神の許しがあるならば
翌日、僕らはとある場所に向かっていた。市の外れにある小さな烏帽子山だ。
深音は歴史が得意だった。その中でも特に、大学の講義でも扱わないような地域伝承を好んでいた。デートの際に郷土資料館を訪れたり、地域の民間伝承を調べるために図書館へ連れていかれたり……そんな調子だった。そんな彼女が言うには、その烏帽子山の麓にあるあの祠であれば、土地神の力を借り受けられるかもしれない、とのこと。
僕らはその祠に、一度訪れている。十年ほど前だ。おそらく、あの時の出来事がきっかけで深音は、地域伝承を追究するようになったのだろう。
……嫌なほど晴れていた秋の日のこと。
彼女の親戚が烏帽子山の近くに住んでいて、その親戚がどうやら重篤だったらしい。詳しいことは知らないが、丁度僕と一緒に学校の校庭で遊んでいた際に彼女の母親に連絡が届き、見舞いに行くことになったのだが、
「そーたもきて」
そう言って引っ張られたので、なぜか僕も付いて行くことになった。
広々とした日本家屋の居間が襖で区切られており、その襖の向こう側には布団に横たわっている人物がいた。名前も顔も、今では思い出せない。ただ、虫の息だった。
子供ながら場の空気は察知できたので、縁側に一人で大人しく座っていた。手広な庭に植えられた黒松は湾曲していて、今にも倒れそうだったことを覚えている。……今思えば、重篤でありながら救急通報をしていないとなれば、末期癌の患者だったのかもしれない。
ともかく僕は、場違いな気がして縁側にいた。深音にとっても大切な人だろうから、命が危うい現状は傍にいてやるべきだろうと思い、静かに外を眺めていた。そんな中、鬱々とした静寂が突如破られた。
「おいのりしよう、おいのり!」
その声は僕のすぐ後ろから聞こえた。驚いて手に持っていた茶飲み茶碗を落としかけた。そんな僕のことなどお構いなしに、玄関へと引っ張られ、靴を履かされ、手を引かれてどこかへと向かって行った。
一分ほど小走りで移動し辿り着いたのは、朽ちて崩壊しそうな鳥居と祠だった。石段には苔が生えていて、誰かの設置した湯呑みは黒ずみ、罅割れていた。格子状の扉から覗いたところ厨子の状態も酷く、主のいない馬蹄形の蜘蛛の巣が張られていて、イオウイロハシリグモの亜成体が息をひそめていた。……つまり、自然と一体化しつつあった。目の前まで来てようやく僕の手を離した深音は、ぎゅっと目を瞑り、手を合わせて必死に祈っていた。
数十秒後、ばさり、と音がした。祠の屋根に一匹の烏が降り立つ。——三本足の烏が。
二人して驚愕し、何も身動きが取れずにいると、その烏はこちらを観察するように首を二、三度傾げてから飛び去った。梢から差し込む秋の陽に照らされた、ガラスのように滑らかな羽根を今でも覚えている。
その後、重篤だった親戚が突然目を覚まし、一時的な回復を見せた。心配し駆けつけていた親族と一通り話をすると、眠るように息を引き取った。祠への祈りといい、三本足の烏といい、何やら理外を超えた強大な力が作用しているように思えてならなかった。
「蒼ちゃん、ノート見せて?」
深音の声に、追懐から引き戻される。幽霊だからと言って宙に浮けるわけでもなく、脚が透けているわけでもない彼女は、繋いでいた手を離して僕のトートバックを指差した。ひんやりとした温度が残る。
……深音が地域伝承についてまとめた研究ノート。ピンク色のキャンパスノートの表紙には、綺麗な字で『伝承』とだけ書かれている。〝はらい〟が少し長く伸びる癖がしっかりと見て取れる。
僕が寝ている間に彼女が取りに行こうとしたけれど、どうやら現世の物には殆ど干渉できないらしく、香音に連絡して取りに行った。「ちゃんと返してくださいね」とだけ言って手渡してくれたが、何か言いたげな表情だった。それもそうだろう、いきなり行方不明の姉が使っていたノートを貸してくれというのだから。
「何ページ?」
ぱらぱらと捲っていると、「あ、今のところ」と耳元で聞えた。息が掛かることは無いが、その違和がまた一層、深音の死を突き付けてくる。沈みかけた気持ちを持ち上げてページを戻していくと、『烏の祠』とタイトルが付けられたところで「そこ!」と元気な声がした。蛍光ペンと共に整然と文字が並んでいるページだ。
