二人きりの二日間
三人目──痩身で作業着を着た男への復讐は映画館で遂行した。
田邊裕司、三十三才、六月二十日生まれのO型、職業は運搬作業員。富樫の知人であり、我が強く傲慢で、暴力的な性格が災いして友人関係はほぼ無い。富樫づてに強姦殺人に関与した。
富樫を殺した後、僕らは新幹線を利用して地元まで帰った。富樫以降の三人は僕らの地元に住んでいることが既に判明していたからだ。十分な休息を取ってから、翌朝千里眼で同行を観察しつつ、後をつけた。
田邊が観ようとしていた映画は、七十年代のものだった。どうやら期間限定上映らしい。いくらでもサブスクリプションが発展している現代で、わざわざ映画館に足を運んで観たがるのだから、余程の映画好きなのだろう。タイトルは『青い年』というらしい。もちろん僕らは知らなかった。
上映開始時刻になってから僕らは席へ向かった。田邊が座っている席──傲慢な性格らしく最前列だった──を敢えて通りすぎるようにルートを決め、進んでいく。足許も覚束ない暗闇の中、極度の集中力を以て一連の動作を行う。空気が気道から洩れ出る可能性を完全に消すため、喉を徹底的に潰す。田邊の表情の変化が追い付くよりも先に陰茎と切断し、腹部を横に切り裂く。鮮血が溢れる。内蔵が切り裂かれたことで、あの独特な臭いの液体が血に混じる。そして仕上げに、首を捻じ切る。ただし今回は加減をした。地面に頭部が落下すれば、それなりの騒音になる。幸い田邊の付近に利用客は一切いないので、不要な音さえ立てなければ上映終了まで発見はされないだろう。膝の上で静止した虚ろな目を備えた頭部を一瞥してから、神力のコーティングを剥がし席へ向かった。僕らが取ったのは最後列の席だ。
映画の内容は大して覚えていない。よくある男女のすれ違いが、結果的に想い人への殺害へシフトする、総じてありがちなストーリー。印象に残った場面と言えば、終盤……想い人を刺した主人公が車道へと逃げると、走行中だったいくつもの車両が急ブレーキを踏み、彼に向けてヘッドライトを向けているシーンだけだ。その様子は、現代人が事件や事故が起きるとすぐに、通報もそっちのけでカメラを向け始める行動に酷似していて、何だか気味が悪かった。
そんな映画より、今僕らは死体が転がっている会場で優雅に観賞しているという状況に、子供の頃夢見た探偵物語の世界に迷い混んだみたいな、純心な興奮を感じていた。
田邊と同様、僕らの周りにも人はいなかった。だから奔放に微笑み合い、手に触れ合い、キスを重ねた。もはや僕らにとって復讐は、怨恨と殺意を解消する手段ではなく、それを通して互いの確固たる愛情を確かめ合う儀式となっていた。けれど、そんな些細な変化は気にならない。どうだっていい。僕の隣で深音が笑っている現実に、ただ酔いしれていた。復讐は何も生まないと云うけれど、僕らの間には、魂の癒合とも呼べるものが確かに生まれた。この復讐劇が終わらなければいいのにと、そう思った。
エンドクレジットが流れ始めたと同時、僕らは会場を後にした。出口までの長い廊下を歩いていると、背後から小さく悲鳴が聞こえた。ざわつく映画館の様子を傍目に、併設しているショッピングモールの一階に位置する、サーティーワンアイスクリームを食べにエスカレーターを下った。
僕はストロベリーチーズケーキ、深音はポッピングシャワーを頼んで、店内で食べた。神力でスプーンを作り出し、彼女に渡す。一度むすっとした表情になったが、すぐに何か思い付いたようでニヤニヤとした笑顔に変わった。
「はい、あーん」
なるほど。
「ホントは食べさせてほしかったとか?」
「言わないでっ」
口封じとでもいうように、僕の口へ削られたポッピングシャワーを突っ込んでくる。冷たい。甘い。パチパチする。
