(九)
夜の10時過ぎ。電話のベルを鳴らすのは、こんな時間でも彩子が一人だと、よく承知している人間だけだ。
彩子はゆっくりと階段を降りて、階段下、和室の居間に面した廊下に据えた受話器を取った。
「どう? 騎道君とのデートのご感想は?」
「まだ言ってるの? そんなんじゃなかったわよ」
壁にもたれて、そのままぺたりと廊下に座り込んだ。
園子とは、いつも長電話になる。今は、話し込みたい気分だった。自分で掛ける気には、なれなかったのだが。
「ねぇ。黙りこくらないでよ。何かあったんでしょ」
意味もなく、彩子は笑ってしまった。
「……好きだって、言われちゃった」
「おやま。騎道君も大胆ね。
それで。NOって突っ撥ねたんでしょ?」
園子は容赦なく、カラッと言い放ってくれる。それが、彩子の気分を軽くさせた。
「ねぇ、園子。三橋が今日負けたの、あたしのせいかな?
言ったの、あの電話で。もう、やめてって……」
「さあね。どうかな……。本人に明日聞いたら?」
「……できないよ。そんなこと……。
それしか考えられないのに」
「あーら。意外と自惚れてるのね。
そうとは、いえないんじゃない?
彩子がフッた。三橋君はショックを受けた。
それが、テニスの試合にどう関わるの? その程度の男じゃないわよ、三橋翔は。
彩子一人に左右されるほど、やわじゃない。
ああなるきっかけを与えた、可能性はあるけどね。
すきな子にフラれるのって、インパクト強いはずだから」
彩子は背筋を伸ばして、座り直した。
「……三橋に、はじめから動揺する気持ちがあった、ってこと?」
「と、あたしは思う。でなきゃ、彩子はずっと負い目を感じてなくちゃならないよ?
気を強く持ちなさいよ。らしくないわね。
あいつがそんなに弱い男? 考えれば簡単にわかるじゃない?」
彩子は間に受けて考えこんでいるが、園子の発言はいくつかの状況と情報を寄せ集めて考えた上のものだった。
ただ、園子は昼間の電話で、三橋の中にある彼本人も気付くことのできなかった焦りを嗅ぎ取った。その焦りと、日を追うごとに確実視されている留学の噂は、かなり相性のいい憶測に思えたのだ。
「ん……。そうだった。あの程度で、めためたに崩れるはずがない。あれは、三橋本人の責任よ。
あたしは、ちょっと背中を押しただけ。
やっぱり明日、慰めてやるわ」
「あーっ。らしくないらしくないっ。
イイ男を一度に三人もフッて、後悔してるの?」
考え込んでから、彩子はこくりとうなずいた。
「……うん」
「何よ。後悔してるなら、自分の気持ちを素直に認めなさい」
「そうじゃないよ。ただ、ちょっとね……」
剣を含んだ園子の声に、彩子はあわてて言い継いだ。
「みんな……、変わっていくんだな、と実感したから」
更に園子の発言は冷たさを増した。
「ずーっと、オトモダチのままだと思ってたんだ、彩子は。
そういうところは甘いのよね。賀島君が甘やかしてたものだから、現実を知らないのよ。あー、イヤ。
アンタ、キスもしてなかったでしょっ?」
「……。ウルサイわねっ」
……しまった。こんな反撃の仕方では、ハイ、ソウデスと言ったようなものだ……。
「あのね、騎道君は一人の男なの。本人はあの通り、男女関係には無頓着で中性的な印象が強いけどね」
叱責でも嘲笑でもなく、彩子は諭されてしまった。
「やっぱり。まだ、彩子には騎道君のよさが見えてないんだ。あんないい男をふれるなんて」
「……わかってるわよ。園子の言う通り、騎道は光ってる。
だからって、特別なままで付き合うのって嫌だな。そんなの不自然でよくないよ」
「かなわないね。彩子のそんなところは。
どんな人間でも、彩子にかかると『同じ人間』になっちゃうのよね。大したものよ」
褒めけなされて、彩子はぷっと頬を膨らませた。
「……呆れていいわよ」
「とっくに呆れてるわよ。でも半分、尊敬してるの。
