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ケーキ入刀



 悪夢を見た。


 内容は覚えていない。ただ起床した瞬間に、「あぁ、今まで悪夢を見ていたんだな」と直感できる。深音が失踪してから二週間ほど経った頃から続いているものだ。毎回、悪夢を見た時は心臓が握り潰されるような感覚で目を覚ます。以前——睡眠薬を処方されていなかった時期は、睡眠時間の少なさも相まって頻繁に魘されていた。さらに最悪なことは、その悪夢から解放されたとしても、現実の方にも同質の絶望が蔓延っているということだ。僕にとって地獄と言っても過言ではない、深音がいない世界。意味も理由もなく、じりじりと僕を殺していく世界。……そんなこともあって、僕は眠ることが怖かった。


 けれど、今は違う。


 内容は覚えていなくても、確実に僕にとって悪い事が巻き起こっていた夢の世界を離れた後、目覚めた時に現実世界がマシなように感じられるからだ。深音は殺された。けれど幽霊であっても、僕の傍にいてくれている。手の届く距離にいて、触れられる。生者として逢瀬を重ねることは未来永劫叶わないが、彼岸の世界に行けば、彼女が生きていた時と変わらずに日々を過ごせる。だから僕は、悪夢を見る必要がある。既に空っぽになってしまった現実も、少しくらいは許すことができるから。




 午前九時、ホテルのチェックアウトを済ませて、上りの電車に乗る。


 目的地までは県を一つ跨ぐことになる。増減はあるものの、平均して乗客は少ない方だった。深音と話をしていると独り言を呟いている奇人に見られるので、隣に人が座ってくることは無かった。深音の体が他人のそれとオーバーラップする光景は見たくなかったので、都合が良かった。


「ね、今日は何食べる?」


「そうだな……どこかの店で食べやすいものがないか探してみるか」


「サンドイッチとか、パン系は食べやすそうだけど……」


「でも、甘いものも食べたいんだろ?」


「そりゃあね。食べられるならたくさん食べたいよ」


「財布の事情もあるからな……」


 そんな調子で会話をしていると、不意に深音が笑いを零した。


「ふふっ」


「どうした?」


 繋がれた右手をにぎにぎとしている。強弱に従って冷ややかな感触が揺れる。


「こうやって……他の人たちに不審がられるのに、私と喋ってくれて嬉しいなって」


「気にしないでいいよ。僕がしたいようにしているだけだし、深音を無視することなんてできるわけがないから」


 そう言うと、彼女は心底嬉しそうに相好を崩した。


 その笑顔を見るためならば、僕は何だって——人殺しだってする。







 一時間と少し経って、ようやく目的地の駅に到着した。


 僕らの地元とは比べ物にならないほど都会だ。……高層マンションが乱立している様子を見て一言に『都会』と括ること自体、田舎者の発言だが。とにかく、物価も土地代も、人口密度も高い地域だ。東京に比べると足元にも及ばないだろが、少なくとも僕らにとっては異次元だ。


 僕は携帯のメモ帳アプリを立ち上げ、事前に整理しておいた二人目の人物——中肉中背で印象の薄い男の詳細を、再度確認する。


 富樫健斗、三十二歳、二月二十五日生まれのO型、職業はサラリーマン。


 三人目のターゲットである人物とSNSで知り合い交友関係になっていて、闇金を借りたことで弱みを握られ、深音の強姦殺人に手を貸したようだ。……その男も脅されていたとはいえ、深音の遺骨から入手した生々しい記憶の中では、中身のない謝罪を繰り返しながら眼前の肉欲に溺れていた。五人の犯人の中では一番正常な感覚を持っていた人間だが、クズに変わりない。石原と同様の手口で殺害する計画だ。


 富樫は現在出勤中なので、帰宅を待ってからの行動となる。それまでの時間は、深音と出掛けることにした。




 ——例えば、書店に行った。


「あ、新刊出たんだ」


 深音が物欲しそうに眺めているのは、彼女が愛読していた少女漫画の新刊だ。僕も奨められて読み始めたが、これがなかなか面白くて、よく二人で語り合っていた。因みに、新刊と言っても五ヶ月以上前に出版されている。殺された時から世間の情報が止まっているのだ。僕は何だか、言い知れない新鮮な苦しみを感じた。


 田舎町の寂れたそれとは違い、大規模だ。書籍の電子化が進んでいる現代でも、紙書籍の需要はなくなっていないことを思い知らされる。主に漫画が陳列されている二階部分で、今にも小躍りしそうな彼女の後を付いて歩いていた。


