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2/11

(一)

 天気予報は今夜の曇天を的中させた。寒冷前線が秋の長雨を明け方にはもたらすという予測も当たるのだろう。

 路上をなぶる冷えた風は、その先触れか。

 騎道は本を閉じ、デニムのジャケットとともに電柱の影に押し込んだ。卵色のハイネックとジーンズ。黒縁眼鏡を軽く指で押し上げ、道路中央に踏み出した。

 深夜の住宅街。運よく、ここを通りかかる車もない。

 彼が眺めるのは、路肩に二、三積まれる枯れかけた花束と、供えられた缶ビールの塊。少し顎を引いて、その辺り一帯に澱む、常人には見えない呪詛の渦に意識を当てる。

 風の色が変化した。

 弔いの場の先にある空き地で、伸び放題の雑草がざわざわと揺れる。行き場をなくした風が低くうなり、渦を巻く。

 流れはじめた、はっきりと呟かれる真言を厭うように。

 何度か繰り返し、騎道は胸の前でぎこちなく手印を組む。

 躊躇して、指を変え組み直す。

 静寂の中、きざしをじっと待った。

 視界一杯に広がり、今は騎道に敵意を燃やす真紅の渦が、かすかに魅惑的な肢体をよじらせる。

 薄く、安堵の笑みを騎道がうかべた瞬間。

「!」

 逃げる間もなく、印を組んだ腕で顔面を庇った。

 すさまじい風圧が凍気を伴い、彼の全身を襲う。

 はじき飛ばされ、ともかく地面に張り付き、恐る恐る顔を上げると。すでに冷気だけを残し辺りはシンとしていた。

「……さむ……」

 思わぬ反撃に呆然としていた騎道は、立ち上がり電柱の影からジャケットを取り出し羽織った。ペラペラと本のページをめくってから、ぽつんと、悔しげもなく呟いた。

「あ……。真言と印が違ってた……」

 突風がページだけを乱暴に薙いだ。鼻で笑われたような気がして、罰の悪い顔で騎道は渦を振り返った。

「……光輝の性格と似てるよな。宿り主に行動パターンが似るものなのかな……」

 今度は、答えはない。どうでもいいかと肩をすくめ、

「やっぱり、一夜漬けじゃダメか」と、漏らす。

 郷に入っては郷に従え、に従ったつもりだった。だが、何度やっても真言を読み違える、口は回らない、舌は噛む。

 うまく唱えたかと思うと、印が写真通りに組めない……。

 悪戦苦闘の中で、とうに日付は変わっていた。

 調伏すべき相手はいい加減沈黙に飽きて、反撃という最大の忠告を騎道に返した、という所か。

「密教系だと思ったんだけど……」

 さしたる根拠は何もない。ただの直感だけなのだが、諦めきれず、マニュアル本を手に渦に向かい合った。

 風が騎道の手を払った。叩き落された赤い背表紙を一瞥して、渦の中に住まう悪霊たちの嫌悪を読み取った。

 確かな修験者ならば、彼等を震え上がらせることが可能らしい。

 少なくとも自分が、最終的に敗北を得たとしても、この世界には彼等を封じる手段はあるということ。時間がかかり、犠牲は必要だろうが絶望ではないのだ。

 ならば、焦るまい。騎道はジャケットに袖を通し、真っ先に風圧から庇った黒縁の眼鏡を胸ポケットに納めた。

 肩の力を抜き、瞼を半ば伏せた。

 真紅の渦が身構え、胎動を始める。風のうなりは、ここに招き寄せられた、昇華できない魂のうめきに変わる。

 恨みや妬み。苦悶、啜り泣きが、紅く天を煽る渦の本性だ。

 伸ばした右手に、淡く白い光が凝固する。自分の心臓の真上に掌をかざし、顎を引く。

 青い炎が一条、スニーカーの足元から真っ直ぐに渦へと走る。

 瞬く間に円陣で囲むと、悪霊たちを焼き尽くす勢いで、炎の舌が這い上がる。

 騎道は一、二歩、後ろへ引いた。動きにともない、黒から金へ色を変えた髪が揺れる。

 悪意を補う数十体かの悪霊を失って、立ち昇る渦の勢いは明らかに衰えた。

