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愛と復讐のワルツ



 地元の駅前から東へ進むバスに乗り、計二十五か所の停留所を経由した。


 距離にして十七キロ。山地のなだらかな斜面にそって建てられた古民家が整然と並ぶその光景に、ひとつの特異点が見え始めた。莫大な建設費が掛けられていることが一目で判断できる、五十坪程度の庭が備え付けられた豪邸。外観はその他の民家と大差ないが、如何せん規模が段違いだ。周囲の建物に比べ、二回りかそれ以上の大きさがある。瓦屋根が陽の光をきつく照らし返し、得も言えぬ荘厳な気配を漂わせる。表札はない。玄関入口は、二メートルほどの黒色の鉄柵によって阻まれている。


 ……佐久間雄吾(刈上げでサングラスを掛けたスーツの男、五十歳、八月二日生まれのA型)と和田斎(禿頭で筋肉質な高身長の男、四十七歳、五月二十五日生まれのO型)が現在、この建物にいる。


 佐久間は暴力団組織の現組長、和田斎は地元の警官だ。佐久間と和田は、一族同士で関係があるようで、それは明治時代にまで遡るらしい。ここ一帯の地主であった佐久間家のお抱え警護隊が和田家だ。当時の癒着した関係が現代でも継続されていて、佐久間雄吾がひょんなことから起こしたいくつもの犯罪を和田斎は隠蔽し、果てには嬉々として協力している。——深音のときのように。


「……っ」


 僕は冷静でいるつもりだった。けれど、そう上手くいくものじゃない。


 状況がそうさせるのか、あるは神力を酷使してきた影響か、深音の遺体から汲み取った記憶が際限なく暴れ、制御が効かなくなりつつある。憎悪と怨念と殺意……重たく絡みつく負の感情が血中に混ざり、全身を侵食していく錯覚。僕が僕でなくなるような、そういう衝動に飲み込まれそうになる。


 そこに、流れ込む氷冷。


 深音が僕の右手を、しっかりと握っている。


「顔、怖いよ?」


 お道化た笑顔に、僕は堪らず相好を崩した。


「そりゃあ、ね」


 僕が怒りを露わにする理由が分からないなんて、そんなはずはない。彼女は平静でなくなってしまいそうな僕を、〝いつも通り〟に引き戻してくれたのだ。


「怒ってくれるのも嬉しいし、私の代わりに殺してくれるのも嬉しいけど。……これまでと同じように過ごそう? 今日だって、デートのつもりで」


 デート。デートか。


「……そうだね」


 僕は応える。


 その言葉をこの場で訊くのは、実に可笑しな感覚だった。紅葉と共に桜が舞い散っているような感じだ。そぐわない訳じゃない。ただそれは、子供同士が同じ景色を見て、同じことを感じ取った上で、取るに足らないすれ違いと誤謬に触れたような、微笑ましさと温かさを携えた感覚だった。


 今日まで僕らは、どのような場所でも、どのような状況にあっても、デートと呼んで差し支えない時間を過ごしてきた。それは殺人を始める前も、殺人の小旅行の道中も、昨日と一昨日も同じだ。そこには確かな喜びがあって、指先が痺れるような多幸感に溢れていた。たとえそれが常軌を逸した故の結果だとしても、僕らが楽しくて幸せだったから、他人や世間や道徳や倫理が用いる尺度なんてものは、きっと意味がない。世界は観測者の視点によって変容する。僕が見て、僕が観測しているこの世界は、彼女を中心に回る。……そして今日までの七日間で、世界の中心は『彼女』から『僕と彼女』に変わった。烏滸がましいとか自惚れているとか、そういう言葉を誰かが掛けてくるかもしれない。決してそれは間違いじゃない。これまでの人生で、自分自身を世界の中心として捉えられなかったのは、まさしく僕自身だから。




 人生の軸を——世界の中心を失うというのは、途方もない絶望だ。その質量を持った絶望は、経験した人にしか分からない。落ちてきた空に圧し潰されるような、漂う空気に絞殺されるような、鮮烈で途轍もない感覚。僕はそれを一度経験した。


 けれど。

 いや、だからこそ。


 僕は、幸福にも同様に質量があるのだと、思い知った。


 絶望に比べれば、取るに足らないほど軽く、軟弱だ。触れれば壊れてしまいそうなほど、蒲公英の綿毛みたいに柔らかい。だからそれを抱きしめ続けるのは難しい。誰にでもできることじゃない。包み込んだ両手の指の隙間から、抱きしめた両腕の隙間から、知らないうちに零れ落ちてしまう。