「でも私、触れることもできないんだよね……」


「その新刊なら買ったよ」


「うそ、ホントに?」


「うん、電子書籍だけど。あとで一緒に読もう」


 僕は既に一度読み終えていたけれど、そんな野暮なことは言う必要もないだろう。


 ——それから、近くの喫茶店で昼食を摂った。


 幸い客は少なく、奥まった所の窓際の席を確保できた。店主や従業員も目を向けないような位置だったこと、店内のレトリックなジャズが思いのほか大きな音量で流れていたことなどが重なり、深音と話しながら、虚空に向かってサンドイッチを突き出していても何か言われることは無かった。


「おいしっ」


 彼女が頬張っているサンドイッチは、薄くスライスされたトマトと、塩気の効いた生ハム、溢れんばかりのレタスという豪華な具材だ。絶妙な焼き加減でふわりとした触感が残る、耳付きの食パンでサンドされているので、芳ばしい香りも相まって、食感も飽きることなく最後まで楽しめる。写真を見て想像していたものと比べると、一回りほど大きい。これが逆写真詐欺というやつか。


「……ははっ」


 あまりに美味しそうに食べるものだから、見ているこちらも頬が緩む。「なによぅ」と不満そうに抗議される。


「いや、美味しそうに食べるなって」


「実際美味しいし……」


「まぁ、確かに美味しいな。それに値段だって、安すぎるくらいだ」


 二人してサンドイッチを平らげた後は、少し挑戦的なことをしようとパフェを頼んだ。


 注文の品が運ばれてくるまでの間に、深音が窓際の、僕が座っていた位置に移動し、隣あって座る状態にした。そうすれば、僕の(他人から見ると)不審な行動が見え辛くなる。少なくとも、向かいの席へ向かって虚空にパフェを突き出す奇人にならずに済む。


 程なくすると、やはり逆写真詐欺のパフェが運ばれてきた。シリアルがぎっしりと詰まっており、アイスクリームの上にホイップクリームと苺が豪勢に盛り付けられていて、チョコレートソースの甘い香りが漂っている。


「お、大きい……」


 深音ですら慄いているので、相当巨大だろう。


 ……さて、ここからが問題だ。


 いや、正確に言えば解答は既に出ている。僕が触れていれば深音は食べ物を摂取することができるのだから。ただこれは、そういうロジカル(そもそも幽霊の特性に、倫理という言葉を当て嵌めていいのか疑問だが)な問題ではない。社会性と気構えの問題だ。つまり……僕がパフェを、素手で掬って食べさせることになる。


 まずはお冷のコップを握り締めて、手のひらの温度を下げる。痛みが伴い始めるくらいにまで冷やしたら、苺が乗っている部分のアイスクリームとホイップクリームをスプーンで半分にし、一思いに摘んだ。力を入れすぎると潰れてしまうが、緩めるとテーブルに落下してしまう。視線で急かすと、若干躊躇っていた彼女は目を瞑って口に運んだ。その僅かな合間に溶けたアイスクリームが手首へと伝ってくる。彼女の口内にある僕の親指と人差し指には、確かな舌の感触があった。


「……どう?」


 居た堪れなくなって訊いてみる。


「美味しい、と思う。……恥ずかしすぎて、味が分かんない」


 耳を赤くした彼女が言う。血は通っていないはずだけど、もしかすると生前と同じように体が反応するのかもしれない。


 ぎこちなかったのは初めの三口目までで、それ以降は慣れたのか……あるいは自棄になっていたのか、パクパクと食べ進めてあっという間に完食した。店を出た後も、僕の指には舌の感触が残っていた。


 ——その後は、ネットカフェで時間を潰した。


 生憎季節は夏で、太陽が燦然と降り注いでいる。漁港のある県なので海辺まで足を運んでも良かったが、万が一にも熱中症になってしまえば、計画が先送りにされてしまう。安全策ということで、ネットカフェを選んだ。空調も効いているし丁度良いだろう。


「涼しー……」


 大袈裟に手を広げる深音。


「分かるのか?」


「ううん、全然。ただそんな気がするから」


 随分適当だ。あるいは彼女なりの気遣いかもしれない。


 ……ドリンクだけ注文し、早速漫画を読むことにした。行動開始まで時間はまだ十分にあるから急く必要はないが、僕らが一年前から積み重ねるはずだった日々を取り戻すみたいに、緊密で濃厚な時間を過ごしたかったから。