「『近隣地域の土地神を祀っている祠とされている……明治初期には既に確認済み……漁港の安全と貿易の安定化を祈願したことが初めの可能性……ルーツは中国にあるとする説……三足烏の神使……一部では石神信仰の側面がある……』——うん、間違いないね」
指で文章をなぞりながら確認し、頷く。
「この辺だと〝ヤノアタサマ〟なんていう人もいるらしいよ」
ヤノアタサマ。
「八咫烏が元か」
「そうだろうね。八咫烏の『八咫』は凄く大きいって意味だけど、『やた』は『やあた』の音が変化したものだし……」
八咫烏——神、もしくは神使とされている。古事記や日本書紀にも登場しており、体は通常の烏と同様だが、足が三本あるとされていて、吉兆に関係しているとか、導きの神だとか、太陽の化身だとか言われている……あの時見た烏と同じだ。
深音が再び口を開く。
「中国にルーツがあるっていう説は、この地域のちょっとした昔話が関わってるみたい」
「昔話?」
「うん。……想い人に先立たれた男が、あの烏帽子山に向かって祈り続けていると、ある日突然三足烏の神が降り立ち、一日だけ亡くなった想い人と触れ合う機会を設けたの。二人は幸せな時間を過ごしたけれど、一日限りという時間は二人にとって短すぎた。別れ際、男が想い人から赤い果実がたくさん添えられた手紙を受け取るんだけど……この受け取った赤い果実と手紙が、『冥婚』を意味している、っていう説があってね——」
なるほど確かに、それらしい理由だった。冥婚とは中国を始めとしたアジア諸国で存在していた風習で、現在でもごく一部で受け継がれている、もはや生者に対しても死者に対しても冒涜的ともいえる、タブーとされたものだ。長々と続く説明を程よく聞き流しながら(長い付き合いだからそこら辺の加減も心得ている)小考した。
「石神信仰の側面がある、っていうのは?」
「うーん……。まぁ、『よくあること』って片付けちゃう方がいいかも。資料の古さで言えば八咫烏を祀っているとする説が一番有力だから、単に民間で作り上げた信仰対象と考えていいと思う。あの厨子の中に何かあるってわけでもないし……」
石神信仰——別名ミシャグジ。民間信仰で祀られる神のことだ。霊石と呼ばれる神聖な媒体が元となった地蔵や、石そのものを祀ったことが始まりだ。どのようなものを司るのか、どのような効果があるのかは、地方や民族的風習によって異なる。……平たく言ってしまえば、何でもアリの御神体だ。
——そんなことを話している間に目的地に着いた。寂れた田舎町の山、その片隅に鎮座するみすぼらしい祠。最後に見た時よりも劣化が進んでいるような気がする。鳥居の赤い塗装は見る影もなく、そこら辺の朽木と大差ない。
「さ、初めよ」
僕を先導するように、祠へと近づいていく。一足も二足も先を歩く彼女の足音は、どこにも響いていない。その光景は何というか……出来の悪い無声映画を見ているような気分にさせられる。
「それで? 何をするんだ?」
来たはいいものの、具体的に僕が何をするのか言われていなかった。まるでそれを今思い出したかのように、深音がとぼけた後に笑った。
「そういえば言ってなかったっけ。……伝説通りにするなら、祝詞を上げるの」
言うが早いか、居住まいを正し彼女は目を瞑った。そしてまるで、この時のために練習していたかのように淀みなく、祝詞を……正確には、天津祝詞の禊祓詞を奏上した。
「高天原に神留坐す——神漏岐神漏美の命以ちて——皇親神伊邪那岐の大神——」
刹那、空気が張り詰めた。
凛とした声音が紡ぐ、神への言葉。透き通る空気の振動が山全体に響き渡っているような錯覚の中、木々の梢が慌ただしく揺れ動く。まるで千々となっていた魂たちが祠へと集まっているかのような、そういう荘厳なイメージが脳裏に浮かび上がる。夏場とは思えないほどの冷気が肌を撫で、通過していく。
「筑紫の日向の橘の小門の——阿波岐原に禊祓ひ給ふ時に——生坐せる祓戸の大神等——」
羽音。
夥しい気配が立ち昇る。反射的に振り向くと、そこには梢の葉の隙間から、群れを成して飛び立つ大量の烏が見えた。カァ——カァ——と絶え間なく鳴き続けていて、その数は止まるところを知らず際限なく増え続けているように思えた。
「諸々の禍事罪穢を——祓ひ給へ清め給へと——申す事の由を——」
一際耳朶を打つ大きな羽音がした。
