新たなる始まり
忘れもしない、高校一年生の冬。そこで僕は、初めて、二人の怪盗に負けた。彼女たちの正体を暴き、罪を明るみにさらしたところまでは良かった。けれども、僕は結局、二人を取り逃してしまった。
それから僕はがむしゃらに、その道で知らない者はいない安楽椅子探偵、成田真帆さんの下で探偵の修業を積んだ。“時修館のシャーロックホームズ”なんて呼ばれて、浮足立っていた自分を反省するように。あの頃はどうしていいか分からなくなっていたから、とりあえず夢中になれるものがあった事は、僕にとっては良かったんだと思う。そのうち、気持ちの面でも落ち着いてきて、普通に高校生活を続け、大学も卒業することが出来た。
そして一年前ようやく、真帆さんから独立の許可が下りた。だから僕はこれから、自分の事務所に向かうのだ。
目印は、とある街にある、とある喫茶店。店のマークが少し変わっていて、一見すると、普通の八分音符なのだが、そのたまの部分がサッカーボールになっているのだ。その音符があしらわれた看板がトレードマークの、“cafe 陽の雫”。名前の由来は、経営者である宝生夫妻の愛する子どもたちからとったそうだ。彼らは年若く、お店も今年で三周年とまだ日は浅いが、店主が丁寧に淹れる珈琲と、奥方の優しい料理とお菓子、さらにはたまに聞かせてくれる美しいピアノ、温かい雰囲気が相まって、なかなか繁盛している。
僕の仕事場は、このお店の上にある。一応、別々の出入り口があるのだが、夫妻が気を利かせて、喫茶店の中からも僕の事務所に行けるようにしてくれている。仕事柄、お客さんにお茶を出さねばならないのだが、僕も助手たちも、料理はできるのにお茶を入れるのが下手だからである。
カランカラン
「いらっしゃいませ!」
昔ながらのベルの音を聞きながら店内に入ると、優しい笑顔が出迎えてくれた。
「伊紀さん、おはよう」
高校生の時からの付き合いである伊紀さんは、今は結婚して苗字が変わってしまった。だから慣れないながらも、名前で呼ばせていただいている。彼女は長い黒髪を後ろでまとめ、仕込みの手を止めてこちらにやってきた。エプロン姿が、すっかり板についている。
「あら、参道くん。ごめんなさい、お客さんかと思っちゃった」
「いいよ、別に。ある意味お客として来たしね。珈琲もらえる?」
「はい、かしこまりました」
余裕のある朝は、たまにこうして、注文をしてから仕事場に入る。なんだかんだ、僕もこの二人が淹れてくれる珈琲のファンなのだ。
「上に持っていこうか」
カウンターからひょこっと頭を出したのは、店主の知景。こちらも昔と変わらず、清潔に切りそろえられた短髪が凛々しい。二人で喫茶店を開くくらい仲が良い夫婦なのに、未だに知景を目当てに来る女性客がいるくらいの美形だ。
もっとも、彼は相変わらず、“俺には伊紀がいるから”と断っているのだけれども。
「知景、おはよう。お願いしていいかな」
「喜んで」
僕が独立すると分かってから、色々な人が門出を祝い、協力をしてくれた。彼らはそのうちの二人。自分の店の二階が空いているからと、いい場所を勧めてくれたのだ。その親切心に甘えながら、僕は心を温かくして、階段を上る。
「おはよう」
「はよーす」
……時刻は八時半。我が探偵事務所の出社時刻は九時で、僕はそれよりも早くやってくるのだが、彼――助手その一の綾野昤文は、必ず、僕よりも早くここにいて、受付もかねている彼の席で、すでに仕事を始めている。
「いつも思うんだけど、綾野、まさかここに住んでるわけじゃないよね」
「そんなことあるわけないだろ、心外な」
綾野は僕よりも一つ上だが、助手をさん付けするのはおかしいと言い張り、呼び捨てを強要されている。彼とはひょんなことから高校生の時に知り合い、その後もちょくちょく会って、小説やその頃起きていた事件について語り合っていた。要するに、馬が合うのである。そんな彼は、ことあるごとに、“お前が探偵事務所を開く時には、俺を呼べ。事務仕事くらいはやってやる”と言ってきた。そこで、この度声を掛けたら、本当に手伝ってくれているという訳である。
「いくら給料安いからって、宿に困るほどじゃない」
……本当に、ご厚意に甘えてるとしか言いようがない。
「それに関しては悪いと」