あたしには真似できないし、そういうのって、本当は大事なことだから。
ね、秋津統磨のことはどう思ってるの?」
園子の謎掛けを警戒しながらも、正直な気持ちを言った。
「かわいそうな人だったと思う。あの人でも、本心から守りたかったものはあったみたいだし」
「ほらね。騎道君や千秋があんなひどい目に合わされてるのに、あいつに同情するんだ」
「…………。でも……」
言い訳など聞いてはくれない。園子は話題を変えた。
「あのね。志垣さんの婚約者だった人。来年、結婚するんですって。これは確かな情報。彩子もこれくらい気変わりが早くなきゃ。重荷に感じてることなんてないよ」
「うん……。……ありがと……」
ぎこちなく、彩子はつぶやいた。
「例の、春休みの事件ね。聞かれたから騎道君に話したわよ。何が起きたか、というところまで。彩子があたしにも言えなかったことは、伏せてある。だから、全部バレたら嘘つきって恨まれる気がするけどね。
話してるうちに、彼の目が変わったの。真剣でね、スチール写真にしておきたいくらい男っぽかったな」
惚れ惚れ、というふうに、園子はしばらく黙った。
「自分の口で言いなさいよ。彼なら、聞いても変わらないでいてくれるから。
そうしたら、きっとスッキリするんじゃないの?」
女友達が恨めしくなる。言えなかったこと、言ってないことなのに、むこうはなぜか感じ取っていた。
どこまで知ってるつもりなのか? 問い詰めたくなるけれど。本当の気持ちなんて誰にもわかるはずがないと、彩子は深く想いを閉じ込め直した。
切れた受話器を戻して、ちょっと冷えた腕をさすった。
思った通り。誰かの声を聞いても、薄い膜で覆われたような息苦しさは消えない。規則正しい時計の音がひどく大きく聞こえる。今夜は眠れそうにない。嫌な夢を見そうで、彩子は立ち上がる気にもなれなかった。
ただ黙って、彩子は目の前の光景を眺めていた。
二日前の昼間、騎道と向かい合った中庭の小道。まるで思い出せなかった、気を失ってしまう前の出来事を、彩子は映画のスクリーンを見るように辿っていた。
襲いかかる炎の触手。戦いを挑み、身構える騎道。
錯乱に落ちようか、正気に止まろうか。狭間で均衡をたもとうとしていた、彩子自身。
瞬きと同時に、情景は変わった。
同じ日の夜の自宅前。炎を出現させる操る打掛けの女は、傍観者である彩子にも恐怖を感じさせた。対峙する少年は、昼間の騎道同様、絶対の安心を与える象徴だった。
『お前……。お前を、知っているよ……!
あの男と同じように殺してやる……!』
女の呪いの言葉が、立ちすくむ彩子を打ちのめした。
いやだ……。そんなことは、させないから……!
再び、辺りは変化した。
白い、乳白色一色の世界に、彩子は一人残された。
足元を確かめて、カツリと踵を踏み締めた。なぜか、パジャマではなく、稜学の制服を彩子は着ていた。
気配に顔を上げると、やや強い輝きを見せる一角に子供が居た。泣きじゃくっているので、彩子はそっと近付いた。
「光輝……どこに行ったの。一人じゃ帰れないよぉ」
そんなことを、口の中でもごもごと呟いている。
金色の肩に触れる長さの髪。それだけなら、天使に思えるほど豪華な美しさなのに、彼が身につけているのは、これもまた贅沢な織りの小袖と袴。時代劇に出てくるような若君姿だった。
「! ……おねえさん、僕が見えるの?」
「ええ、見えるわよ。きれいな金髪ね」
「たいへんだ! 光輝に叱られる……」
10歳くらいにしか見えない少年は、大袈裟に目を見開いて彩子はうかがった。
「大丈夫よ。誰にも言わないから、叱られたりしないわ」
視線を低くしてにっこり笑う彩子に、少年ははにかみながら微笑み返した。どこかで見たような気にする、青く明るい色の瞳に、彩子は見惚れた。
「おねえさん、優しいね。こう姫みたいだ。