 それでも、僕は彼女という幸福を、抱え続ける。


 決して離さないように、決して零さないように、決して壊さないように。


 ……そのためには、僕も世界の中心に立たなくてはいけない。


 そうでないと、深音はきっと、怒るだろうから。




「さ、行こう」


 跪き、手を差し出す。


 僕の手を取った深音の服装が、白いドレスへと変化する。


「ぁ……」


 全体に幾つものフリルが、肩部分にはレースが施され、豪奢な雰囲気を醸し出しつつも、全体のつくりはシンプル。令嬢にも、花嫁にもなれる、絢爛なイブニングドレス。プリーツに落ちる僅かな影や、風を受ける控えめなデザインのクラウンティアラでさえ、調和性を帯びている。言わずもがな、ガラスのように白く綺麗なブライダルシューズも。……そして何より目を惹くのは、所々にあしらわれた、黒色の薔薇柄。


 これまで、多少の無茶は許してくれたんだ。


 今更僕が多少傲慢になったところで、神様は許してくれるさ。


「夢みたい」


 くぐもった声が前方斜め上から聞こえる。


 きっと泣き顔は見られたくないだろうから、彼女が落ち着くまで僕の方も準備を済ます。ありきたりなタキシードと革靴へと衣装を変え、それらしくなるだろうと神力でルビーの指輪を作り出し、手のひらに置かれた彼女の薬指に嵌めた。僕としては泣き止んでほしくてやった行動だけど、結果は真逆だった。「ぅうぅ……っ」と呻くと泣き崩れ、その場にしゃがみ込んでしまった。彼女が泣き止むまで、三分ほど背中を擦っていた。


「大丈夫?」


「うん、もう大丈夫」


 僅かに泣き跡が残る目元を、僕は愛おしく思う。


 その愛おしさは本物だ。


 紛うことなき、本当の愛だ。


 だから僕は、


 その愛を奪った奴らを、


 その愛を抱えたまま、


 ただ、殺すんだ。


 ——突如、夜が訪れた。いや、そう錯覚してしまうほどの圧倒的な黒が、空を覆った。すべてを静寂へと変える鳴き声と羽音を撒き散らしながら、烏の大群が夏の大空を横断する。遮られた日差しの下、三足烏……ヤノアタサマが塀の上へと降り立つ。くりくりとしたその眼は、物を言わず僕らを見つめている。二、三度首を傾げると、上空へ向かってひと鳴きして、一際大きな羽音を立てて飛び去る。それが合図だったのだろう、空を覆っていた烏の大群は、ヤノアタサマの飛び去った方向へ流れていく。まるで巨竜の腹を下から見上げている気分だった。


 僕らは頷き合い、腕を組んで歩き始める。


 眼前の鉄柵がひしゃげて吹き飛ぶ。金属と混凝土が擦れ合う耳障りな音に続き、建物の壁面に衝突して振動と破裂に近い轟音を起こす。ゆったりとした足取りを崩さないよう、まるでバージンロードを歩くみたいに、一歩一歩踏みしめる。


 玄関扉をこちらから吹き飛ばすより先に、邸宅内にいた人間(暴力団員だろうか)が怒声を上げながら出てきた。鯨同士の交信が人間に理解できないように、僕は飛び出してきた彼の発していた言葉を聞き取れなかった。行く手を塞いでいて邪魔だったので鉄柵同様に吹き飛ばした。


「蒼ちゃんって、頭良いよね」


 深音はやはり、そのドレスを覚えていたようだ。


「そんなことない。きっと深音が同じ立場なら、絶対に思いつくだろ?」


 僕は相槌を打ちながら、玄関を潜った先に続いている長い渡り廊下の、左右の襖を開けて拳銃を構え発砲してくる奴らを、片っ端から八つ裂きにする。銃弾が当たっていないことは一目瞭然だというのに、馬鹿の一つ覚えみたいにトリガーを引いている。自分の順番が回ってくるまでずっと。


