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(三)

 慈円寺近くの喫茶的を待ち合わせ場所にした、ということは、彩子に案内を依頼する必要など、騎道にはなかったことになる。

 はじめてじゃないんだ……。

 カフェ・オ・レをすすって、騎道にどんな意図があるのかを考える、臆病で気弱な自分をおいやった。

 ……どうしてもここに、連れてきたかった……。

 どうでもいいわ。本当に、お参りしたかったもの。

 それに、彩子には騎道に確かめたいことがある。

 三橋のいる前では聞けないことだから、いいチャンスだ。

「ごめん。待たせて」

 雨の匂いをまとわせ、騎道が現れる。

「三橋、今日の試合で負けたらしい」

「え? そう……」

 口をついた冷ややかな物言いに、彩子は自分自身でドキリとした。

「慰めてやらないと。あいつ、優勝してTV局のインタビューで告白するって、前に息巻いてたから」

 ぎこちなく肩をすくめた彩子は、伝票を手にレジへ向かう騎道を見送ってから、カバンを手に席を立った。

 まさか……。三橋が、あの電話のせいで崩れるわけない。

 彩子は、不安になった。

 三橋にとって、テニスは遊びではないのだ。本人は茶化しているが、学園を中退してテニス留学するという噂も部員たちの中には流れている。多忙な御曹司であるがための教育の合間を縫って、トレーニングを続けているのだから、並大抵の気持ちではないことは確かだ。