やられっぱなしは性に合わない。僕は深音のスプーンをひょいと取って、ストロベリーチーズケーキを削り取り、スプーンに乗せて彼女へ向ける。躊躇いがちに口へ運ぶと、その甘さに頬を緩めた。こんな時間がいつまでも続いてほしい。僕らが失ってしまった、訪れるべきだった時間が。
……帰宅すると、約三日ぶりに母と出会した。
復讐の小旅行をするにあたって、事前に両親には遠出をする旨を伝えていた。理由は聞かれなかった。多分、僕が外泊してまでやることと言えば、深音の捜索以外にないと思っているからだ。僕を一瞥すると、母は「おかえり」と言った。
「どうだった?」
その声音には憐憫があった。深い藍色だった。言外に「現実を見ろ」と窘めるようだった。
隣の気配が俯いた。凪いだ湖面を眺めているように起伏の無い、平坦な瞳を爪先に向けていた。僕はたまらなくなって、母に怪訝に思われるかもしれないというのに、その手を引き寄せて繋いだ。視界の端に、光が見えた。頬を伝う流れ星だった。
「夕飯はいらないよ」
そう言って自室に向かった。
その日から二日間、僕らはありきたりな恋人同士として過ごした。
残りの二人……佐久間雄吾と和田斎が丁度行動を共にするのが、三日後だからだ。現在から三日後までを見通せる『未来視』が弾き出した予知なので、間違いはないだろう。その二人は相対する勢力なのだが、どうやら裏金や密売などの着服があるようで、深音の殺害の際も同行していた。その二人を一度に断罪できる機会までは、往時のように幸せを享受していたかったのだ。
初日は生憎の雨だった。
と言っても午後には晴れたが、わざわざ外に出たいとは思わなかったし、それは深音も同じようだった。夏場の雨は酷いものだ。ただでさえ湿度の高い暑気に、さらに湿った空気が上乗せされる。べたべたと肌に張り付く湿気にうんざりしてしまう。
半分ほどの時間を、本を読んで過ごした。隣に腰かけた彼女の肩が触れる度、ひんやりとした感覚が浸透してくる。一緒に文字を追い、読む速度の早い僕が彼女のペースに合わせる。何気ない手つきで携帯の画面に触れる彼女は、まだ生きているとしか思えなかった。そんな優しくも痛みを伴う妄想を打ち消すように、触れた部分の肌の温度が下がっていく。
昼食はピザを頼んだ。普段食べないものだし、値段的にも躊躇ってしまう代物だが、僕にはおろしてきた二十万円がある。高がピザ二枚なんて大したダメージではないのだ。
転寝をしていると、バサバサと羽音が聞こえてきた。僕らが目を開けると、視線の先にはヤノアタサマがいた。手狭な庭に植えられた、もうろくに花を付けない桜の樹の枝先に止まって、普通の烏のように毛繕いをしている。初めは神力を乱用している僕に神罰でも下しに来たのかと思ったが、どうやらそういうわけでもないらしい。三本足の内の、枝を掴んでいない一本を愉快そうに動かしている。首を傾げながら、磨かれた瑪瑙のような瞳で、窓越しに僕らを見ていた。
「……ね、お絵描きしない?」
大人しいヤノアタサマを眺めていた彼女が、ふとそんなことを言った。
「ヤノアタサマを模写する?」
「そう! よく分かったね」
「何年一緒にいると思ってるんだ?」
「ふふっ、それもそうだね」
子供のように楽しげな笑顔。それはやはりラベンダーのようで、僕の心を優しく締め付ける。
神力で鉛筆を作り出し、深音へ手渡す。くるくるとペン回しをしてから──彼女の得意技だ──ヤノアタサマに向き直ると、画家や美大生がしている……測り棒や親指で対象との比率を目算するポーズを取る。本来地面と垂直でなければいけないのだけど、それは言わないでおこう。
