2話 喪失と幸福
ぱちっ、ぱちぱちっ。
ライカは薪が爆ぜる音で眼を覚ました。
軽く首を回してから起き上がり、椅子に掛けていた肩掛けを羽織ると、結露した窓に近づく。
指でなぞると外が見えた。
白い世界。
幻想的で美しく、それでいてどこまでも冷たい世界。
ヴィアン=オルガの北にある、一年中雪に閉ざされた町、クラハ=ロナの外れにある小さな家でライカは暮らしていた。
ライカには二月以上前の記憶がなかった。ライカという名さえも覚えていなかった。
二月前、気が付くとどこかの部屋にいた。
何故、自分はここにいるのか。ここはどこで、そもそも自分は誰なのか。
思い出そうとすると、頭がひどく傷んだ。
とにかく誰かに話を聞かなければ。
ライカはふらつく身体で外に出ようとした。足を動かす度に全身に痛みが走ったが、それよりも何も分からないことの方が恐かった。
だが、結局外に出ることはなかった。
あと数歩で扉に手が届くというところで、その扉が開いたからだ。
入ってきたのは隻眼の男で、その人物はライカが起きていることに驚いた顔をし、その後、眼が覚めて良かったと言った。三日も眼を覚まさないから心配したと。
ライカは何も答えられなかった。
眼の前にいる男が誰なのか分からない。信用してもいいのかどうかの判断ができない。
何も分からないという恐怖に、知らず足が後ろに下がった。
そんなライカの様子をおかしいと思ったのか、男は再び口を開いた。
「そんなに警戒するな。怪我人に刃を向けたりはしない。……あの夜に言ったことは実行するけれど」
あの夜? あの夜とはいつのことなのか? 私はこの男と何を話した?
ライカはじっと男の顔を見つめた。
すると断片的な光景が頭に浮かんできた。
細い月の下、草原のようなところ、眼の前の男と向かい合っている自分。
そして潮の匂い……。
そこまで思い出した瞬間、頭が割れるように痛んだ。
あまりの痛みにライカは立っていられなくなった。
床にしゃがみ込んだライカを、男はそっと抱きしめ、背中をさすった。
記憶は戻らない。
だが、ずっと昔に、今と同じように背中をさすってもらったことがあるような気がした。
だから、痛みが治まったライカは男に訊ねた。
「貴方は誰?」
と。
「起きたのか、ライカ」
きぃぃぃ、と扉が音を立てて開き、隻眼の男が入ってくる。
「おはよう、戻っていたのね」
ライカは窓から離れ、男が開けた扉を通って食卓のある部屋に移動し、小さな台所の脇に置いてある瓶から水を掬い取り顔を洗うと、ふぅと息を吐いた。
水は氷のように冷たいが、その代わり頭を冴え渡らせてくれる。
ライカが記憶がないのだと打ち明けると、男は心底驚いた顔をしたが、しばらくするとそうかと頷き、何でも訊けと言ってくれた。
ライカは、自分の名前から今いる場所、記憶を失った原因、これまでの生活など思いつく限りのことを訊ねた。
しかし、城で『戦の護』付きの侍女をしていたと言われても、崖から海に落ちたのだと聞かされても全く実感は湧かなかった。
彼の話が嘘ではないと教えてくれたのは、全身を駆け巡る痛みと、首から下げていた『戦の護』の紋章の首飾りだった。
傷が回復すると、これからどうすると男に訊かれた。
王女の許へ戻ると答えるのが正解だったのかもしれない。
だが、唯一知っている男の傍を離れ、知らない人間――向こうは自分のことをよく知っているのだろうが――のところに行くというのはとても勇気のいることだった。
ライカが迷っていることに気付いたのだろう。もしくはそれが彼の願いでもあったのか。
男は一緒に来るかと手を伸ばした。
――ライカは男の手を握った。
「朝食を食べたら雪惑いの森に行こう。薬の材料がもうあまりないだろう?」
「ええ、ありがとう――セアルグ」
後ろから声をかけてきた男に、ライカは振り返って微笑んだ。
朝食のパンとスープを食べ終えたライカは、セアルグと共に外に出た。
馬よりも一回り大きく、額に角が生えた真っ白い獣、氷孤に跨り前に乗るセアルグの肩に手を置く。
セアルグと名乗った隻眼の男は、ライカを雪と火山の国ヴィアン=オルガへと導いた。
その道中でライカは、自分が薬草や毒草に詳しいことを知った。
初めて見る草が、何に効くか分かるのだ。
セアルグに訊ねると、侍女をしているときに覚えたのだろうと言われたが、城には何人もの医師がいるはずで、自分がそんな知識を得る必要があるとは思えず、疑問は疑問のままライカの中に残った。
彼は本当の理由を知っているのではと思ったけれど、問いただすことはしなかった。何となく訊いてはいけないと思った。
クラハ=ロナで暮らし始めてから、セアルグはよく家を空けた。何日も帰らないこともよくある。
今日は四日ぶりに彼の顔を見た。
セアルグがどこで何をしているのかは知らない。知りたいとも思わない。
知ってしまえば今の生活が壊れる、そんな気がした。
静かで穏やかな日々に、ライカは幸せを感じていた。
ずっとこの暮らしが続けばいいと。
「しっかり掴まっていないと落ちるぞ?」
セアルグに言われライカは彼の肩から手を離した。
――そいつを信用するな。そいつは…………だ。
「えっ?」
頭の中に誰かの声が響いた。
聞き覚えのない、だが懐かしいと感じる声。
「どうした?」
「……ううん、何でもないわ」
ほんの少しだけ躊躇いながら、ライカはセアルグの身体に腕を回した。