「いつから考えてたの?」


 また一人、


「昨日思い付いたんだ。出来るかどうかは分からなかったけど」


 また一人、


「あの漫画、もしかして気に入ってくれてる?」


 また一人、


「うん。実は結構前から」


 また一人、


「こんなこと言うのはちょっと恥ずかしいけど……主人公の二人が私たちみたいだなって、そう思いながら読んでたの」


 また一人、


「僕もそう思って読んでた。だから先の展開がどうなるのか、毎度ハラハラしてたよ。もし二人が上手くいかなかったら、こっちも複雑だしさ」


 また一人、


「あ、それと……似合ってるよ、タキシード」


 また一人、


「それを言うなら深音こそ」


 また一人、


「ドレスが綺麗なんだよ、私じゃないって」


 また一人、


「そんなことない。……何ならいつかみたいに、おだて攻めしてもいいんだけど」


 また一人、


「もぅ、やめてよ恥ずかしいから」


 また一人、


「……ははっ」


 また一人、


「なに?」


 また一人、


「いや。——本当に、綺麗だと思ってさ」


 また一人。


 ……渡り廊下の突き当りを左に曲がる。その頃には、深音の纏うドレスは、純潔無垢のホワイトから苛烈で妖艶なスカーレットへと変化していた。渡り廊下で歯向かってきた連中の返り血が、イブニングドレスを深紅に染め上げている。僅かな錆びの匂いを感じたので、神力でそれを除去する。かつてない程クリアな、炭酸水のような思考だからこそ成し得る業だ。


 そして、赤く染まった深音のドレスは、彼女の好きな少女漫画のヒロインが着用していたドレスに瓜二つとなった。情熱的なその色に、どこか深淵な雰囲気を醸し出す黒薔薇。好きな人が……愛する人が、これほどまでに綺麗な姿になっているのだから、あの漫画の少年だって、僕のようにヒロインに惚れるしかないのだ。


 嫌味なほどに豪奢な装飾が施された襖を開けると、スーツを着崩した男二人を囲うように、ざっと二十人の舎弟が待ち構えていた。その手には拳銃や匕首、果てには日本刀らしきものを携えている。軽く見渡した後、やはり僕にしか視線が注がれていないことに寂莫とした悲しみが湧いてくる。


「何やお前ら、カチコミか?」


 血みどろの僕を警戒しながら、白鞘に手をかけて佐久間が問う。その隣には、リボルバーを構えた和田。


 怒りはある。凍てつく氷の如き克明な憤怒。


 でもそれ以上に、心は隣の少女への愛おしさに満ちている。


「見て分かるだろう? カタギだよ。佐久間雄吾と和田斎、お前ら二人を殺しに来た」


 努める必要もない。僕は自然と笑みを湛えてそう言った。


「タマ取りに来ただぁ? 抜かしてんじゃねぇよクソガキ……ここが誰のシマか分かってんのやろうな」


 佐久間は威勢が良い。ただ隠しきれない恐怖が、その表情に滲み出ている。


 対して和田は、視線を素早く多方向に動かしてから、再び僕の方に戻した。大方脱出経路の計算でもしていたのだろうが、生憎易々と逃がすほど甘くはない。即座に『部屋全体を外側から閉じ込める』イメージを構築し、維持する。この効果が継続している間は、部屋から逃げるなど不可能だ。窓や襖の先には、透明で頑強な壁があると同義なのだから。


 傍から見れば一触即発という雰囲気の中、僕は彼らから視線を切り深音に話しかける。


「あのシーン、覚えてる?」


 彼女は嬉々として頷く。


「もちろん。憧れてたから」


 大丈夫だ。手順は大方覚えている。中学校時代の行事にあった林間学校で、少しだけ練習したから。


 ポケットからスマホを取り出す。その動作に反応して取り巻きが一斉にトリガーを引く。しかし神力を纏わせたそれは、一切傷つくことなく弾丸を受け止め、薬莢の匂いだけを残す。驚愕と困惑を混ぜ合わせたような表情を浮かべる彼らを一瞥してから、音楽アプリのプレイリストにある一曲をスピーカーで流す。




 ——ヨハン・シュトラウスのワルツ、『美しく青きドナウ』——




 そのワルツ自体は十分超の尺がある。しかし高々二十数名を殺すのには、些か冗長だ。そのため、ごく短くカットされたバージョンを流した。時間にして三分程度。そしてその三分間、僕と深音はあの少女漫画のワンシーンのようにダンスを踊った。優しく手を取り、手の甲へキスをして、自信が無いなりにリードできるよう努めた。たどたどしさの残るその舞踏はまさしく、互いの背を追い駆けて飛び回る蝶。


 佐久間と和田以外の人間を、左から順番に一定間隔で殺していく。一人でに踊り始めた僕へ、驟雨の如く弾丸を降らせていた彼らだが、三人目が八つ裂きにされた辺りから恐怖と絶望に駆り立てられて……あるいはようやく、生身の人間に銃弾が弾かれているという異様な現実に思考が追いついて……我先にと襖の向こうや窓の外へと駆け出し、見えない壁に激突してもなお諦めず、どうにか自分だけは逃げ出せないかと泣き叫びながら透明を叩く。初めの方は「イモ引いてるんじゃねぇぞ!」と怒声を浴びせていた佐久間も、ただ唖然と僕の——僕らの舞踏を眺めるしかできなかった。和田だけは何とか現状を打開できないかと冷静を装っていたが、舌打ちをしてリボルバーを構えたまま、今は部屋の角に張り付いている。