 だが数分後。音を立てて、騎道の放った青い呪縛が弾け飛ぶ。この程度で、封じ切ることは不可能と承知していた。

 呪力をいくらか弱めるまでで、諦めるしかない。

 すぐにまた、別の浮遊霊を引き寄せてしまうのに……。

 耳障りな戒めの解かれる音を、騎道は苦く聞いた。

 この他に三ヶ所、同じ呪詛の渦がある。気の触れた布陣者の手によって、それぞれ四人の命によって印された陣。

 この内の一つでも、粉砕することができたなら光明は見出せる。だが、四陣が成った今、共鳴し増幅された白楼陣の一角を崩すことは容易ではない。

 渦が静寂を取り戻すと、騎道には悪態をつき続ける若い男の声が聞こえ始める。死を前にした苦しい息遣いも伝わることに、騎道は形のよい眉をひそめた。

「光輝? あなたって、そんなに往生際が悪かった?」

 ここは、久瀬光輝が殺害された現場だ。

「言える限りの罵詈雑言を並べるのは、怪我をさせられた時の光輝の口癖だったけどね。……本物の、光輝だな。

 でもここにあるのは、苦しみ痛み、つらさのマイナスの思念だけだ。核に据えられてリピートしているだけ。

 だから、本当に光輝が死んだとは思ってない。

 死んでいたら、僕のところに化けて出てくるはずだから」

 そうして、敵の名を告げるはず。光輝の気性なら。

「でも、明日。……認めにいくよ。

 彩子さんと二人で、あなたの墓地に行く。

 彼女を光輝に会わせたいんだ。きっと、驚くよ。

 ……そっくり、だから……」

 諦めの悪い雑言が遠のいた。騎道は感情を凍らせ言った。

「来ないで下さい……」

 呪詛の渦は真実の主を迎え、再び燃え盛りはじめた。

「今は、あなたとは戦いたくありません」

 赤いゆらめきの中で、暗い影が人の輪郭を見せている。

 騎道へと近付いてくる。

「嬉しいことを、言うて下さる。

 それに、やはり美しい若君におなりじゃ」

 若い女の声は、どこか余所余所しく、恨みがましさも込めた優雅さに彩られていた。

「若様はお優しいお子じゃった。いまでも変わらぬ……。

 このまま、あの日のように、わらわとお暮らしなさいませ?」

 ひやりと、指先で頬を撫でられたような感触がある。

 これが昨晩、彩子を襲い、手に入れようと望んだ存在。

 久瀬光輝と同じように殺す、と騎道に言い捨てた女だ。

「…………考えておきます」

 無表情に言い切り、騎道は踵を返しその場を後にした。

「また、嬉しい嘘をおつきじゃ……」

 影の女は、暗い喜びを微笑に忍ばせ騎道を見送った。

 刻々と、見えない渦の上空を厚い雨雲が飛びすさる。雨は、女の微笑みよりは暖かく、街に降るだろう。



「今日?」

 軽く目を見張って、彩子は聞き返した。

 急な話し。昨日はそんな素振りもみせなかったのに。

 といっても、学園復帰二日目は彩子が渡したノートを一週間分写す作業に追われて、ろくに話しもできなかったが。

「ええ。時間は5時くらいになるんですが」

 軽く、三本の長筒を持ち直して、騎道はうなずいた。

 おとぼけナイト……。やや非常識な時間帯だってことは、まるで頭にないらしい。その上、窓の外は雨。明け方からの雨は、今夜一杯降り続く予報だった。

「いいわよ。慈円寺なら、ひいお婆ちゃんのお墓があるから、場所は知ってるわ。連れていってあげる」

「あそこは、彩子さんの家の菩提寺なんですか?」

 何気ない問い掛けに、彩子は頬を堅くした。騎道は、バランスの取りにくい長筒を肩に担ぎ直している。

「そうじゃないの。ひいお婆ちゃんだけ。

 長くなるから、理由は詮索しないでね」

 騎道が運ぶのは、生物の授業に使う掛け軸状の図判で、用意する当番は彩子だった。当然、依頼されなくとも、女性の手に余る重量の品はナイトが引き受ける。彩子にとっては、三橋の代理という感じで自然な成り行きだった。

