9話 差し出された手
「グ、グレアス騎士団長様っ!」
グレアスに腕を止められた兵士の顔がみるみる青ざめていく。助けを求めるように視線を彷徨わせるが、周りの騎士は皆敬礼の体勢をとっており、誰も彼を見てはいなかった。
「あ、あの、こ、これは――」
「ダレスは城の執務室にいます。案内しますからついてきなさい」
死にそうな顔で弁明をしようとした兵士の言葉を遮り、グレアスは彼の腕から手を放すとくるりと体の向きを変えて歩き出した。
「まっ、待って下さいっす!」
キールはわたわたと立ち上がり、慌てて後を追いかける。が、すぐにグレアスが立ち止まったため、危うく彼とぶつかりそうになった。
「イシュヴェン! 傍観していないで降りてきなさい」
真っ直ぐ前を向いたままグレアスが叫ぶ。彼の視線の先には誰もいない。
どこに第二騎士団の副団長がいるのだろうとキールが不思議に思っていると、上空から翼のはためく音が聞こえ、地面の砂が巻き上がった。
キールは咄嗟に顔を背ける。
風が収まったのを感じて姿勢を元に戻すと、眼の前にはにやついた顔の第二騎士副団長イシュヴェン・ザァレムと、彼の騎乗していた翼竜がいた。
「傍観だなんて人聞きの悪い。ちょうど降りようとしてたところですよ、団長」
副団長は薄茶色の髪を掻きながら反対の手を軽く上げて、絶対零度の笑みを浮かべているグレアスに近づく。
イシュヴェンを間近で見るのが初めてだったキールは、見る者すべての心臓を止める効果があると噂されるグレアスの笑みを前によくそんな態度が取れるなと、心底彼を尊敬した。
「見え透いた嘘は結構です。――第一騎士」
「はっ」
グレアスと眼が合った第一騎士が一歩前に出る。
「ヴォードはどこにいますか」
「団長は『艶めく鈴』に行かれました」
第一騎士の言葉を聞いたグレアスの美しい眉がぴくりと動く。
『艶めく鈴』とは、とびっきりの酒をとびっきりの美女が注いでくれる、つまりはそういう店だった。
「……イシュヴェン」
「はいはい、呼んできますよ」
「いえ、それは我々が――」
副団長にそんなことをさせられないと、第一、第二の騎士が声を上げようとするが、グレアスは彼らを手で制した。
「お願いします。ダレスの執務室に来るよう伝えて下さい」
「畏まりましたよっと」
ひらひらと手を振ってイシュヴェンは翼竜に乗り、空高く飛び立っていった。
その姿を見送ることもなく、グレアスは集まっている騎士たちを見渡す。
「皆持ち場に戻りなさい。貴方は彼の馬を預かっていて下さい。いいですね?」
「あ、は、はは、はいいぃっ!」
視線を向けられた兵士の声は、かわいそうなほど裏返っていた。
グレアスとキールは一番近くの扉から城に入り、月の光が差し込む回廊を通って階段を上がった。日中は多くの人が行き来する廊下も、今は人影がほとんどない。すれ違うのは見回りの兵士ばかりで、あとは通り過ぎる部屋から人の気配がするくらいだ。
「何故マールに連絡を取らなかったのです? いつもはそうしているのでしょう?」
「それは、その……マールに言えばダレス様に話が伝わるまで何人もの人間が動くことになるっす。でも俺が直接伝えればその分早くなる、そう思ったからっす」
かつんかつんと二人の靴音が薄暗い廊下に反響する。
「城の警備を突破して? 随分と甘く見られたものです」
「すみませんでしたっす」
言葉とは裏腹にグレアスの顔は穏やかだったが、キールは頭を下げた。たとえ責められていなくても、自分の取った行動は間違いだったと思ったからだ。
しかし、第二騎士団長が次に発した言葉は、思いもよらないものだった。
「……でもまあ、貴方には礼を言わないといけませんね」
「へ?」
「限界が近いようでしてね。いつ城を飛び出していくかと心配していたのですよ」
微笑みを浮かべていたグレアスの顔がすっ、と真剣なものに変わる。
肝心な部分が抜けていたが、それでも十分だった。ダレスがどんな思いでいるか、痛いほど伝わってきた。
「…………」
「彼が暴走してしまったら私とヴォードで止めるつもりでしたけれど、もしそれが現実になっていれば全員が無傷とはいかなかったでしょう。それに騎士同士の私闘も禁じられていますから、三人とも騎士ではいられなくなっていたと思います。貴方は私たちを救ったのですよ」
「……お二人は、ダレス様のことを本当に大切に思ってるんすね」
騎士を続けることよりも、ダレスを止めることを選ぶ。よほど強い絆がなければ出来ない選択だろう。
仲間とはそういうものなのかと、キールは少し羨ましく思った。
「友人を見捨てるわけにはいきませんから――この話は内緒ですよ。さ、ここがダレスの執務室です」
片目を瞑ってみせたグレアスの顔は、神々しいほどに美しかった。