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(四)

 伸ばした髪とほっそりと痩せた頬に、学生時代の面影はなかった。優しく女性的な柔らかさが、沙織を別人に見せていた。

 彼女は彩子の兄勝司と同窓だった。彩子は、勝司の卒業アルバムに載っていた沙織の写真に見惚れた覚えがある。

 すっきりとした細い襟足を見せ付けるボブカットに、手加減のない射る視線。中性的で冷淡な攻撃性をもっていた沙織は、抜きん出て魅力的な女子生徒だった。

「奴とは親しいようだな。弔ったのは、君か?」

 凄雀へ、沙織はうなずいた。

「まって下さい。この人は誤解しています。

 クリオンがそんな馬鹿な真似をするはずが」

 口走る騎道は狼狽していた。

 逆に沙織は、落ち着き払っている。彼女は、今度は穏やかな視線で二人をひたと見据えた。

 彩子が初めに目にした、マリアの表情だった。

「愛し合っていました。

 私たちは、お互いがもっていたものの全てを捨てて、新しい暮らしを始める約束を交わしました。

 あの人は、あなた方とは別れると私に言いましたわ」

「聞いたな、騎道? 大罪だな。これ以上ない、反逆罪だ」

 嘲りをこめた凄雀の声は低い。

「違います!

 考えてもみて下さい。クリオンが結婚なんて、たった一人の人間を選ぶなんてできるわけがない。そんな性分の人間じゃなかったでしょう?

 彼女は騙されているんです。夢を見ているだけです!」

 騎道の否定を、沙織は薄く笑って眺めている。

「だが、クリオンに何かあった場合、我々のうち誰かが調べに来ることを知っていた。

 奴以外、誰がそんなことを教えられる?」

 青ざめて、騎道は口を閉ざした。

 騎道自身は、クリオンの恋人と噂されるマリアを探していた。会って、二人の関わりを確かめたかった。

『愛していた』『全てを捨てて』『……別れる』。

 今の騎道は、沙織の言葉をすべて否定したかった。

「明かしただけでも、懲罰に値する」

 断言した凄雀は無表情だった。

 騎道は、くすくすと小さく笑い声をあげる沙織を見た。

 あの時。沙織の部屋へ招かれ、亡くなった光輝のことを問われるまま彼女に語った。赤の他人を装った沙織が静かに流した涙は、誰でもない、久瀬光輝へのものだった。

 彼が居れば、何も必要ないと沙織は言った。その感情に偽りはなかった。本当に、彼等は愛し合っていたのだと、騎道は信じた。死によって絶たれた事実を悲しみもした。

 繋ぎ合わされた現実を信じられずにいる騎道。迷子のように顔立ちから目を逸らし、沙織は笑みを憎悪に変えた。

「わかったのなら、二度とここには現れないで……!」

 沙織の怒りと呼応するように、彼方で雷鳴が響いた。

 不思議と、雨足が緩んでいる。

 彩子は、ただ黙って見守っていた。

 雨に打たれた前髪をかきあげ、凄雀は滴を払った。

「無論。二度と顔を合わすことはないだろう」

 不自然に、頭上にかかげたままの右手。

 くらりと、騎道の傘が揺れた。足元の水溜りには鞄が落ちる。鋭く、聞き取れない一言を騎道が叫ぶ。

「! ……ゼン!!」

 閃き、瞬く雷光。

 おそらく真上。空気が、帯電したかのように冴え渡る。

 恐怖で、咄嗟に彩子は目を閉じた。

 白光の中で彩子が最後に見たものは、沙織に駆け寄る騎道の姿。眩しい光量に、二人の姿は掻き消えた。

 降りかかるはずの雷音。身を縮めていた彩子は、それに変わる、沙織の取り乱した叫び声に目を開けた。

「お退き、騎道!

 殺すがいいわ。口を封じればいい!