 でも。地区大会では騎道の重体を知り、明らかにプレーは乱れた。彩子が知る限りでは初めてのことだった。

 二人は傘を並べて、寺までの緩い坂を昇りはじめた。

 降り続く雨。街を覆う曇天と、傘をしとやかに打つ雨音は、冬へ向かう寂しさを含んでいる。

「ここは、雪は降るんですか?」

「降るわよ。積もるほどじゃないけど、一冬に何度かは、街中が真っ白になるの」

 彩子の息苦しさは、屋外の肌寒さに紛れ薄れていった。

 どんなに考えても、もう元には戻せない。はっきりと言ってしまったから。その上で、三橋が離れてしまってもかまわない。その方が、彼にはいいはずだ。

 彩子の気持ちは決まっていて、揺らいだりはしないから。

 騎道は、わくわくした口調で言った。

「ホワイト・クリスマスになるんだ」

「そんなこと考えてたの? 残念でした。あたしが覚えてる限りでは、ないわよ」

「でも、降るといいね。彩子さん、三橋から聞いてなかった? クリスマス・パーティーに来てくれって」

 三橋……。条件反射だ。ぎくりと、後ろめたくなる。

「……ううん。聞いてない」

「まずかったかな。秘密だったかも……」

「いいわよ。騙されたっていかないもの」

 ダマすって……。騎道は呆れ顔をしたが、三橋の行動パターンなら可能性はなくはないと、考え直している。

「私たちだけじゃないでしょう? 偉いオジサンたちがゾロゾロしていて、息が詰まるわよ」

 騎道はどうするの? と聞き返すと、ちょっと苦笑した。

「彩子さんが行かないなら、僕も」

 また人任せなんだから。トンと、軽く彩子はカバンを振って、騎道の抱える学生カバンにぶつけた。

「? 何?」

「どうして、今まで来なかったの?」

 すぐにバレた嘘を思い出し、騎道は生真面目な顔をした。

「ある人と約束したんだ。事件が終わるまで、墓参はしないと。

 だけど、じっとしてられてなくて、この辺りでうろうろしてた。……一人じゃ、入りづらくて」

 なんだ……、付き添いが欲しかっただけ。

「だから、彩子さんに来てもらいたくて。……ゴメン」

「子供みたいね。久瀬光輝の幽霊が怖いの?」

「あははっ。出てきたら大歓迎するよ」

 そっちの方が修羅場かも。

「でね、その約束した人も来るんだ。

 彼が、ちょっと苦手で……」

 やだ。クッション代わり? 呆れて見返すと、冗談ではない緊張感が、騎道の静かな頬にあった。

 広い霊園を囲む板塀に沿い、二人は歩を進める。

 5時前なのに、雨雲も手を貸して日没間近のようだ。

「本当に、終わったの?」

 しばらく沈黙し、慎重に彩子は尋ねた。

「連城さんのことですか、気にかかるのは」

 騎道の方から切り出してきた。ならば、腫れ物に触るような探り合いはいらない。

「連城さんに、自殺をする理由はなかったわ。

 一緒に、白楼会との調整役をしていたの。連城さんが残した資料の中には、書きかけのものが何枚かあった。

 責任感の強い人だから、本当に覚悟の上でのことなら、きちんと仕上げているはずよ。

 第一、この仕事は、連城さんには特別な意味があって、中途半端にできるはずがないの」

 恋人だった上坂から引き継いだ仕事だった。それを考えれば、なぜこの時期に、という疑問は拭えなくなる。

 物言いたげに騎道が振り返るので、彩子は気勢を製した。

「事故でもないわ。

 あのマンションは、連城さんの行動範囲の中にはなかった。それに、あの日は鞄も置きっぱなしにして、授業中に席を立ったきり戻らなかったそうよ」

 それとなくだが、徹底的に彩子は調べたつもりだ。連城の為でもあったが、言い逃れのうまい騎道を説き伏せるにはこれくらいは必要だった。

「本当は終わっていないから、僕はここに居るんです」

 一言で、十分だった。それだけで、彩子が言葉に詰まるのを見抜いていたように、騎道は静かに答えた。

 黙って、彩子は騎道と傘を並べた。

 いままでと違う……。

 彩子の右隣には、誤魔化しの無い、どこか振り切れた顔立ちの少年が居る。



 寺院の瓦屋根が近付き始めた。

 騎道は、聞こえてくる抑揚のある男の声に耳をすませた。

 真言を唱える者が、本堂か、その奥まった場所に居る。

 何者かは、騎道が失敗しつづけた複雑な呪文を次々に繰り出し、時折、重い数珠を打ち付ける。

 気味の悪さに頬を強張らせて、彩子は騎道と目を合わせた。若い女性のすすり泣きと悲鳴も、確かに聞こえるのだ。

「な、何……?」

「お祓い……かなっ?」

 悪霊払い、という意味はすんなり伝心した。

「……怖いわね」

 実際には何なのか。騎道は歩きながら意識を集中させた。

 強力な念の力が屋敷全体を覆っている。聖地で感じられる結界に近いもので、少なくとも、この中で悪意ある行為が行われているとは考えにくい。むしろ癒しが放たれていることに、騎道は安心し警戒を解いた。

 彩子には、ただの不気味な読経にしか聞こえない。

 篠つく雨といい、時刻といい、この寺にまつわる怪異現象を連想させることばかりで心心細くなっていた。

「大丈夫ですよ」

「う、うん」

 振り返る騎道に、彩子はぴょこんとうなづいた。

 彩子の歩調に合わせゆっくりと歩く騎道は、相変わらずさりげないフェニミストぶりを発揮している。

 真っ直ぐに見つめ、顎を引いた騎道は、それだけで絶対の安心を彩子に確約してみせた。

 やや長身で痩せ型。優しく整った顔立ちで、頼り無く見えても、騎道は強い。彼の精神と肉体は、どんな悪意にも折れたりはしない。統磨との死闘が、それを証明している。

 二人の横を、一台の白銀のセダンが走り過ぎる。運転席の見覚えのある青年の姿に、彩子は気付いた。

 二人の姿が視界に入っていたはずなのに、一瞥もない冷淡さは、彩子に奇妙な違和感を与えた。

「……もう一人って……?」

 彩子が言いかける間に、車は寺へと右折した。

「うん。この場所を調べてくれたのが、学園長代行なんだ」

 学園長代行に就任し、騎道より数日先にこの街に現れた凄雀すざき遼然りょうぜん。二人の関係は奇妙だった。単純な後見人という以上に、凄雀は騎道への影響力は大きいようなのだ。