僕もヤノアタサマの観察に取り掛かる。互いに画力は平均だ。それなりにレベルの低い拮抗ができるだろう。……しかし、改めて観察すると、その体は本当にただの烏だ。足の本数だけが普通から逸脱していて、だからこそ、その違和感を助長させている。一昨日も一昨昨日もそうだが、あれほど遠くまで飛行して疲れないのだろうか。いや、そもそも飛んで来ているのかも怪しい。謎だらけだ。
嘴から描き始めた僕と、足から描き始めた深音がほぼ同時に描き終わる。互いに描き上がったデッサンを見せるが、優劣なんて付けるのも馬鹿らしいほど平均的なものだった。とうにその結果は分かりきっていたから、僕らは優劣をつけることに拘っているのではない。描き終わるまでのその過程を、ただ楽しみたかっただけなのだから。幸福を噛み締めるように互いに笑っていると、気付かぬ間にヤノアタサマはどこかへ去って行った。
夕食は、母が作ったハンバーグを二人で分け合った。昔は……それこそ小学校時代なんかは、互いの家に行って夕食をご馳走になっていた。往時のように燥ぐ深音を見ていると、まるであの頃に戻ったみたいに思えた。変わらない味で安心する、と言う彼女の表情は、やはり寂しさが滲んでいた。引き伸ばされた水色が、頬から流れ落ちていくようだった。
その後は夜中までトランプゲームをして遊んだ。娯楽を敢えて子供じみたものに傾けているのは、僕らが昔のように——何の憂いもなく隣を歩いていた時のように、ありふれた幸せを感じたかったからなのかもしれない。トランプゲームと言っても、僕らが知っているのは精々ババ抜きか大富豪くらいだったから、そこにウノも追加した。神力を維持するのは精神的疲労を蓄積させることになるが、トランプゲーム程度であれば何の問題もなかった。復讐の際に使用する力の方が遥かに疲れる。
「ウノ!」
残り一枚になった時に「ウノ」と言うか否かは、地域によって変わるのだろうか。僕らの地元ではやはり、言わなければペナルティとして一枚引かなければならないというルールがあった。深音がどの色を、あるいはどの数字や記号を待っているのか知る由もないが、二人でやるウノは実に味気ないもので、なぜなら大半のカードは配られた時点で捨てることになるからだ。自分のターンが回ってきた時引いたカードで役が揃えば、その時点で勝ちが確定してしまう。大人数でやる時よりも運の要素が強く作用する。僕は内心申し訳ないと思いながら、プラスフォーのカードを出す。「あー! ひどい!」と抗議されるが、どうしようもない。そういうゲームだ。
僕が燥いでいる声は、おそらく一階の居間まで聞こえていたと思う。でも、両親は何も言ってこなかった。僕が虚しい妄想に囚われているか、あるいはパラノイア的な症状を発症していると考えたのか、どちらかだろう。ともかく僕は、既に両親から呆れられていた。別に僕は、それで構わなかった。むしろ両親に、深音と過ごす時間に水を差されないという安堵の方が余程強かった。世界というものは観測者によって変容する。そして僕という観測者にとって、深音こそが世界の中心で、そこから距離の離れた物事ほどディテールを失い単調になっていく。僕が生きる意味も、僕が世界を観測する意味も、全ては彼女だった。彼女が失われると、僕の世界はたちどころに崩壊してしまう。ボロボロと足場が崩れ、同心円状に広がっていた世界が閉塞していき、最終的には僕が立っている足場さえ呑み込んでいく。つまりはそういうことで、僕にとって両親とは、今となっては中心から遠い存在に成り下がっていた。
楽しい時間とは往々に早く過ぎると云うように、僕にとってもその一日は早く過ぎ去った。気付けば昼食の時間で、気付けば夕食の時間で、気付けば午前一時を回っていた。眠気を感じない彼女にとって、夜は長く退屈な時間になってしまうかもしれないから、なるべく遅くまで起きていようと考えていた。しかし、流石に一日中神力を使用していると、たとえそれが大掛かりな力でなくても、疲労が積み重なり、眠気を誘発する。
