えるのだ? 犬か? 猫か? トカゲか?」
「何も数えん。余計なことしなくても横になれば自然と眠るだろう。それで眠らなければ体が睡眠を欲していないということだ、その時はあきらめろ」
「…………」
「…………」
「キョウ、明日からまたジュソを退治しに行くのか?」
「ああ、お前だってそうだろう」
「キョウ……そのことで一つ頼みがあるのだが、訊いてはくれぬか?」
「無理だな。お前の頼みなど御免だ」
「……そうか。…………キョウ、やはりもう少しそちらへ寄ってもよいか? その方が小さい声で話せる」
「無理だ」
「…………」
「…………」
本当にどういう心算だ。会ったばかりの男に対して馴れ馴れしく接してくる。不愉快、不快極まりない。それともただのガキなのか。ヒノトやツヅミと同じような。ならば奴らと同じような扱いをすれば良いのだろうか。わからない。しかし、俺の初太刀を受けたあの時の様子、表情。先程までの腑抜けた態度。わからない……。
「…………」
「…………?」
「…………」
「ん?」
妙だ。急に返答がない。
そう思っていると、隣から微かな音が聞こえてきた。
「くぅ……くぅ……」
……寝てやがる……阿呆が。
「はぁ……」
こんな溜息を吐くのも何時ぶりだろうか……。