(七)
「御鷹姫の享年は一六六六年だ。当時27歳にはなっていたというから、一六三九年には生まれていたことになるね。
一六三八年に島原の乱が終結し、ちょうど日本が鎖国を強化し始めた頃にあたる」
一六四一年。最後に残ったオランダ商館を長崎の出島に移すことで、日本の鎖国が完成された。そうすることで、異国人を国内から排斥し、一ヶ所に管理し、異文化の流入を幕府は厳しく制限していった。
三代将軍徳川家光の治世。全国統一を果たし、徳川幕府強化に乗り出したこの時代、新たな脅威は外国から流れ込む文化と思想だった。幕府は、高度な技術と商業利益は欲したが、思想は拒んだ。
島原の乱は、幕府支配を揺るがす西洋思想に対しての、弾圧の象徴となった。
春日は開いたファイルから目を上げた。
「ところで騎道君。君、食事はしてきたかい?」
「いえ……」
「なら丁度いい。おっ、きたきた。気が利くね、千秋」
現物を目の前に出されては、断る言葉は喉を出ない。
広げたばかりの資料は、せっせと卓から下された。春日は佐倉が並べる夕食に目を細くした。母屋と違って、彼は夕食は遅く取るのだという。
「制服は乾かしておきますから。どうぞ、ごゆっくり」
かわりに、騎道は春日にセーターを手渡された。
いつものことだが、一つのことに夢中になると、騎道は空腹を忘れてしまう。
心から感謝して、騎道は佐倉家の好意を受けた。
カレイの煮付け、青物のごま和え。どんぶりに盛られた惣菜を前に、二人はしばらく食事に没頭した。
「なぜ、恋敵であるはずの沙紀姫が、御鷹姫を奉ったりしたんでしょうか?」
「驚くことはそれだけじゃない。一説にはね、死産とされていた御鷹姫の子供、つまり藩主隆都の唯一の血筋を、彼女が引き取った可能性もあるらしい」
「どうして、そんな……」
騎道は、箸を止めた。
「それも、わざわざ実家である島田家を継いだ、せとという女性が貰い子として育てていたその子を、引き取ったらしい。おせとは、御鷹姫には従姉妹にあたるが、姉妹同様の関係で、白楼閣に登ってからも交流はあった女性だ。
沙紀は長じたその子に結婚までさせ、我が子同様に扱ったとも言われている。これは、彼女にまつわる美談として美化された可能性もあるがね」
「御鷹姫の子供は、女の子だったんですか?」
春日はうなずいた。
「御鷹姫は、たしか死産と聞かされて、塞ぎこんでいたのではなかったんですか? それが彼女を徐々に狂わせた」
「それもあるが。それ以前から夫である隆都とはうまくいっていなかったらしい。人嫌いで、里に降りることなく山中に籠もっていたことが、全ての原因だろうが……。
そこまで心理的に追い詰められていながら、夫の元に降りようとしなかった行動は、いまもって研究者の間では最大の疑問だ。ただ……」
「ただ?」
「これは根拠も裏付けもないまったくの噂だ。
だが、羽島家の古文書に一度だけ記されていたらしい。
この文書も、羽島家の没落とともに紛失しているので真偽は確かめられないが。
御鷹姫は波打つ金髪をもっていた、らしい」
「……金髪ですか?」
確信をもって、春日は顎を引いた。
「だから人目を避けていた。
秦野山では、彼女は決まった使用人にだけ囲まれて暮らしていた。彼等は一人残らず、大火の後、火の始末を怠ったとして断罪されている。これは隆都の一番の腹心であった男の命令だ」
「口封じですね。事実ならば……」
騎道は尋ね返した。
「金髪というのは、彼女だけの突然変異なのでしょうか?」
「おいおい。詳しいからといって、僕をあの時代の学者だと思わないでくれよ。第一、突然変異くらいなら、ただの珍しい女ということで話しは済むはずだ」
「必死に隠していたんですね……。彼等は」
食事を終えて、自分で急須から騎道の分も注いで、春日は黙って茶をすすった。
騎道がきれいに食べ終えたのを見とって、目を細くした。
「出されたものを残さず食べる人間は、信頼できる」
二人は食器を片付けて、再びレクチャーの場に戻した。
陰惨な歴史を、春日は語り始めた。
「隆都の先代領主は目も当てられないくらいの暴君でね。
民衆や家臣たちに憎まれ、34の若さで暗殺された。表向きは病死だったが、藩ぐるみで抹殺しなければならないほどの男だった。これは藩史に残っているよ。彼はとんでもないお荷物を領内に持ち込んだんだ。
鎖国令強化の直中で、京に上り異国人を連れてきたそうだ」
春日は滑らかな額に皺を立てた。
「それも女ではなく、男の方をね」
浪費、遊蕩三昧の果ては男色。それも禁忌である異国人とは、呆れ果てる。
「鷹匠である島田家が関わるのはここからだね。
数年後、側室として奥に上げられていた島田家の娘とその異国人が関係をもった。生まれたのは女の赤ん坊だった」
黙って聞く騎道の顔を、春日は見た。
「二年後、二人の関係を知り激怒した先代は二人を惨殺。
諌めた老臣にも刃を向けた主人の姿に、誰もが危機感を抱いた。暗殺劇は御鷹姫の誕生によって幕が開いたようにものだったね。