 あの人の居ないこの世に、未練などない!」

 庇う騎道の肩を揺さぶり、沙織は凄雀に言い募る。

 騎道は沙織を、そこから一歩たりとも前へ出さない。

 凄雀の目を見上げ、ゆっくりと首を横に振る。祈るようなまなざしが凄雀の感情を緩めたのだろうか。腕を下す凄雀に、ほっと騎道は肩を落とした。

「さあ、速く! 望むところだ。血の呪縛を絶ちなさい!」

 叫び続ける沙織。自暴自棄の主人に、従者である淕峨は黙って見守り、拳を握り締めている。

「やめて下さい!!」

 制する騎道を、沙織は、人をゾッとさせる憎しみの瞳で見た。今度は、どうやってこの男を怒らせてやろうか。

 自分に手を下させ、一生消せない悔いを刻ませるには。

「光輝を愛しているなら、何も言わないで下さい。

 ……僕らを、黙って見過ごしていてくれていたなら、彼の名に泥を塗ることもないんです」

 肩で息をつく沙織を支えて、騎道は向かい合った。顔を背け、騎道の手を振りほどこうとするが、果たせるほどの力は沙織にはなかった。

「……クリオンの名など、あの人が惜しむものですか……。

 捨てたのよ。捨てると言ったの。私の為に。

 同じ世界で、死んでくれると言ったのよ……」

 騎道は凄雀とは違う。騎道は、沙織の思い通りにはならない。二人は同じ。同じほどの、失った痛みを抱いている。

 騎道は何度もうなずいて、光輝らしいとつぶやいた。

「だから邪魔をしないで。わたしたちをこのままそっとしておいて……。二度と会いたくないわ、あなたたちのような人に……、もう二度と……」

 騎道は、寂しい目をした。

「……沙織さん。あなたは矛盾している」

「わかっているわ……。彼がクリオンでなかったなら、私たちは出会うことはなかったの。

 けれど、私は、あなた方が憎いの。

 お願いだから、あの人を私から奪い取らないで……、あの人の記憶を取り上げないで!

 でなければすぐに、私を殺して…………!」

 お願い……。騎道の制服を握り締め、沙織は頭をうなだれた。

 泣いていた。怒りも祈りも尽き果て、子供のように震えていた。と、その震えが、異常に激しくなる。

「……沙織さん……?」

 騎道にもたれたまま、沙織は淕峨を呼んだ。苦しい息の下、細い呼び声だったが、従者はすばやく駆け寄った。

 騎道の手から引き離し、男は沙織を軽々と抱え上げた。

 苦痛を堪える沙織の蒼白な顔立ちが露にされる。

「……誰か……、わらわの…………!」

 絞り出した言葉は、……彼女の意志なのか……?

 男は辞去の礼を騎道に返し、沙織を本堂の奥へ連れ去った。その間にも、苦悶する低い呻きは止むことはなかった。

 残された一同に、屋敷の奥から急発進してゆく車の排気音が聞こえた。

「……長くはないな」

 凄雀の言葉に、騎道の鞄を拾おうとした彩子の手が止まった。

「……どういうことですか?」

 騎道は、凄雀を見返した。

「クリオンなら、自分が死ぬまで、あの女を生かしておくことができただろう。奴は、そのつもりだったはずだ」

「沙織さんを、存命させるためだったと、思うんですか?