 携帯を取り出し、書籍アプリを開く。先頭に表示されている、少女漫画の最新刊をタップ——しようとして、さり気なく画面を深音から見えないようにする。そのまま開いてしまうと、書籍の最終ページが表示されてしまうから。素早く操作し、巻頭のページまで戻ってから、再び深音に見えるようにした。


 流石に二人で同じ本を読む経験がなかったので、深音の反応がなければ次のページに進んでいいのか分からなかった。「いいよ」だとか「うん」だとか、そういう言葉でページを読み終えたことを伝えてもらわないと、スムーズな読書ができなかった。けれど次第に読むスピードが分かるようになってきて、合図がなくとも何となく読み終えただろうと把握できるようになった。これこそ以心伝心というのだろう。ただ静かに、時折悶える反応が交わりながら、緩慢に時間が過ぎていく。一人で読んだときは、今までとは比べ物にならないほど面白さを感じられなかったし、読めば読むほど深音のことを思い出してしまって、素直に楽しめなかったけれど、今回彼女と一緒に、隣合って座りながら読むと、一度目に読んだ際の息苦しさや虚しさを掻き消してくれる、確かな喜びと楽しさがあった。


 読み進めていると、深音が「あ~」と声を上げて目を覆った。悶えている。


「やっぱりそうなるんだ……」


 開かれたページは、ヒロインが意中の男子とたどたどしくワルツを踊っているシーンだ。華やかな赤い薔薇柄のドレスに身を包んでいるヒロインの、揺れ動く心が描かれている。


「特にこの台詞——」


 深音が指を差し、画面に、


 ——触れた。


「「えっ」」


 二人して驚愕する。


 現世の物に干渉できないはずの彼女が、今確かに、僕の携帯の画面に触れた。

 勘違いではない。テーブルに置かれたそれから、カチンと音がした。


 今までも、服や装飾品、筆記用具やノートなどに触れようと、試行錯誤を繰り返していた。その結果判明したのが、食べ物であれば僕が触れている間は接触できるし、摂取することができるということだった。携帯を試していなかったのはこちらの落ち度ではあるが。


「蒼ちゃんが持ってたものだからかな?」


「理屈が通ってないな……」


「今更理屈なんて気にする?」


 それもそうだな、と思う。現状は何から何まで、机上の空論という言葉でさえ些末なものに見えるほど、常軌を逸している。深音の幽霊が見えるし、一時的にだが神力を扱うことができるし、実際にその力を使用して復讐の小旅行をしている。悲しいことに、気の触れた異常者の戯言の方がまだ現実味があるとうものだ。


 ひとまずその疑問は深く考えないことにした。仮説とまではいかないが、僕が肌身離さず持っていれば深音も触れられるとするなら、コンビニでプラスチックのスプーンでも貰っておいて実験するのも悪くない。それに、一定の規則に従って干渉できるものとできないものが決定されているとは限らない。それこそ神力のように、イメージしたように自在に調整できる可能性だってあるわけだから。


 ……五時を回るまで、僕らはネットカフェに滞在していた。深音が選んだ漫画を読み、肩を触れ合わせながら過ごす。時折思い出したように色々なことを話して、互いの相反する体温を感じながら、これから人を殺すことなど微塵も想起させない程、ただ静かに喜びを噛み締めた。




 富樫の部屋は、非常に無駄がなかった。


 いや、『無駄がない』という言葉は些か不適切に思う。無駄を排除したというよりも、無駄を作り出せなかったという感じだ。生活必需品の他には何もない。

 白の壁紙に白のテーブル、灰色の座布団に灰色のラグ、飾り気も使用感もないキッチン、薄っすらと埃を被った段ボール。単調で、隙間そのものを具現したかのような内装。あまり生活感がない。


 三階建てで、推定築二十年ほどだろうパールホワイトの外壁のアパート、その一室に富樫は部屋を借りていた。一応念のため『透明になる』イメージによる透明化の力で、近隣住民による目撃の可能性を限りなくゼロにした。三〇五号室の扉の前で一度透明化を解除(なるべく疲労を避けるため)して、同じ要領で扉を透過した。どうやら神力は他人にも付与できるらしく、手を繋いでいたら深音も扉を透過することができた。