後継者選びは難航したらしい。前藩主が死んでから、三年も掛かったほどだ。おかげでその間に、新藩主となる隆都は六歳から九歳になることができた。
先代からは遠縁にあたるが、落ち着きのある利発な少年だったらしい。回りの教育も今度は行き届いていたせいもあるだろうが、有能で期待にたる名君となった。
馬鹿な主君の後なら、誰でも利口に見えるだろうが、彼はそれ以上だったらしい。なかなかの名裁きの記録が、ここにあるよ」
春日は資料をめくって、文献のコピーや走り書きのメモを見比べた。以前開いた時には読み飛ばしていたが、この男。君主の素質は生まれながらに持っていたとみえる。
「藩主交替の混乱の中で、御鷹姫はどうやって育てられたのでしょう?」
つい読み耽っていた春日は、騎道の声に引き戻された。
「生まれてすぐに実家に引き取られたよ。公には二ヶ月とたたぬうちに亡くなったとある。しかし、生きていた。
これも羽島家の古文書にあった。
歩けないように両足首の筋を絶たれ、暗い土蔵の中で育てられたそうだ。
身の回りは、おせとと祖母が面倒をみた。おせとが、御鷹姫に目をかけられていたのも、こんな理由があるからだ。
家長であった祖父が、娘の忘れ形見を殺すにはしのびなく、無残な手段をとったようだ。彼は、いずれ剃髪させ、両親の菩提を弔う尼にするつもりだったらしい。
だが、それが仇になったかもしれないね。
御鷹姫が十七歳の春。鷹狩りの帰路に島田家に立ち寄った隆都は、偶然その哀れな姿を目にした。自分の先代が残した過去の傷をね。それだけでなく。……まあ、過去の文書というものは多分に美化されるものだが。彼女は美しい女性だったそうだ。この時、彼は二十歳。すでに、名君とささやかれはじめていた頃だ。
同情か、恋のせいなのか。その場で彼女の身柄を引き受け側室とし、秦野山腹に移り住ませた。
白い山桜の群生地を切り開き、贅を尽くした屋敷を立てさせたそうだ。桜にちなんで白楼閣と呼ばれた。現在でも桜に囲まれて、白楼閣の跡地は史料館になっている。
隆都は彼女以外の側室を得なかったらしい。
彼女がどれほど愛されていたかは、多大な藩の財政が費やされたことでわかるよ。白楼閣だけじゃない。身の回りの行儀作法は京都から連れてこられた人間に教え込ませ、たちまちのうちに高貴なる姫君に仕立てられたそうだ。
彼女の足も、腕のある医師を呼び寄せて、立って歩けるまでに回復させたという。
時折顔を見せていたおせとは、驚くなり喜ぶなりだったらしい。
ただでさえも気丈、どことなく気品があり、湿った土蔵の中でお暮らしながらも迸るようだった鮮やかな生気が、目もくらむ絹織物、雅な扇をそえられて、ただただ錦の光を放っておられた……。と文書にも残っている」
「たった一人の側室にそれだけの贅沢をさせて、民衆に不満はなかったのですか?」
「傾国の姫、とはならなかったよ。白楼閣の完成と同時に、大型の普請事業の依頼が幕府からあったそうだ。
当時は小藩で経済的にも困窮していたが、未開墾の原生林は豊富だった。江戸に地理的にも近く、竜頭川という地の利もあったしね。もちろん竜頭川までの道路整備は隆都が指揮をとった。護岸工事も必要だったね。
藩の財政を支える材木は、高い値がつき竜頭川から運ばれていった。彼女は福を呼ぶ姫とも民衆には謳われたほどだ。二人の出会いや、彼女の不遇な生い立ちも美談として流布された。隆都の名声はますます高まった」
「異国人の娘であること、金髪ということは、完全に伏せられたまま……」
「それほど人気があるにもかかわらず、彼女は山を降りてはこなかった。その上、正室にもならない。日を置いて通ってくる隆都を待ち、受け入れるのみだった」
「……待つだけ。それでも彼女は幸福でしたね」
春日は、騎道の祈りに似た言葉にうなずいた。
「けれど、終わりは来た。
事実上の正室でありながら、その地位を得に麓の屋敷に現れない彼女に、何も知らない家臣は焦れたんだろうね。
その上、隆都は三十近くになり、お決まりの世継ぎ問題も出てきた。……せめて、死産した子供が『生かされ』ていたなら、とも思うが」
同じ無念な思いで、騎道は目は伏せた。
「祖父であった島田家の家長が、その子の存在を隠し通せと命じて亡くなったらしい。隆都も真実を知らなかった。
異国人の血を引いた者を、大名家に残すわけにはいかないと考えたようだね。自分の娘の汚点として。御鷹姫のような金髪の子供が生まれ、不遇に堕ちぬようにと」
「二人の関係にも終わりが来たんですか?」
「……そのようだ。二十一歳で初産に失敗した御鷹姫は、落胆が深く、一時期まったく気が伏せってしまったらしい。
隆都の手に余るほどだったのだろう。立ち直った頃には、隆都の足は遠のいて、彼の方も子供を失った痛みを忘れようと藩政に没頭していた。事実、この頃彼は大掛かりな治水事業と新田開墾に乗り出している」
だからといって、二人の感情に完全な断絶が生まれたわけではなかった。修復の可能性はあったと、春日は漠然とだが、感じていた。