 騎道は隷属的な従順さを凄雀に向け、凄雀は当然のことと受け止めている。苦手な相手、と言葉で言う以上の感情を、騎道は凄雀にもっているはずだ。

 けれど、墓参を制限するなんて、いくら後見人でも筋が違う。反抗するそぶりもない騎道にも、彩子は納得できなかった。

 少し足を早めた騎道の後から、広い山門を潜った。

 車を降りた凄雀に、騎道は駆け寄り傘を差し掛ける。

 彩子は小さく、凄雀に会釈した。

 チラリと彩子を眺める凄雀。

「先に行け。私は住職に尋ねたいことがある」

 軽く指差して、参道と目印を教えた。

 凄雀と同行せずに済むことに、彩子はホッとした。

 今の凄雀は学園長代行の顔をしていない。あきらかに歓迎されていないことを、彩子は怖いと感じた。

 流れていた読経は止んでいる。悲鳴の主が、安らいでいるといいけれど。

「墓標は『輝』。無縁仏とは思えないほど、立派な墓だ。

 奇特な人間が寄贈したらしいが、どういう人間か顔を見てみたいものだな」

 声のない嘲笑を残し、凄雀は雨の中へ踏み出した。

 向かう正面には四面の板扉が並ぶ、広い本堂がある。左に迂回する石畳の先では、住居が雨に煙っていた。

 濃紫のダーク・スーツが肩口から見る間に濡れる。

 騎道は凄雀の厳しさをしばらく見送り、彩子は振り返った。

「行きましょう」

 が、彩子は、騎道の肩越しに目を見張った。

 閉ざされていた本堂の引き戸が、するりと滑り黒々とした口を開けていた。薄明の中に、戸を握り締める手と指先の震えが、抜けるように白くぼんやりと浮かんだ。

「……お待ちなさい……」

 凄雀と騎道は、雨の中、本堂を振り仰いだ。

 苦痛を堪えるように細く息を吐きながら、若い女が半身を現した。とろりとした光沢のある緋色のワンピース。

 踏み出した足はストッキングが裂け、立っているのが不思議なほど震えている。

 板戸にもたれ、かすかにうつむいた。

 降り乱れた黒髪が蒼白な頬を覆う。その下で、ゆるゆると持ち上げた左腕に巻き付く細い帯を、くわえ解いた。

 赤い戒めの跡が、彩子の眼に焼き付いた。

 悲鳴の主は彼女だ。

「こんな姿で会うのは……本意ではないが……。

 これも神仏の導きの一つ、のよう……」

 薄い、諦めに似た笑みを、彼女は漏らす。

 女の背後に、暖かい黄色の灯明が現れた。背の高い灯台を板敷きに据え、長身の男は女の肩に手をそえた。

「よい……。淕峨りくが。明りを前へ。彼等の顔が見たい……」

 彼女を気にかけながら、男は明りを押し出した。

 女の表情も、はっきりと浮かび上がる。

 騎道の横顔が息を飲む。その口元に言葉を浮かべた。

 凄雀は、雨の中で身動ぎ一つない。

「あの人に近付くことは、私が許しません……」

 女は自分自身に呟きながら、男の手を払い一歩前へ踏み出した。

 素早く手櫛で髪を整え、できる限りの身繕いをする男は、やや年長に見えるのに恋人というよりは従者。無表情に控える男を従える女は、さながら高貴なる姫君のよう。

 生来備わった威厳は、彼女の肉体の疲労を捻じ伏せ、ゆったりとした微笑を添えさせた。

「お二人とも、お待ち申し上げておりました」

 ぴくりと、騎道の傘が揺れる。

 彩子は、騎道のそばに駆け寄った。彼に、言わなければならない。彼女が誰であるのかを。

「私は存じております。

 あなた方が本当はどんな方か、どう生きてきたのか。あなた方が大切にしている女神のことも。

 久瀬光輝が教えてくれましたわ」

 ……どういうこと……? あなた……方……?

 彩子の傍らで、騎道は微かに首を振った。

 女は挑み掛かる微笑を浮かべた。静かに生気がみなぎりはじめ、本堂を降り近付いてくる。

「クリオンという名の男は、ここにはおりません。

 あの人は久瀬光輝として眠っているのです。

 あなた方とはもう無縁。どうぞ、お引き取りください」

「……藤井さん。あなたが、マリア、ですか?」

 呆然としていた騎道が尋ねる。

 驚くのは、彩子の方だった。

 藤井……。そう……。そうだった……。見覚えがある。

 彼女は藤井香瑠の姉。藤井家の長女。

 今年21歳になる、藤井沙織だ。


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