「わぁ、すごい! ホントに幽霊みたい」


 ホントに幽霊なのだけれど。


 ……午後六時十八分。他人のリビングで空調を点けて寛いでいると、玄関の方からガチャリと音がした。家主が帰宅したようだ。僕はこれから富樫を殺すというのに、どこか子供じみたサプライズをしかけているような気持ちになって、相手がどんな反応を示すのか興味を持った。


 疲労が滲んだ顔を提げて、雑に靴を脱いだ富樫が歩いてくる。オフィスバッグを力なく放り投げ、ネクタイを緩めたところで、ようやく僕の姿が目に入ったようだ。


 初めは表情に変化はなかった。どこかここではない、夢の跡地を見ているかのような顔つきで僕を見ていた。三秒経った頃だろうか、明確な恐怖と焦燥が浮かび上がる。一歩、また一歩後ずさり、予兆無く背後へ振り返って駆け出した。部屋の外へ出て助けを呼ぶなり、警察に連絡するなりしようと考えたのだろう。僕は事前に予想していたので、玄関の扉が確実に開かないよう、彼が帰宅した瞬間に神力を込めておいた。ドンドンドン、と扉を叩く音が聞える。


「誰か——」


 その声が聞こえた瞬間、僕は富樫の喉を潰した。激痛に喉を押さえてのたうち回る。駄々をこねる小児のように框の上を転げるその体を念力で移動させ、リビングの掃き出し窓に叩きつける。そしてすぐさま、手足を神力で拘束し大の字の状態で固定する。彼の背後からは、夏の沈み切っていない陽光が照り付けていた。


 僕は一言、彼に言葉を掛ける。


「お前が犯した罪を覚えているか?」


 返答は期待していなかった。だが富樫は、石原よりも気概があったようだ。潰れた喉を酷使して、辛うじて聞きとれる言葉を吐き出した。


「——これ、が、む、くい、か——」


 その瞳には安堵の色が浮かんでいた。薄桃色だ。視覚的にそう見えたのではなくて、感覚的に薄桃色を想起させる情動だった。僕は何だか非常に興が削がれた気分に陥って、いっそ作業的に陰茎を切断した。苦悶の表情を浮かべ、声にならない叫びをあげる。そしてここからは、時間を無駄にできない。コイツが生きている内に、迅速に復讐を遂行しなければならない。立て続けに腹部を断裂しようとして——


「ねぇ、蒼ちゃん。一緒に切ってみない?」


 そんな無邪気な台詞が聞えた。それはもちろん、深音の言葉だ。


「いいけど……何を使う?」


 僕は既に正気ではなかった。いや、ある意味ではこの上なく正気だった。それは神力に当てられたとか、殺人に慣れてしまったとか、そういうわけではない。順当に、殺意に従うまま通常の感覚を放棄していた。だから彼女のその言葉もすんなりと思考に入ってくる。


 小考の間が空く。そして彼女は神力で作り出した刃物を使おう、と言った。それなら凶器を残さずに済むから、と。僕は躊躇うことなく賛成して、脳内で『切れ味の良いサバイバルナイフ』をイメージする。直後右手に重みを感じた。問題なく凶器を生成できたようだ。


 そこでふと、あることを思いついた。


「深音、このナイフ持てる?」


 本来であれば物を持つことができない彼女だが、神力で生成した現世の物ではないナイフであれば、彼女も触れることができるのではないか。


 果たしてその予想は的中していた。彼女に柄の部分を握らせると、すり抜けることなくその手に収まった。「すごい」と呟く声が聞こえた。そして僕は、とても常軌を逸した……それこそ生者も殺人という行為も冒涜するかのような、悪魔じみた発想を考えついた。彼女の手に収まっているサバイバルナイフが、より細身で刀身が伸びた形へと変化する。


「……ケーキナイフ?」


「うん。ケーキ入刀って感じにしようかと」


 思いのほか深音は喜んだ。本物のケーキではなく人体なのが残念だ。


「私ね、ホントは式場まで考えてたの」


 突然のカミングアウトに、僕は為す術なくたじろぐ。


「式場って……結婚式?」


「そう。……重いって思ったでしょ」


「いや、そんなことないって。僕も何度か想像したことあるよ。……でも、初耳だ」


「そりゃあ、言ってなかったし。……私だけ本気だったら恥ずかしいし」


「まさに杞憂ってやつだよ」


 そうだ。僕らは互いに将来を見据えていた。いつまでも一緒にいる未来を。

 人生レベルで……それこそ人格形成の段階から互いに関わっていたのだから、相手の悪いところはお見通しだ。その上で、将来ずっと一緒にいたいと考えていた。それは深音も同じようだった。喜びと同時に、訪れるはずだったその未来を奪われた怒りが、混在していた。


