8話 手がかり
一曲目を歌い終えたアシェン=カヌカは、客の拍手を待たずに竪琴を鳴らし二曲目を歌い始めた。
今度の歌は明るく、ローディスでもよく歌われている歌だったので、聴いている者たちが徐々に手拍子を始め、口ずさむようになり、最後には大合唱となった。
割れんばかりの拍手。だが、キールの耳には届いていなかった。頭の中では最初の歌がぐるぐると渦を巻いている。
アシェン=カヌカは確かに上手かった。しかし、涙を流して感動するほどの歌詞ではなかった。自分の今の状況と被っているわけでもない。
なのに、何故こんなにも胸が締め付けられているのだろう。
「寝不足で頭がおかしくなったかな?」
ごしごしと眼をこすり、大きく息を吐き出す。
涙で濡らした紙を捨て、もう一度新しい紙を取り出したキールは、自分の頬を軽く叩いて筆を持った。
「よしっ、今度こそちゃんと書かねえと」
アシェン=カヌカの歌声を頭から弾き出して集中する。
一度筆を走らせ始めると、周りの音が遠ざかっていき、やがて気にならなくなった。
歓声に沸く宿内でキールは黙々と手を動かし、報告書を完成させた。
筆立てに筆を入れ、ふうと息を吐くと、途端に遠ざかっていた音が戻ってきてキールの耳を刺激した。
「あーうるせえ……って、よおベル。いつの間に戻ってきたんだ?」
足許に気配を感じて下を向くと、籠の中で青耳兎のベルが水を飲んでいた。
キールが人参を置いてやると、鼻をひくひく動かして食べ始めた。
「おいおい、城で美味いもの食わせてもらっただろ?」
七日前に見たときより大きくなって戻ってきたベルの背中を、苦笑しながらキールは撫でる。
「帰ってきたばかりで悪いけど、それ食べ終えたらもう一回マールのところに行ってもらうからな」
そう言ってベルの長い耳を指で軽く弾くと、食いしん坊の青耳兎は人参に齧りついたまま、めんどくさそうに鼻を一度鳴らした。
「――――なんですよ」
「っ!?」
突然耳に飛び込んできた単語に、ベルの首輪に括りつけるために書き終えたばかりの報告書を小さく折りたたんでいたキールは、勢いよく立ち上がった。驚いたベルが、食べかけの人参を放り出して身構える。
三曲歌い終えたアシェン=カヌカは、にこやかに客に向かって話して続けている。彼が何気なく漏らした一言など、誰も気にも留めていない。
それはそうだろう。
キールを含めたごく一部の人間以外には何の意味も持たない言葉だ。
だが、キールにとっては何よりも求めていた言葉だった。
受付を飛び越え、人ごみをかき分けてキールはアシェン=カヌカに近づく。
押し退けた男たちに悪態をつかれたが、ほとんど聞いていなかった。
「なあ! なあ、あんた! 今さっき何て言ったっすか!? 誰と会ったって言ったっすか!?」
女将の制止を振り切り、きょとんとしている吟遊詩人に詰め寄る。
「え、ええ、ですから――」
キールの気迫に戸惑いながらも、アシェン=カヌカは丁寧に答えてくれた。
一言も聞き漏らすまいと全神経を吟遊詩人に向けていたキールは、彼が話し終えた瞬間、『妖精の隠れ家』を飛び出した。
柵につないだ手綱を解くのももどかしく、馬を一目散に城へと走らせる。
城の一番手前の門が解放されているのは陽が落ちるまで。それ以降の入城は城の使用人や兵士が使用する通用門を通るしかない。一般人の出入りは禁止されているが、マールの家族ということでキールは通行を許可されていた。
顔見知りの兵士に通用門を通してもらったキールは、馬から降りずに城の裏手にある騎士の宿舎に向かった。すぐに後ろから兵士が待てと叫ぶ声が聞こえてくる。
通用門からの出入りができても、城のどこにでも行けるわけではない。キールに許されている行動範囲は通用門の向かいにある扉の先、使用人の食堂と休憩部屋だけだ。それ以外の場所は、たとえ『戦の護』付きの侍女の家族であっても立ち入りを禁止されている。
兵士に捕まれば問答無用で牢屋に入れられる行為。
だが、キールは引き返すつもりはなかった。どうしても彼と会わなければならなかった。伝言などではなく直接会って伝えなければならなかった。
第三騎士団団長ルークウェル・ダレスに。
「ダレス様! ダレス様! 聞こえるっすか、ダレス様! ついに情報が手に入ったっす!」
扉の前に第三騎士が立っている建物を見つけたキールは、馬を止めて叫んだ。
ダレスが部屋にいるかも分からない。もしかすると城どころか王都にすらいないかもしれない。
それでもキールは叫び続けた。見張りの騎士に馬から引きずりおろされても叫び続けた。
「ダレス様!」
「いい加減にしろ! どこから入ったんだ!? 門番の兵士は何をしている!?」
キールの声で宿舎から出てきた騎士の一人が、彼の頭を押さえて地面に跪かせる。
「も、申し訳ありませんっ! すぐに連れて行きますので!」
「嫌だっ! 放せ、放せよ! ダレス様に会うまで俺はここを動かないからな!」
追いついてきた兵士がに腕を掴つかまれ、乱暴に引っ張られたが、キールは全力で抵抗した。たとえ殴られても宿舎の前から動くつもりはなかった。
しびれを切らした兵士が拳を振り上げる。反射的にキールは目を瞑った。
「このっ、いい加減に――!」
「そこまでです」
ぱしっという軽い音がし、次いで誰かが息をのむ音がする。
キールがゆっくりと眼を開けると、眼の前には第二騎士団長リオン・グレアスが微笑みを浮かべて立っていた。