「眠そう」
「いや、大丈夫」
「意地張らない! 早く寝よう、明日に響いちゃうよ」
「でも、」
「『でも』も『だって』もないでしょ? 明日を今日より楽しくしようよ。寝過ごしちゃったら勿体ないし」
深音に説得させられて、僕は眠ることにした。布団の中で横になり目を瞑ると、即座に睡魔が僕の意識を刈り取っていく。深淵に堕ちていくような浮遊感に攫われ、僕は一分もしないで眠りに落ちた。
*
「……寝た?」
返事がない。寝たいみたいだ。
私の体は睡眠を必要としていない。でも、真似事はできる。
目を瞑って横になって、意識を切り離して沈めていく感覚。……そうとしか説明ができないけれど、とにかく生前と同じように眠っていると錯覚することはできた。私がこっちの世界に来てからそうしているように、今日も蒼ちゃんの隣で寝ようと思っている。
でも、今日は先にやることがある。
私が今からしようとしていることが、どれ程身勝手で最低なことか、理解している。それでも、もう自分を止められる気がしない。
私はそっとトートバッグに触れる。音を立てないように中身を探り、私が愛用していた地域伝承をまとめたキャンパスノートを引っ張り出す。
……現世の物に触れられる、ということに気が付いたのは、つい先日だ。富樫への復讐をする数時間前、ネットカフェで偶然蒼ちゃんの携帯に触れることができた時。それまで私は、自分が幽霊であることを自覚していて、霊体だから物に触れることなんてできないと考えていた。いや、そう思い込んでいた。でも実際は違った。私が強く念じていれば、大抵の物には触れられるとその時気が付いた。私を殺した奴らを蒼ちゃんが殺してくれていることで、この世に留まる力が弱まっていることが原因かもしれない。死に花を咲かせるために現世へ干渉する力が相反的に強まっているみたいな。……もう死んでいるけど。
ノートを開く。初めの一ページ目からパラパラと捲っていく。中学一年から私が殺された高校三年までの、細やかな努力の結晶。初めの方は何となくで書いていたけれど、色々な伝承に触れて、その面白さに気付いてからは、様々な資料に目を通し、実際に現地へ赴いて話を聞いて、よりそれらしい研究ノートに仕上がっていた。
やがて、最後のページを捲り終えた。『かがち』という蛇の神様についての伝承を調べていた途中だった。残された空白のページを数えてみると、丁度二十ページだった。
そして私は、最後のページを開いて、蒼ちゃんの筆箱から借りたシャープペンを握る。そこに書く言葉は、もう決まっている。
……私は本当に、欲深い。
死んでまで、蒼ちゃんに縋っている。彼にはこれからの人生があるというのに、復讐の代行という一大事を任せてしまったし、それにかこつけて恋人としての時間まで過ごさせてもらった。きっと彼に言っても、「僕がしたいことをしたまでだ」って軽く流してしまうだろう。でも、私があの世から戻ってこなければ、今のような状況は起こり得なかった。だから本当に、蒼ちゃんは私に優しい。優しすぎる。
……ひとつ、彼に酷いことを言ってしまった。
言葉は呪いだ。どうしようもないほど人を縛り付けて、人生を狂わせて、時には死の縁に追いやってしまう。刺々しいのに、柔らかい。受け取る側によって、言葉の呪いはその凶暴性が変化する。そして蒼ちゃんは、私の言葉であれば忠実に、愚直に捉えてしまう。自分自身を躊躇いもなく呪ってしまう。そのことが堪らなく嬉しくて、少しだけ悲しい。
——大きく文字を書いた。総画数は十一。
彼に掛けてしまった呪いを、身勝手に解いてしまう私の欲深さには、心底うんざりする。