 いつの間にか、三橋が彩子にまとわりつくのは当たり前のことになり、三橋とセットの騎道も当然そばにいる。クラスメート以上で、友達以内。こんな関わりは、顔ぶれは違うが中学時代に似ていて、居心地は悪くなかった。

 ふーん。と、騎道は説明におとなしく納得した。

「私も会ってみたかったの。久瀬光輝に」

 騎道は生物室へ向かう歩調を緩め、嬉しそうな笑みを彩子に向けた。

「なぁにぃ。お寺でデートなんて、騎道君らしいわねーっ」

「青木さん……。らしいって……、どういう意味かわかりませんが……」

 肩に担いだ掛け軸に背後からぶら下がられ、騎道はよろめいた。鬼の首をとった態度で、青木園子は浮かれている。

 正確には、スクープの提供者にたかっている図だ。

「オトモダチのいない間に抜け駆けなんて、らしくないぞっ?」

「ち、違いますっっ!」

 ぷよぷよと頬など突かれながら、騎道は全面否定する。

「あ、そ。なら、忘れないでね? 今日の放課後。

 君が入院なんかしてくれたおかげで、スケジュールが押してるの。こっちはダイメイワクよぉ」

「あ……。忘れてた。

 あのっ、打ち合わせくらいなら、一時間で終わりますよねっ? お願いしますっっ」

 豹変して平伏する騎道に、彩子は白い目を向けた。

「しかたない。人の恋路を邪魔しちゃいけないものね」

「そっ、そーじゃありませんって!」

 必死に首を振ったって、青木に聞く耳などない。

「彩子さん。あの近くに喫茶店があるんですよ。そこで、待っていて下さい。5時までには必ず、行きますから」

 一人逃げ出す騎道に、ひらひらと園子は手を振った。

「……園子。かわいさ余ってイジメ倒したわね?」

「そーなのよっ。ここんとこ、騎道君絡みのネタがないでしょ? ストレス溜まっちゃって」

「だったら、あたしをダシに使わないでよっ!