「いや、それに関しては仕方ない。実質、潤一人で切り盛りしているようなものだからな」
「えー、私もいるじゃないですか」
しれっと、今来たばかりにもかかわらず、ずっといたように振舞う彼女は、八柳晨という。二人目の助手である。
「確かに。調べ物に関しては、僕はしーちゃんの足元にも及ばないよ。そういう意味では、しーちゃんは調査員の一人だね」
「俺は?」
『事務員』
「参道は仕方ないが、晨に言われたくない」
「だって本当の事じゃないですか、先輩」
しーちゃんは綾野の後輩だそうで、彼女の能力を買った彼に連れられてきた。僕の一つ下で、最初から“私の事はしーちゃんって呼んでください”と言ってきた強者である。彼女の仕事はとにかく調べる事。インターネットから紙媒体から、外回りから。あらゆる下調べの作業を彼女に一任している。これが早くて正確で、とても助かっている。……けれども、たまにとんでもないところ――例えば、新聞社とか警察とか――から情報を入手してくるので、少しはらはらしている。一体、どんなつてがあるのだか。
ちなみに、綾野は本当に事務仕事をしている。主に依頼人とのお金の交渉だとか、領収書の整理、うちの事務所の家賃や光熱費、消耗品の買い出し、お掃除などなど。僕が依頼に集中できるように、全ての作業を請け負ってくれている。この二人がいなければ、僕はこんなに仕事が出来ていないだろう。……もっと有名になって、彼らに楽をさせてやらなければ。
「さて、所長」
「とりあえず荷物置いてくださいよー。私も席に着けませんー」
「はいはい。ごめんね」
そう言うと、僕は衝立の向こうの、自分の席に着く。事務所はワンフロアで手狭ではあるが、きちんと僕ら調査員が仕事をするスペースと、応接室は別に設けてある。作業部屋には机が二つと、丸テーブルが一つ。コンロと冷蔵庫もあり、なかなか快適である。
「で、昤先輩。今日のお仕事はー?」
「そうだな。とりあえず犬探しの依頼が一件、浮気調査が二件。そんなところかな」
「所長! 私は何をしますか!?」
ずいっと、いつの間にか荷物を置いたしーちゃんは、顔を近づけてきた。きらきらと輝く瞳が眩しい。
「えーっとね……」
余談ではあるが、僕の周りには美男美女が多い。この二人も例外ではなく、綾野は爽やかかどうかこそ怪しいが、陰のある愁いを帯びた瞳をもち、少し癖のある茶髪はふんわりと整えられている。背は高い方ではないが、無駄な肉はなくすらっとしており、十分イケメンと呼ぶにふさわしい。しーちゃんも、セミロングの髪はさらさらと美しく、たれ目と笑顔が愛らしい、小柄な少女のような女性である。事務所が暇な時は下の喫茶店を手伝ってもらっているが、男性客からの人気もあるという。
そんなくだらないことを考えつつ、僕が仕事の手順を指示しようとすると、
「しっかし、所長っていっつも格好いいですよね」
思考を読まれたように、似たようなことをしーちゃんが言い出した。
「だな。随分と背も伸びたし」
「そうだね。少なくとも綾野よりは高い自信があるよ」
「うるせぇ」
「さーて、仕事始めるよ。今日もよろしくお願いします」
「あいさー」
「はいよ」
優秀な二人のスタッフと、小さいながらも綺麗にしている事務所。これが、今の僕のすべてである。
コンコン
「はい」
「珈琲お持ちしました」
朝の打ち合わせを終えた最高のタイミングで、珈琲が届く。このちょっとした気遣いも、僕がこの二人に支えられていると感じる瞬間である。
「ありがとう」
「いいなー」
「同感だ」
何を隠そう、この二人も、宝生夫妻の珈琲のファンなのだ。
「皆さんの分も一緒にお持ちしましたよ」
『ありがとうございます!』
いそいそと丸テーブルに集まる二人。仕事前の珈琲ブレイクといこう。香ばしい良い香りが部屋中に広がり、ほっこりしながらカップに手を伸ばしたところで、
「潤ちゃん、ごめん」
見慣れた金色の髪の女性がノックもせずに扉を開けて、言った。
「仕事の依頼に来たわ」
……すごく、嫌な予感がした。
短くなってしまいましたが、潤の現在と、新しい依頼についてでした。
ちなみに、最後に出てきた女性は皆さんの知るあのお姫さまです。
次回は依頼内容と、調査の開始になるかと思います。お楽しみに。