 なぜ僕は、後の人生に続いていたはずの幸福を奪われなければならなかったのだろう? なぜ僕は、深音を失わなければならなかったのだろう? その答えはどこにもない。……強いて言うならば、神のみぞ知るというやつだ。僕の身に降りかかった悲劇は、どこまでいっても完結的で出口がない。抗う術などない運命という荒波に飲み込まれ、いっそ予定調和的に彼女を失い、ただ眼前に広がる絶望を享受する他なかった。誰が書いたわけでも、誰が編纂したわけでもない、生まれ落ちた瞬間から決定されていたストーリーなのかもしれない。それでも、僕はその予定調和的な悲劇を恨んでいる。心の底から憎んでいる。だから、本来僕らが大学を卒業してから……あるいは在学中に挙げていたかもしれない、挙げるべきだった結婚式の、ケーキ入刀を真似て何が悪いのだろう。


 深音は嬉々としてケーキナイフを持ち、僕を待っていた。


 僕も彼女と同じくらい、あるいはそれ以上に浮かれた気持ちを隠さず、その手を握る。


 冷ややかな温度が、僕の体温と混ざり合う。それはまるで、積雪が春の陽気に溶けるかの如く、ごく自然なことのように思えた。


「せーのっ」


 愉快そうな深音の掛け声に合わせて、富樫の胸部へ縦に刀身を差し込む。鋭利な先端が肉へ食い込む感触がダイレクトに伝わる。差し込む時は思いのほか力を要さなかった。心臓部分に丁度切っ先が入り込んだようで、乱された血流は喉元から奔流した。ごぼっ、と音を立てて鮮血が溢れ、富樫の体がびくりと痙攣した。僕と深音は息を合わせて、ケーキナイフを縦に引く。手に伝わる感覚はとにかく重たい。まるで泥沼の中を進むような感じだ。それもそのはずで、僕らが今切っているのはウェディングケーキではなく、人体だ。脂肪と皮膚、そして内臓がある。相変わらず富樫の体は痙攣を繰り返していた。可愛らしい「んーっ!」という踏ん張る声に思わず笑顔が零れた。


 断裂が下腹部に到達するまで、三十秒以上掛かった。高々二十センチを裂くだけでも重労働だ。刀身に絡まる重さを振り切るように、少し勢いをつけてケーキナイフを引き抜く。石原のように腹部から内臓が零れることは無かった。


 ふと顔を上げると、富樫は絶命していた。死人を痛めつける趣味は無いけれど、彼女のための復讐であり、僕のための復讐でもあるから、手を抜くことは無い。この男も後に続く奴らと同様に首を捩じ切った。ジャムの瓶詰めが床に落ちたのかと錯覚するくらい、大きな音を立てて落下した。


 立て続けに、似たような音が響いた。僕と深音はその音源……掃き出し窓に視線を向ける。そこにはやはり、ヤノアタサマがいた。嘴でガラスを突いている。部屋に入れて欲しいのだろうか。


 掃き出し窓を開錠して招き入れる。ひょこひょこと近づいて、やはり右の眼球を抉っていた。開け放たれた掃き出し窓から、夏の透明な空気が入り込んでくる。室内に充満しつつあった濃密な死の匂いが、気配ごと流されていく。いつの間にかケーキナイフは消えていた。


「ねぇ、キスしようよ」


 その声に、その微笑に、僕はどうしようもなく胸を締め付けられた。


 僕らが初めてキスをした日も、夏だった。今日のように暑くて、『蛍の光』が過ぎ去った後で、学校からの帰り道にある川の畔で風を感じていた時。まだこんなことになるなんて予想すらしていなかった、ただ毎日に幸福が散らばっていた頃。


 ファーストキスはレモンの味、なんて言うけれど、僕らの場合は直前に飲んでいたメロンソーダの味だった。甘い唾液と香気にまぶされた唇、絡みつく視線に繋いだ手の感触……それらは未だ鮮明に思い出せる。


 ヤノアタサマが眼球を抉り取って飛び去って行く様子を傍目に、僕らはキスをした。


 殺人も、復讐も忘れて、軽く触れあうようなキスをした。


 柔らかな感触は本物だ。でも、メロンソーダの味はしなかった。




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