(二)
「結果を楽しみにしてたのに、記事に出来ないような負け方をしてくれたわね、三橋君」
「…………」
三橋の肩に、ドッと疲労がのしかかる。
電話は飛鷹彩子という女性からだと取り次がれた。だから、しぶしぶ公衆電話に駆けつけたのに。
「何をお考えですか? 悔しいんですか?
学内紙デイリー・フォーカスの編集責任者青木園子ですが、積年のライバルに惨敗した、今のお気持ちを聞かせて下さい」
「うるさいよ、青木。インタビューを受けるなんて誰が言った? 彩子の名前をかたってくれて……、切るぜ」
スポーツタオルで汗を拭う。冷や汗のじっとりとした感触がいつまでも拭えないと、わかってはいたが。
背後を、どやどやと他校の選手と役員たちが行き過ぎる。三橋に同行した部長や顧問教師たちも、引き上げの手続きを終了している頃だ。
一種独特の緊迫感を秘めた試合会場。プレスもTVカメラもうろついて、選手同志の牽制する視線も飛び交う。
こんな雰囲気が、三橋には逆に心地良かった。
他人の高揚感を取り込んで、ますますノッてゆくタイプ。
なのに、この様だ……。
「ふられたんでしょう、彩子に。
一人だけで、苦悩しないでね。君だけじゃないもの。
あの秋津会長だって、あっさりふられたのよ」
秋津……。
三橋には朗報にはならない。最初から、秋津静磨は敵ではないと見ていた。彩子は男に頼るタイプじゃない。秋津は女を頼らせるタイプ。どんなに似合いでも、恋人としてはなりたたない。どちらかが、その役割を変えなければ。
ならば?
三橋は自分に問い掛ける。もう何度も繰り返したことだが。自分は何ができる? 彩子の何になれて、どんな場所に立てる? 立つ資格をもっている?
……俺は一体、あいつに何をしてきたんだ……?
「この点では、騎道君はまともよね。彩子にとっては無害っていうのかな。
君達と違って、ふられた弱みに付け入ったりしないもの」
付け入る……。カチンときた。
「その騎道は、何をやってるんだ? 彩子をまた、くだらない事件に巻き込んでいるんじゃないのか?」
「その件に関しては、何も言えないな。実際に何がおきてるのか、全然知らないんだもの。
でも騎道君なら、あたし信じられるわよ」
「根拠はないぜ! 現に、騎道はバカな真似をして大怪我だ。佐倉は誘拐されたし、首謀者の三人が死んでる」
どいつもこいつも、騎道、騎道、騎道騎道……!
秋津も騎道を警戒していた。その上、物騒な事件が騎道の回りで相次ぎ、騎道は危ないものに好かれる体質らしい。
そんなアブナイ奴を擁護するために、駿河が事後説明報告に三橋の元へ来た。さりげなく、彩子は関わっちゃいないと断りにきたつもりだったらしい。おとなしくうなずいて帰したが、駿河だってうまくいったと思っていないはずだ。
それだけじゃない。
騎道が現れてから、学園の雰囲気が変わった。これには、草野球にひっぱりだした三橋自身の画策のせいもあるが、思惑以上のところで彼は静かに人気を集めている。
秋津が騎道に脅威を感じるのは、そんなところかもしれない。自分が苦労して手に入れたものを、騎道は労せずにして得てしまう。本物の人望者であるということに。
三橋は驚いて、目まぐるしく駆け回る思考を止めた。
行き着く先に、血走った、異様な感情があった。そんなものに背中を突かれて我をなくした。ガキみたいに、そのまま彩子にぶつけようとした。
何を焦ってるんだ……、俺は。
「けど、騎道君は生きてる。帰ってきたわ。
男の友情もはかないものね。これで楽しいお友達関係も終わりかな?」
園子の言葉は、予言じみている。
「彩子ね。今日の放課後、騎道君とデートなの。行き先は言えないけど」
切れなかった回線が、容赦ない。
「どう? これで少しは頭が冷えた? それとも、やっと目が覚め……」
「甘く見るなよ、青木。
俺は、彩子をくだらないことに巻き込む奴は許さない。
もう二度と、あの春みたいなことは起こさせない。
お前だって見ただろう!? 二学期に登校してきた彩子の顔を。まるっきり、別の人間だったぜ!」
稜学での入学試験合格発表の日、初めて彩子に会った。
すでに推薦入学を決めていたが、三橋は新しい『仲間』を見てみたかった。漠然とした好奇心で、その場に来た。
悲喜こもごもの学生たちを眺める三橋の視界の中で、彩子は大喜びしていた。傍らの目つきの鋭い美形に何か言われ、ムッと目を怒らせ、すぐに得意げに笑っていた。
声をかけた三橋へ、警戒するキツイ目をした。険悪な気配を三橋に向けた美形、駿河秀一との間に入り、一言下で制した気の強さ。くるくると変化する表情も態度も、生き生きとしていて、三橋は目を離せずにいた。
あれが、悲劇が起こる前の彩子。
「……君に言われなくても、よくわかってるわよ。生きて、学園に戻ってこれた事の方が奇跡だったんだもの。
だからって、あの彩子を誰が押さえつけておけるのよ!?