 第一、デートのわけがないじゃない」

「うーん。あの慌てぶりだと、下心アリって感じだぞ。

 彩子っ、オメデトっ」

 ポンポンと肩を叩く手。払い除けて彩子は言い返す。

「知ってるでしょ、騎道には女神様がいること」

 あの堅物が、間違っても浮気心を起こすはずはない。完全に彼女を崇拝しているんだから、愚問というやつだ。

「大体、打ち合わせって、二人で何を企んでるのよ?」

 廊下に、得意げな園子の高笑いが広がった。

「二人じゃないのよ。駿河君も一枚噛んでるの。駿河君、かなり楽しみにしてるんだから。

 でも、彩子にはナイショ。妬ける?」

「……好きに料理して」

 浮かれすぎの減らず口の親友は、かなり付き合い疲れる。

 よほど園子にとっては『楽しい』企画なのだ。半ば脅されていた騎道には……、言わずもがなにお先が知れる。

「ふふん。ラッキー。学園祭実行委員の御墨付きね。

 で? 彩子の方の王子様(プリンス)か、騎士殿(ナイト)は現れたの?」

 これも最大の愚問。彩子はだんまりで先を急いだ。

 そろそろ休み時間も終わる。

 というのに、園子は彩子の腕を引いて引き止めた。

「昨日ね、直々に聞かれたの。秋津静磨会長に。

 彩子に、今付き合ってる相手がいるのかどうか」

 彩子だけでなく、園子の顔にも緊張が生まれた。

「あの人、知ってるみたいね。賀嶋君と切れたこと。

 で、ますます、本気になった、かな。

 今までも、彩子には特別優しかったけどね?」

 二人は視線を合わせた。瞳の色は真剣。ほんとに、友達というのは悪友でも、自分の一部みたいだ。

「……知ってる。直接、言われた」

 悩ましく、園子は額を押さえた。

「残念っ。親友が絡んでちゃ、また記事にできないわ。

 どうするの? 一応確認するとはごまかしたけど。

 あたしもね。どうなってるのか、確信がもてなかったし」

「……かわりないよ」

「あの日のままね?」

「うん……」

 問い詰めるわけでない視線に、彩子は内心ホッとする。

 うつむく彩子の頬を、園子はぺたぺたと叩いた。

「もう暫くは見逃してあげるけど。早く忘れないと、あたし本気で怒るわよ。

 堪忍袋が切れたら、真っ先にうちのD・Fに載せるから」

「……。感謝は、しないからね」

 上目遣いだが、弱々しくならない程度に彩子は言った。

「この程度で、彩子に貸しを作る気ないわ」

 肩をすくめる園子は、最初の用件を思い出した。

「それと、三橋君から電話が入ってるわよ。

 この際だから、そっちにも引導を渡してあげたら?」

 さりげなく釘を刺した最後の言葉は、彩子の耳には入らなかったらしい。

「三橋って……、会場から? それを先に言いなさいよ!」



 電話は職員玄関前の来客受付に回っていた。息を切らして着いた頃には、3限目のチャイムは鳴り終えていた。

「悪い……、聞きたいことがあってさ」

 受話器の向こうで、三橋がへらっと笑う。長距離電話のせいか、別人のような沈んだ声に聞こえる。

「……そんなの、戻ってからにしなさいよ。今日も試合じゃなかったの?」

 中間テストが終わった翌日。つまり昨日から、テニスの全国大会のために三橋は公欠を取った。すでに二試合勝ち進み、学園内の期待は次の対戦に集まっている。

 トーナメント方式であるがための運命の悪戯。今日の試合は、優勝候補同士の事実上の決勝戦になる予定だ。

「あ……、試合、午後からだから……」

 歯切れが悪い。試合前なら無理もないが。

 言葉が途切れた。三橋の背後に漂う雑然とした騒音。

 彩子はふいに、二日前の夕方と同じだと、気付いた。

 あの時、三橋の肩にもたれ騎道は眠っていた。目を覚まして、意味のある沈黙を破ってくれないかと、彩子はじりじりしていた。三橋が、秋津に言ったのと同じ言葉を、口にしてしまわないうちにと、祈っていた。

「今日の相手は強いらしいけど、三橋なら楽勝よね」

 彩子は軽い口調で打ち消した。気のせいか、息を飲む気配が受話器から漏れる。

「……賀嶋と切れたって本当か?」

 彩子の頭の中が真っ白になる。

 ……電話だから、言えるの…………?

「本当よ」

 震えそうな声は、長距離電話が誤魔化してくれた。

「……俺、全然気付かなかったぜ」

 三橋はおどけた調子で、自分自身を笑ってる。

 見慣れた屈託のない笑顔が、彩子の頭の中を通り過ぎる。

 ほんとうは違う顔をしてるって、見えなくてもわかる。

「言い触らすようなことじゃないし。みんなも、そう思ってるんじゃないのかな。もう随分、会ってもいないし声も聞いてないの。章浩には悪いけど、顔も忘れそうだもの」

「彩子……」

「あたし、平気よ。今まで楽しかったし、章浩には命を助けてもらったもの。これ以上、

重荷にならずにすんでホッとしてるくらい」

 頭に血が昇ってきた。座り込んでしまいたい。

 なのに、三橋の声は耳に食い込んでくる。

「俺が聞きたいのはそんなことじゃない……。俺は……」

 彩子は頭を振った。

「聞きたくない……」

「……今。何って言ったんだ?」

 呆然とした言葉は、聞き取れないほど遠かった。

 彩子は受話器を握り直した。

「三橋に、断っておきたかったの……。

 もう誰も、私、好きにならないから。これ以上何も言わないで。あたし、三橋に何もしてあげられないから」

 サヨナラ……。恋人気取りのナイト。





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