それに、少し子供だけど、お姉さんはこう姫にそっくり。僕、こう姫のことがずっと心配だったんだ。会いにいかなくちゃって思ってた。……忘れちゃったけど。
おねえさんを見たら、思い出したよ」
「こう…姫って?」
「! おねえさん、足が痛いの?」
困惑する彩子。構わずに少年はしゃがみこみ、彩子の足首をしげしげと見つめた。
「……。こう姫とおんなじだ。これは光輝でも治せなかったんだ。ごめんね」
「いいの……」
足……。痛くはないのに、ずっと以前は痛みがここに長く止まっていたような気に、彩子はなっていた。
「おねえさん、きれいだよ」
「え? あ…ありがと」
「きれいな髪だから、好きでいてね。こう姫みたいに、嫌いにならないでね」
髪にこだわる少年だった。なにげなく彩子は自分の髪を一束つまんで、それが金色の光沢を放つことに驚いた。
「これ……」
「ぼくと同じでしょ? だから怖がらないで」
真剣で必死なまでに繰り返した。はっと振り返って、彼は背後に忽然と現れた少年に手招きされるまま駆け出した。
黒い服の少年。どこかなまめかしい白い肌、細い金髪、長い睫を伏せて瞳の色を彼は隠している。
袴の少年を背後に隠し、彼は首をうなだれたまま彩子に目を向けようとはしなかった。
「騎道……なの?」
「……ごめん」
「謝らなくていいから、ちゃんと説明してよ。
その子は何なの?」
「こんなところでは、あんまりしゃべれないよ。
僕には不利だ。……ここは僕の夢の力場だから」
「……なら、さっきのあれは私の夢ね?」
炎に襲われたという現実。記憶の底に隠されていたものを、夢は彩子に返してくれたのだ。
「おねえさん、怖がらないで。きれいだよ。似合ってるよ、その髪」
騎道はやんわりと、内気そうに顔だけ突き出す少年をたしなめた。
「……あ、ありがと。好きよ、あたしも」
袴の少年は、にーっこりと満足そうに微笑んだ。
「夢の中の君を、引き込んだんだ。すぐに帰すから」
「いいの。それより、その子……?」
騎道の黒い服を握って、少年は体を揺すっている。
「光輝が居ないんだよぉ。一人じゃ帰れない。ねぇ、光輝を探してよ……」
「……だめ。泣いてたって、光輝は帰ってこないんだ」
彩子に背を向けて、黒い服の少年はしゃがみこんだ。
「もう一人で帰れるようになったんだよ。一人で、なんだってできる」
「……じゃあ、どうしてここに来たの?」
子供を抱き締める黒い背中が、すっと色をなくしてゆく。
「会いにきたんだ。……こう姫を、探しにいこう」
納得がいって、くつくつと笑いながら騎道にしがみついた両手。それもみんな、乳白色の中に溶けていってしまう。
彩子は目を閉じた。
残されたけれど、寂しくはないから。
「ねえ? さっきの夢、覚えていてもいいんでしょう?
私、怖いけど、大丈夫だから」
答えは、音を立てて訪れた。
悪意をもった炎の息吹が、彩子を掠めた。
目を開けると、足元の床で丸く炎が渦を巻いている。
熱い。ちろちろとした火炎は、彩子の脚力なら、助走なしで飛び越せそうだが。
……試されているのに、彩子は動けなかった。
さあ、どうだと、誘うように炎は弱々しく振舞う。彩子が一瞬でも闘志を見せたなら、それを永久に打ち砕くために襲い掛かろうと、身構え待っているはずなのに。
「……大丈夫……。怖いけど、大丈夫だから」
呟きと同時に、炎が揺らぎ鎌首をもたげた。
飛び出した先に、もう一つの炎。深蒼の炎が真紅を受け止め弾き返す。敵対する本性をむき出しにして、二本の炎の腕は、お互いを凌駕しようとしながら絡み合う。
螺旋を造る、相反する二条の輝きを眺めながら、彩子は再び目を閉じた。
これは夢ではなく、現実なのだ。
敵も味方も、彩子の側にあると告げる、真実の囁き。
それは誰かの優しい声に似ていて、彩子は微笑んでいた。
『SPIRAL BORDER 完』