でも、これが私の本心だ。
死んでも忘れられないほど、私は蒼ちゃんのことが好きだから。
*
二日目は、前日の雨が嘘のようにカラッとした晴天だった。
金ならある(石原と富樫の財布に入っていた諭吉が、合計で十枚分ほど追加されているから)ので、どこか遠くへ遊びに行っても良かったが、深音には何やらプランがあるらしいので、素直に従うことにした。
雲一つない息苦しいほど近い青空を力なく睨み付け、歩く。今日の最高気温は三十六度とのことだ。体感ではさらに一、二度高い気がする。隣の深音は平気そうだ。
「今日はさ、昔をなぞってみない?」
遠くに見える桜を眺めるみたいな、そういう目をしていた。
「昔をなぞる……」
「つまり、昔の私たちが行ったところに行って、見たものを見て、食べたものを食べるの」
それは一種の逃避行だった。僕らにはもう、現世で積み上げる思い出がない。深音は殺され、僕は喪失に打ちのめされた挙句に復讐をしている。それも思い出といえなくもないけれど、純粋な喜びとか楽しさとか、そういうものじゃない。幽霊となった深音と再会し、ようやく再び動き出した僕の人生は、けれど『最愛の人の死』を前提としているのだ。だからその行為は、限りなく自傷的で、それでいて甘く温かい幸福を纏っていた。
初めに選んだのは、地方の寂れた遊園地。
寂れ具合でいえばこちらの方が地元より顕著だ。御殿場線に乗り辿り着いたその場所は、周囲に住宅地がなく、観光資源の無い山地を切り開いて強引に建てられた、将来性や利便性を無視したテーマパークだ。夏だというのに薄ら寒い風が過ぎったように錯覚するほど客がいない。それでも十数年前は、超が付くほどの盛況だったそうだ。そして僕らは、その盛況だった時代にここを訪れていた。
「こんなに閑散としてたっけ?」
僕が思ったことを深音が口にする。僕らにとっては、同年代の子供を連れた家族がこぞって訪れる場所だという認識なのだ。往時の栄光の姿から情報が更新されていない。
だが腐ってもテーマパークだ。来園ゲートを潜って二、三分歩いた地点にある土産物屋には、家族連れの姿が見え始めた。山地にあるので避暑地として来園しているという部分もあるのだろう。その後、アトラクションが密集するエリアに差し掛かると、目算で十組程の家族連れが確認できた。
「あ、」
子供騙しの速度で進むジェットコースターが目に留まる。
「懐かしいね」
深音も思い出したのだろう。僕らが初めて乗ったジェットコースターだ。今見ると、とにかく遅くて安全だ。逆さまになることなどない。左右に揺られたりうねうねと進んだりするくらいだ。アトラクション性が欠如している。それでも僕は、膝が震えるほど怖かった。身長制限ギリギリで通過して隣に座った彼女も、「だいじょうぶだよ、へっちゃら!」と強がっていたが、僕同様に震えていたことを覚えている。
「ね、乗ろうよ」
「いいけど……この歳でアレに乗るのか」
「ほら早く!」
渋る僕を引っ張って、彼女が駆ける。
受付のスタッフに、一人で乗ろうとしている僕は大層怪訝な目で見られながら(ジェットコースターだけでなく、この遊園地にいる間は同様の視線を何度もぶつけられた)料金を払う。いい歳した男が一人で、しかも二人分の料金を払ったものだから、それはもうお手本のように困った顔をしていた。何度も一人分の料金を返されそうになったが、「二人なので」と繋いだ手を挙げると——もちろん見えていないが——それ以上は何も言わなくなった。そういう人だと思われたのだろう。そしてやはり、あの頃と変わらない速度で発進する。亀の全力疾走の方が早いくらいだ。ジェットコースターとしては失格だが、風を切る音は心地よかった。隣からは可愛らしい悲鳴が聞こえた。