 彼女は踊っている最中、「ふふ」と「へへ」の中間くらいの音を漏らし、躊躇いがちに小さな声で呟いた。


「なんか、ちょっと恥ずかしいね」


「まぁ、ちょっとね」


「でも、嬉しい。私のしたかったことも、してほしいこともたくさん叶えてくれて、ホントにありがと」


「気にしないでよ。僕がやりたいからやっただけだ」




 可憐な表情で舞踏を踊る彼女を見て、僕は追想した。


 ——初めて彼女に会ったときのこと。彼女と遊んだときのこと。彼女と喧嘩をしたときのこと。彼女と仲直りをしたときのこと。彼女と共に保育士に怒られたときのこと。初めて彼女を泣かしてしまったときのこと。初めて彼女に泣かされたときのこと。初めて彼女と共に小学校に登校したときのこと。彼女に運動会のリレーでバトンを渡されたときのこと。彼女と花屋に立ち寄ったときのこと。彼女と掃除当番をサボったときのこと。彼女に借り物競争で借りられたこと。逆に僕が彼女を借り物競争で借りていったこと。彼女に身長を抜かされたときのこと。すぐに彼女の身長を抜かし返したときのこと。同じ中学に進学するというのに卒業式で互いに泣いたときのこと。初めて彼女と共に中学校に登校したときのこと。周りからいつも彼女と一緒にいることを揶揄われたときのこと。それがきっかけで初めて彼女を異性として意識し始めたときのこと。初めて彼女と距離ができたときのこと。彼女に対して抱いている好意を隠し切れないと悟り思い切って打ち明けたときのこと。彼女が僕の気持ちを受け入れてくれたときのこと。互いに感情の矢印が向かい合っていると気付いたときのこと。初めてデートに行ったときのこと。周囲に対して関係を隠そうとしなくなったときのこと。初めてキスをしたときのこと。高校受験を無事に乗り切ったときのこと。中学校の卒業式でもやっぱり互いに泣いてしまったときのこと。初めて彼女と共に高校に登校したときのこと。やっぱり周りに関係を揶揄われたこと。けれど彼女もそれを楽しんでいると分かり安堵したときのこと。初めて身体を重ねたときのこと。それを機に段々と手を繋いだり触れ合ったりする回数が増えてきたこと。加速度的に満ち満ちていく幸せに酔いしれていた日々のこと。


 そして、掌中にある冷ややかな手を思い出し、夢想する。


 ——これまでと変わることなく日々を積み重ねていたかもしれない。これまでと変わることなく思い出を積み重ねていたかもしれない。僕も彼女も希望の大学に揃って合格していたかもしれない。高校の卒業式にはやっぱり二人して泣いていたかもしれない。大学近くのアパートの一室を借りて同棲を始めていたかもしれない。その部屋から手を繋いで大学へ行っていたかもしれない。互いに曜日を合わせて時間割を決めていたかもしれない。金銭的にも時間的にも余裕ができて色々なところにデートへ行っていたかもしれない。誕生日が早い僕に合わせて一緒に初めての酒を飲んでいたかもしれない。道すがらに将来の話をしていたかもしれない。互いに手料理を振る舞うことがあったかもしれない。アパートの小さなベランダでラベンダーを育てていたかもしれない。大学生らしく奔放に抱き合っていたかもしれない。雨の日には一緒に漫画を読んでいたかもしれない。アルバイトの給料で彼女に指輪をプレゼントしていたかもしれない。大学を卒業する頃には挙式のことを相談していたかもしれない。仕事から早く帰ってきた彼女が家事をする習慣がついていたかもしれない。休日には僕が家事をこなして彼女を労うことがあったかもしれない。費用の工面が済んで盛大に結婚式を挙げていたかもしれない。その後も変わることなく毎日を過ごしていたかもしれない。そのうち子供をもうけることがあったかもしれない。二人で慣れない育児に苦戦することがあったかもしれない。二人して子供の成長をビデオに収めるほど親バカになっていたかもしれない。二人して有休を取って授業参観に行くことがあったかもしれない。互いへの愛情に我が子への愛情が加わり幸せな家庭が築けたかもしれない。歳を取って昔を懐かしむことがあったかもしれない。どちらかが寿命で死んでしまうまで一緒にいられたかもしれない。