 彼が、ここに残ると言った理由が」

 沙織のひどくやつれた姿は、最悪の予感を与えるが。

 病気、というよりは、もっと別なものに蝕まれているような気がする。彩子は静寂に包まれる本堂を見渡して、息を詰めこちらを伺う何らかの気配に寒気を感じた。

「我々の手間が省けるというだけのことだ」

 彩子は凄雀を見た。凄雀の人間であることを忘れきった言葉は、怒りと不信だけを彩子の感情に招いた。

 騎道も、承服できていない。じっと、物言いたげな目を向けている。

「今夜中にここを引き上げろ。この失態は不問に伏す」

 傘を差しかけた彩子に気付かず、騎道は凄雀を凝視し続けた。

「言い訳は聞かん。反逆者の為に、時を無駄にすることは許さん」

「一連の事件は終わってはいません」

「それも初耳だな」

 冷ややかな返答が、彩子の感情逆撫でる。

 一度、騎道は彩子を見た。彩子は、ただ見返した。

「僕らは。僕や光輝は、過去に取り返しのつかないミスを犯しているのかもしれません。

 光輝は、ここでそれに気付いたのだと思います。僕は、彼の意思を継ぐつもりです」

 あくまでも丁寧に毅然と、騎道は言った。

「貴様は降りろ。それが事実なら、他の者を当たらせる」

「いいえ。手は引きません」

 事務的な凄雀の口調が、感情をもった。

「それが、私に対する返答か?」

「……そういうことになります」

 答えを待たず、凄雀が騎道に歩み寄った。

「勘違いをするな。我が儘は言わせん」

「やめて下さい!」

 彩子は傘を放って、騎道を背後に二人の間に割って入った。男たちはそれでも、睨み合った視線を放さない。

「騎道、行って! ここを離れて!」

 殴り合いをするよりも、ひどいことが起きる気がした。

 彼等は自分の信念のために、お互いを認められない。

 許したりはしない。だから。

「早く行ってよ!」

 彩子は後ずさって、騎道を追いやった。

 ふっと背中が軽くなる。

 足音の方向、凄雀の視線が向く方に彩子は立ち塞がった。

 思ったよりもあっさりと凄雀は諦め、彩子を見下ろした。

 背を向け、彩子は拾い上げた自分の傘を閉じた。雨は小雨に変わっている。二人分の傘と鞄では、さしていられない。執拗な視線を背後に感じていた。

「待て、飛鷹。君には話しがある」

「私にはありません。

 あんなひどい言い方無いわ。見損ないました……!」

「奴にはこれ以上関わるな。それとも。騎道が君に何を見ているか、承知しているのか?」

 彩子は、凄雀を振り返るしかなかった。

「どういう、ことですか……? 何が言いたいの?」

 凄雀の険しい表情に、思い通りにならない苛立ちが浮かんでいる。

思いがけない『クリオンの失態』、騎道の真っ向からの反抗。といっても、騎道の行動は予測の範囲内であり、クリオンはすでに死んだ人間だ。

 凄雀にとっては、冷静に思考すれば排除できる問題ばかり。だが、まだ予測できない存在が一人居た。凄雀には唯一の懸案で、彼の目前に居る飛鷹彩子。

「君は奴を受け止められる自信があるかと聞いている。

 奪い取るだけで、愛や恋が成立すると思うなよ。甘い考えなら、女はいつか男を殺す」

「……それと、騎道と……どんな関係があるって……」

 言い返す言葉が、あきらかにもつれた。言葉以上の鋭さをもつ凄雀の視線が、彩子を完全にすくませた。

 彩子はすでに、凄雀が言ったと同じことをしている……。

『奪い取って』きたつもりはなかった。けれど、結果は同じところに行き着いた。

 凄雀が真実を知っているはずがない。誰も知らないはずだから。そう、必死に自分を落ち着けようとした。

 でも私……本当に、欲しがるだけで、何も返していなかった……。だから……。

「あいつは女性崇拝の権化だ。どんな女もその対象になる。

 両親を知らない上に、男ばかりの中で育った。女親が恋しい時期に、かなり手荒い育て方をしてきた。

 おかげで、肉親同様にあいつを愛した最初の女には絶対服従を守る。生まれたばかりの子犬と同じだ」

 皮肉な笑みを、彩子はぼんやりと見守った。

 彼女が、騎道の『女神』……。

 ひんやりと沈んだ彩子の表情に、凄雀は追い討ちを掛けた。

「体は人並に育っているが、精神はまだガキだ。一人で立っていることができない。あいつはどこがで『女神』が必要だ。指針が失われては、どこへ行ったらいいかわからなくなる。自分の生き方の無い男だ。

 ただし、女神を得たならば、最強無二の騎士に生まれ変わる。どうだ? 飼い慣らしてみる気はあるか?」

 彩子はビクっと、後ろを身を引いた。

 騎士の礼を真似たように、凄雀の長身が彩子の目の前に沈んだ。片膝をついて、彼はまなざしだけが凍り付いた、笑みとはいえない微笑を浮かべた。

「……私は、……そんな人、必要ない。守られたくないわ」

 堅く、鞄を握る手に力を込めて言い返す。

「庇われて目を閉じて暮らすのはいや。どんなに酷い光景でも、一緒に目の当たりにして、その中で暮らしたい。

 騎道となら、それができる。

 そうしてほしいわ!」

 一歩目はぎこちなく、彩子はそこを逃げ出した。

「……諦めろ。奴には無理だ」

 背後からの凄雀の声は、ひどく優しかった。まるで哀れまれているようで、彩子は唇を噛んだ。

「私、騎道となら、並んで歩けるって思いました。

 騎道しかいないって。だから……」

 言い返す声は弱い。一歩一歩、踏み締める足取りで、彩子は山門を出ていった。



 再び雨足が増している。

 体を起こし、凄雀は空を見上げた。

 誰かが泣いているような、そんな気がして、薄く笑った。

 そっと、傘が差し伸べられた。

「どうぞ、お入りになりませんか?」

 ほんのりと彼女の割烹着から味噌汁の匂いが漂った。小柄な老婦人が、傍らでふわりと微笑んでいた。

 凄雀は一礼して、傘を受け取った。

「ご住職はご在宅でしょうか? 折り入ってお願いがある者です。この寺に眠る御鷹姫に関して」

 老婦人が口を開く前に、凄雀は本堂に現れた墨染めの壮年僧の姿に気付いた。住職の畏敬をこめた視線を浴びながら、凄雀は深く礼を返した。



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