……その他にも、僕らは様々なアトラクションを楽しんだ。……と言っても数える程しかない上に、順番待ちなんてものは一度もなかった。メリーゴーラウンド、空中ブランコ、それから観覧車。二人で楽しめないという理由でゴーカートは乗らなかった。園内で販売されているカップアイスを食べながら、小さなゲームセンターでレトロな筐体に触ったりもした。合計二千円を溶かして得られた報酬は、ネコのぬいぐるみひとつだけ。
そして僕は、駅前で購入したデジタルカメラで頻りに写真を取った。乗ったアトラクションの前で、緑茶を買った自販機の前で、ゲームセンターの中でシャッターを切った。他にもたくさん、フィルムの三分の一を使って。そのどれもが、深音を被写体にしていた。楽しげに燥ぐ彼女を、懐かしげに微笑む彼女を、屈託なく笑んでピースをしている彼女を、自販機で飲み物を選んでいる彼女を、カップアイスを見せつけてくる彼女を、ゴンドラの中で物憂げに景色を眺める彼女を、クレーンゲームの景品を眺めている彼女を、時折吹く微風に揺れるその髪を、項を、制服を、後姿を。
……けれど、そのどれにも、彼女の姿は映っていなかった。凡庸で変哲のない、単なる風景写真にしか見えない。そこに写っているはずの深音の姿を補完できるのは、この世界で僕しかいない。
昼前には遊園地を出て、一度地元に戻り、新幹線に乗り換えて下る。本当は修学旅行や卒業旅行で訪れた場所に足を運びたかったものの、中学は鹿児島や北海道だったり、高校の修学旅行がハワイだったり、とにかく縦横に広いので泣く泣く諦めた。その代わり、僕らが付き合い始めて初のデートに行った同県のとある市で昼食を摂り、散策することに決めた。
あの頃はたしか、映画館へ行った後に付近の喫茶店で休憩し、夕日が眩しくて瞼が自然と降りてしまう時間になるまで、何らかの地域伝承を調べて回った。丁度その話になったので訊いてみると、「鬼だよ、鬼」と得意気に笑んで答えてくれた。新幹線の車窓から望む富士山は青々としていて、その雄姿に見入っていると風景は一変していた。今までは、空き家らしきトタン屋根の家屋が散見されていたが、少し目を離した隙にコンクリートの森を通過している。都心部だけあって、あの頃と変わらず背の高いビルやマンションが乱立し、自動販売機の飲料の値段は二十円ほど上昇している。行き交う人は心なしか奇抜な服装に見える。田舎であれば浮いているだろうその奇抜さは、この市内であれば順当なファッションとして成立していた。
「あ、」
改札をひょいと飛び越えて一足先にロータリーへ歩み出た深音が、ぴたりと止まる。どうしたのだろうと思ったが、その理由はすぐに分かった。
「お祭りやってるね」
熱気と活力が、ありありと伝わってくる。歩行者天国により意義を失った車道には、溢れんばかりの人の波。ずらりと軒を連ねる出店屋台は、漁港の方面へ向かって真っすぐに伸びている。りんご飴に射的、じゃがバターにイカ焼き、フランクフルトや肉巻きおにぎりに加え、かき氷や瓶ラムネ……とにかく多種多様なものが売られていて、そして笑ってしまうほど値段が定価よりも高い。人間は、こういう祭事の前で財布の紐が緩む生き物だ。
「すごい人だ」
「流石にこの人混みを歩くのは……酔っちゃいそう」
気後れしている声。それは僕も同意見だ。
会場にはなるべく近づかないという基本方針を立て、昼食は駅前のビルに入っているファミレスに決定した。この騒ぎだと、当時立ち寄った喫茶店も営業しているか分からないから。店内には同じように、祭りの喧騒から離れたい人たちが思いのほか多くいた。金銭面は一切考慮する必要がないので、おそらくその場にいたどの客よりも、ファミレスというものを楽しんでいた。ピザにドリア、串焼きにフライドポテト、そしてパフェ……油物とスイーツは食べ合わせとしては良くないだろうけれど、美味しいものを彼女と一緒に食べるということ自体が、僕にとっての幸福だ。祭りの喧騒が室内にも入り込んできていて、その喧騒に負けじと少し大きな声量で他の客が話していたので、僕が深音と話していても視線を感じることは無かった。あるいは皆、祭りの熱に浮かされているのかもしれない。