 手。


 大好きな手。


 どんなことがあっても、どれだけ歳を取って皺だらけになっても、離すことなく握っていたいと思った、温かい深音の手。


 ……あぁ、違う。造形も、肌のさわりも、色艶も、匂いも、何もかも、彼女のものだ。だというのに、あの陽だまりのような体温は、もうない。もう二度と、戻ってこない。


 視界が滲んだ。色が拡散する。


 僕は必死に涙を堪えた。泣くことなんて、後でいくらでもできる。


 今はただ、彼女が現世に留まっていられる僅かな時間を、幸福なものにしたいから。


「……………………」


 ワルツが終わった。


 インスタントで絶対的な絶望を前に、佐久間と和田は抵抗もなく脱力していた。凄惨な現場には、肉片や臓器、眼球や歯など、様々な人間の部位が散乱していて、それらは漏れなく血溜まりのカーペットの上にある。本来であれば耐え難い悪臭に満ちているはずだが、僕は無意識にそれを除去していた。視覚と嗅覚の情報のミスマッチに脳が混乱しそうだ。


 例の如く二人を磔にする。同様の手順を三度もやっていれば、視線で確認せずとも感覚で対処できる。恐怖と絶望で歯をガタガタと鳴らしている二人の喉を潰し、陰茎を切断し、腹部を横方向に裂き、首を捩じ切る。僕はその過程を進行させている間、僅かな時間も惜しくなって、深音に熱い抱擁とキスをした。復讐劇のフィナーレは、身を焦がすほどの愛情だけが満ちていた。


 何分ほどそうしていただろうか。無言で抱き合ってキスをしていたが、彼女が口を開いた。本当はその言葉を聞きたくなくて口を塞いでいたのだと、その瞬間に理解した。


「そろそろみたい」


 ぼんやりと、蝉の斉唱が聞こえる。


「ねぇ、蒼ちゃん」


「なに?」


「そんな顔しないでよ、また会えるんだから。少し時間が空いちゃうけど、必ず会える」


「うん」


「あんまり心配してないけど……浮気しないでね。怒っちゃうよ」


「うん」


「体調崩さないように気を付けてね? 昔はしょっちゅう風邪引いてたんだから」


 うん。


「蒼ちゃんの好きな唐揚げとか、スイーツとか……ご馳走用意して待ってるよ」


 ……うん。


「そうだ、誕生日ケーキも食べよう? 蒼ちゃん、きっと私がいないと食べないだろうし」


 …………うん。


「それから、




 ——空を抱く。


 言葉が途切れた。


 冷ややかな温度は、もうどこにもない。


 僕は声も出せず、惨めに膝をついて蹲り、泣いた。







 涙が枯れ果てた頃、邸宅を後にした。


 それから間もなく、雨が降ってきた。


 覚束ない足取りでバス停へと向かう。


 途中にある大きな交差点へ差し掛かった時、足元ばかり見ていた僕は赤信号に気付かず、そのまま横断していた。ノイズのように付き纏う雨音に紛れ、左右から急ブレーキを踏む音が聞こえた。同時にクラクションも鳴らされる。


 僕は顔を上げた。


 何台もの乗用車が、僕を挟み込むように急停止していた。


 幾つものヘッドライドが、僕を照らしていた——。










『S県で発生の大量殺人事件 容疑者の男を逮捕 女子高生失踪事件に進展』



八月十九日、S県に本拠地を置く暴力団組織『佐久間会』で、殺人事件が発生していたことを、同月二十一日、同県警が明らかにした。またこの事件で、容疑者と思われる十九歳の男が逮捕された。被害者は『佐久間会』会長の佐久間雄吾(50)と地元県警の和田斎(47)他、計三十八名に上る。凶器は見つかっていない。取り調べに対して男(19)は、「間違いない」と容疑を認めているという。現場からは地元県警の一部関係者と『佐久間会』との間に癒着があったと推察できる内容の書面が見つかっており、そちらも並行して調査に当たっている。


S県内にて『陰茎と頸部を切断し、腹部を断裂、右眼球を切除する』という同様の手口が使用された殺人事件が発生しており、同県警は同一犯の可能性を視野に入れ取り調べを継続している。また、同様の手口が使用された殺人が他県でも二件報告されており、手口と規模から、県警は複数犯の可能性も視野に捜査を継続している。


男(19)の証言を元に、同県の○○市内にある筒ヶ原山を捜索したところ、一年前に失踪した常陸深音さん(17)と思われる遺体が発見された。見識によると、死後一年程経過しているとされ、これに対し男(19)は、「復讐を果たした」と証言しており、S県内で発生した二件の殺人及び大量殺人、同県外で発生した二件の同様の手口の殺人を、怨恨殺人に切り替える方針を検討している。


〈20△△ 8月22日 デジタルニュース〉




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