……あの子、野生児みたいなところがあるんだから……」
口ごもった彩子。
自分に言い聞かせるように、三橋は吐き出した。
「俺は、彩子を傷つける人間は誰だろうと許さない。
……俺の気持ちは変わっちゃいない……!」
園子はもう言い返してはこなかった。三橋を信頼したせいでなく、彼の感情だけを認めたのだ。
言葉の激しさと裏腹に、体の力は抜けていった。
馬鹿なことをした……。
三橋翔にしては珍しく、後悔していた。
好きな女にあそこまで言わせて、自分は一言も聞いてももらえずに。この一年近く、中途半端な態度で彩子を混乱させていただけってことじゃないのか……?
秋津が言った通り。越えられないボーダー・ラインが、今度ははっきり見える。
手をかけて、引きちぎってくれるなと、彩子は言った。
振り返って壁にもたれると、目の前に、拝みたくない野郎の姿があった。
「なーるほど。そういう裏があったのか。その御大層な決意ついでに、こっちにも約束してもらおうか?」
険悪な視線で、こちらも納得できていないのか、汗臭いウェアー姿のままだ。ケッ。三橋が嫌な顔で吐き捨てると、奴は受話器をもぎ取った。
「確認したいんだが。こいつは女にフラレて陥没してるのかい?」
「あ・ら。その声は都坂高校の仰木さんですね?
ほぼ優勝決定、おめでとうございます。稜学の学内紙編集者の青木です。お知りおきいただければ光栄です」
「勿論。質問に答えてもらえたら、忘れないよ」
都坂高校仰木匡通。怒りに燃えていても紳士的な態度を保つ、ジュニア・テニス界の貴公子の一人だ。少年期のエドバーグを思わせる繊細なルックスと実力で、人気の方もトップクラスの二年生。三橋に言わせれば『歩くブランド・マネキン』……。今日は全身、レノマで鎧っている。
「ご推察通りです。ベストコンディションでお相手できずに、三橋に代わって謝罪いたします」
一番、知られたくない相手だ。三橋はあらぬところに視線を投げ、やりとりを無視した。
「女にフラレてふぬけになった男と、マジで試合をしてたとはな。……いつか盛り返してくるんじゃないかと、全力でプレイしたのは無駄だったわけだ。
腸が煮えくり返って、怒鳴る気力も失せるぜ」
「仰木さん。試合内容が不服で、明日からの試合を棄権なさるという話しを小耳に挟んだんですが、事実ですか?」
青木園子の地獄耳に、仰木は虚を突かれた。実際は伝え聞いたのではなく、仰木のプライドの高さと結果と仮定を推理した上での園子の勘。図星だった。
「いや。こいつには俺と試合をする資格は最初からなかった。俺が大差で勝ったのは当然のことだ。続行する」
キザってんじゃねーよっっ……。
もう一度、ケッと息を吐いたが溜め息にしか聞こえない。
「そんなに込み入った事情があるなら、一言言ってくれれば、その彼女にとりなしてやったんだが」
「トリナス!? やってみろ。断っとくがな、あいつはオメーの取り巻きみたくに、ツラで釣れる女じゃねーんだよ!
これだから、世間の狭い野郎は人害なんだよっ!」
「あらあら、二人とも。熱い友情はコートの中だけじゃありませんのね、オホホホホッ」
……アオキー……っ。脱力してうめく三橋。
長距離電話で乱入しながらも、園子が一番強かった。
……なんなんだ、この女は……。うろたえを押し隠し、仰木は背後の後輩に声をかけ、一通の封筒を受け取った。
受話器とともに、それを押し付けられた三橋は、印刷された『コカ・コーラ ジュニア・リーグ』の文字に中身を悟る。世界テニス連盟からAランクに指定された国際レベルの試合に、仰木も選手登録されていた。これは三橋が、騎道に渡した特別観覧席の招待券と同じものだ。
「負ける試合はしないのが、お前のルールだったはずだな。
勝ってここに、その女を連れてこい。
でなければ、お前との試合は拒否する。……無論、お前がそこまで勝ち進むことができたらの話しだ」
これ以上、園子の茶々が入らないうちに、仰木は捨て台詞を残し立ち去った。
「お、おめーにまで、釘を刺されたねーよっ!」
後ろ姿に丸めたスポーツタオルを思いっきり投げ付け、三橋は目を閉じた。……悪かったよ……、本気で相手してやんないで……、そっちだってスネてるじゃん……。
負ける試合はしない……。三橋は自分を噛み締めた。
「ね、三橋君。そっち、晴れてる?」
「……ご機嫌な晴天だ……。降ってるんだろ、そっちは」
今から出ると、夜には街につけるが……。
「そうなのよ。こんな土砂降りの夕方にお墓参りだなんて、あの二人、どういう神経してんのかしらね。
慈円寺って御鷹姫の幽霊の噂があるじゃない? 久瀬光輝の墓があるからって、何も今日じゃなくても……」
青木っ……! 騙したな……!!
口には出さず、三橋は体を起こし公衆電話に受話器を戻した。
ご機嫌な晴天には別れを告げる。雨も嵐も、彩子の涙よりははるかにマシだ。