会計を済ませた後は、折角だからと離れた位置にある屋台でかき氷とりんご飴を買い、携帯で付近の公園を調べて立ち寄り、一時間ほど緩慢に進む時間に身を任せた。りんご飴を分け合っているうちに、かき氷は順当に溶けていく。シロップはすべて同じ味が使用されているという噂を検証しようと深音は躍起になっていたが、そもそも違う味のかき氷を買っていないので比較ができない。そのことに気付いて少し膨れていたが、ちまちまとかき氷をつついているうちに、互いにそんなことは忘れていた。今感じている幸福だけが真実でしかないのだと、そう思わされた。
茹だるような暑さは止まるところを知らず、午後三時を回っても尚、外気は病的なまでに熱を帯びていた。照り付ける陽光にも変化は見られない。小まめな水分補給と、彼女の残酷な冷たい体温がなければ、あっという間に熱中症になっていただろう。そんなことを考えて僕が不意に「ありがとう」と礼を言う。深音は褒められ慣れていないから、薄っすらと頬を染めて「なに、急に」と返す。一年前と何も変わらない。彼女が生きていた時と、寸分違うことは無い。僕が見ているこの景色には、確かに彼女がいる。目が合うと微笑んでくれて、手を繋ぐと喜んでくれる。だというのに、その体温は氷のようで……。
「……深音」
現実性と幸福の揺らぎを前にして、僕は堪らなくなった。
「深音は、いつまで僕の傍にいてくれる?」
本当は、聞きたくなかった。
聞くなと、本能が訴えかけていた。
それでも、枷が外れてしまった。
一度放たれた言葉は、戻ってくることは無い。
「………………」
長い沈黙。
でもそれは、長考ではない。確認だ。回避することのできない未来を表現する言葉を取捨選択している時の、滲み出るような空白。
「明日が、最後だと思う」
あぁ、そうだ。
そうだろうさ。
分かっていたことだ。何事にも終わりがある。すべての王国が衰退するように、すべての大地が削れていくように、すべての生命が死へと向かうように。それが運命的な軌道に沿って決定されているものだとしても、あるいはこれまでの人生で起こした行動の因果律によって弾き出された結果だとしても、終わりへと向かっていくその本質は変わらない。
僕は無意識に、祈っていたんだ。彼女が僕の元に現れたときと同じだ。まやかしでしかない、いっそ薄情な希望に縋るしかなかった。もはや奇跡と呼ぶしかない再会を果たし、紡がれるはずがなかった今日までの日々を過ごし、有り得ないと分かっていながら、その奇跡以上の未来を希った。僕はそうすることでしか、心の平穏を維持できないでいた。耐え難い死別というマイナスを前にして、この七日間はそれを打ち消す以上のプラスだった。過度な熱は火傷をもたらすように、僕はただ、彼女を再び失うことに恐怖している。言ってしまえば、雪山で遭難した際に「矛盾脱衣の果てに死ぬ」か「寒さを思い出して死ぬ」かの二択だった。深音のその言葉を聞くことなく、来ると予期していながら覚悟を固めることを先送りにして二度目の別れを迎えるか、復讐の果てにはやはり、約束された別れが訪れるのだと覚悟を固めてフィナーレを迎えるか。そして僕は、これほど重大な分岐点においても、優柔不断でなし崩し的に選択をした。
「………………」
「蒼ちゃん」
僕が考えていることなんて、結局はお見通しなのだろう。彼女はただ静かに僕の手を握った。その冷ややかな手のひらは、けれど僕の心を確かに溶かしていく。
「私はね、いま幸せなの。それだけでいいよ」
にっ、と笑う。
「ヒーローは、最後に絶対勝つの」
僕の好きな笑顔。
「遅れて登場してなんぼだよ」
午後六時には地元に帰った。
ホームセンターでちょっとした買い物を済ませ、その流れで夕食に行った。僕らの母校である中学校の、その近くで営業している中華料理屋だ。高校は中学とは別方向にあるところに進学したので、帰宅途中でふらっと立ち寄ることもなくなっていた。深音にとっては約三年振り、僕にとっては四年振りだ。店主のおじさんは、記憶にあるよりも白髪が目立っていた。店の雰囲気は変わらないけれど、所々に風化の痕跡が散らばっていた。椅子が二つ無くなっていたり、メニュー表から消えている料理があったり、型の古いテレビの残骸がカウンター席の端に置いてあったり、そのカウンター席のテーブルのニスが一部剥げていたりと、挙げていけばキリがない。ジャンプカット的に空間を観測すると、嫌なほど違いが透けて見える。
「坊や……」
店主が僕の顔を見て、小さく目を見開く。
「あン時の彼女連れか」
僕は心底驚いた。確かに中学時代は、よくこの店に来ていた。でもそれは僕や深音だけではない。僕らの母校に通っている学生は、大半がこの店を訪れる。だから僕よりも来店した回数の多い学生なんて、いくらでもいる。
「覚えてるんですか」
「そりゃあな。彼女連れで来る奴なんて、そう多くねぇ。少なくとも、坊やより後にはまだいねぇさ」
鰐のように笑う。
「そんで……彼女はどうした?」
僕は少し迷った。でも、少しだけだった。
「いますよ、ここに」
店主は僕が指を差した隣の席を見る。数秒そうしていた。その後に続く言葉は、僕が予想していたものとは違っていた。
「坊やがそういうなら、そうなんだろうな」
深音が息を呑んだ。それから僅かに、涙を堪えた。
「……信じるんですか?」
「何も、信じるか信じないかが全てじゃねぇさ。坊やがそういうなら、そうあるべきだ」
彼女が俯く。泣いている顔を見られたくない時の癖だ。昔から変わらないから、僕は何も言わずに背中を擦る。傍から見れば意味不明な行動をとる僕を見て、店主はそれでも理解しようと歩み寄ってくれた。人柄なのか、人生経験がそうさせるのか、とにかく僕は初めて奇人として見られなかったし、深音は初めて僕以外に認知してもらえた。
オーダーしていた炒飯と餃子、鳥白湯スープや小丼などを食べ終えた後も、僕らは店主と会話を楽しんだ。深音の言葉を僕が介して店主へ伝えることで、スムーズとは言わずとも交流ができた。僕らが店を出るまで、店主は一切の事情を訊いてこなかった。次に僕の顔を見る時、彼は一体何を思うのだろう。
最後は、細やかな花火大会をした。
高校一年の夏休み、その最終日でやったような、近所の公園で出来てしまうほど細やかな花火大会。
ホームセンターで買った手持ち花火を開封し、蝋燭に灯る炎へ近づけ、火薬に引火させる。あの時は、地元の花火大会も終わり二学期が目前に差し迫っていることに気付かないフリをしたくて、終わりを先延ばしにしたくて、衝動的に始めた。でも今回は違う。地元の花火大会は来週で、深音と楽しむことは叶わないという理由もあるけれど、何より明日、彼女と過ごす最後の日を逃げずに迎えるために、花火を手に持っている。
「ねぇ、蒼ちゃん?」
オレンジ色にぼんやりと照らされた彼女の横顔は、どこが儚げだった。
「私がいなくなったら、寂しい?」
酷いことを訊くものだ。
「……当たり前だよ」
決心が揺らぎそうになる。それでも、後に続くその言葉に、僕は確かに救われた。
「ありがと」
線香花火がちりちりと煌めく。
仄かなオレンジ色が、夜に溶けていく。