直後、どこからともなく一羽の烏が降り立った。光沢のあるその羽根を優雅にはためかせ、物怖じする様子は微塵もなく、あるべきものがあるべきところへ還るように、静かに祠の屋根へと降り立った。……やはり三本足の烏だ。集中しているのか、深音は目を開けることも、祝詞を中断することもない。三本足の内の一本には固結びが施された御籤紙が、嘴には赤いサンザシの実が掴まれている。
「天津神国津神八百万神等共に——天の斑馬の耳振立て聞食せと——」
ぽとりと、それらが祠の前へと落とされる。
「畏み畏みも白す——」
……奏上が終わると、先程までの張り詰めた空気は一転、現実世界へ突き戻されたかのような感覚的な落差が僕を襲う。まるで狐につままれていたようだ。ふぅ、と息を吐いた深音が、祠の前に降り立った三足烏と御籤紙、サンザシの実を見て大層驚愕した。
「え、本当に……」
そうして手を伸ばし、
触れた。
——現世の物に触れられないはずの、彼女が。
僕が困惑している間に、迷いなく準備を済ませていく深音。一つ一つの手順を確認するように、二礼二拍手をした後、解いた御籤紙——何も書いていなかった——にサンザシの実を挟み、合掌の形にした手のひらで磨り潰した。形容し難い独特な香りが、微かに鼻の奥を抜けていく。「よし」と呟いたかと思うと、バツが悪そうな顔で僕の方を向いた。
「蒼ちゃん、冥婚が何か知ってる?」
なるほど、と僕は思った。
「…………知ってるよ」
きっと、僕はこれから、深音の手にある赤く染みた御籤紙を受け取ることになるのだろう。冥婚の話で有名なのは、道端に落ちている赤い封筒を拾うことで、死者との婚約が成立してしまうというものだ。——つまり、僕はこれから、既に亡くなった彼女と、婚姻関係を結ぶことになる。そしてその行為は、僕が思っているよりも重大な意味を持っている。それは、僕が彼女からそれを受け取った時、彼岸へと渡ることを意味するのかもしれない。
「嫌ならやめてもいいの。私はもう死んでるし……蒼ちゃんにはこれからの人生もあるわけだし……」
それが口先だけの言葉だと、僕にはハッキリと分かる。
本当にそう思っているなら、どうしてそんな悲しげな顔で言うだろうか。
「深音」
僕は発散しきれていなかった思いの丈を、限界まで増幅させた。
どこまでも真っすぐで、偽りのない本当の気持ちを。
「僕は、深音のいない人生なんて、意味が無いんだ」
みっともないほど赤裸々に。
「深音がいなくなってから、堪らなく寂しかった。何度も何度も死んでしまいたいと思ったよ。伝えきれていないこの想いが、誰に届けることもできないまま消えていくことが、どうしようもなく怖かったんだ」
失うものは無い。
「だから——僕と結婚してほしい。深音は、僕の全てだから」
涙が見えた。けれど、その表情に悲しみはない。純粋な歓喜だけが浮かんでいる。微笑んだ彼女の唇は、「ふふ」と「へへ」の中間くらいの音で空気を振動させていた。
僕は本当に、この世界というものに意味を見出していなかった。一年前のあの日から、僕の世界から太陽は消えた。終わりの見えない暗闇が延々と続いていた。僕は現状を打破する手段を持ち得ていなかった。失踪した深音を探そうにも、物的証拠はおろか目撃情報すらなく、まさしく暗中模索の状態で日々を生きていた。一日、また一日と過ぎていく中で、僕はひたすらに世界を憎んだ。あるいは、どこまでも無力な僕自身を死ぬほど恨んだ。唐突で予兆無く、整然と全てを奪っていく運命を呪った。しかし、いくら僕が世界を憎んでも、自分を恨んでも、運命を呪っても、彼女は帰ってこなかった。
今はどうだろう。それがどれほど馬鹿げたことなのか承知しているが、真実は目の前にあるのだ。それ以上の何を望むというのだろう? そして、互いに矢印が向き合っているこの気持ちを、どうして無かったことにできるだろう? だから僕には初めから、迷いなんてものは無い。たとえそれが彼岸であっても、彼女の元に馳せ参じるまでだ。
「でもね、約束して?」
手中にある赤色の御籤紙を差し出しながら、僕の瞳を見て彼女は言う。
「全部終わったら、私がいいって言うまでは、ちゃんと生きて」
いかにも彼女が言いそうな言葉だった。
いつもそうだった。我が身よりも他人を優先する。自分の幸せよりも誰かの幸せを優先する。そんな姿が危なっかしくて、同じことを考えている僕が彼女を支えることに決めたし、必然性を以て惹かれていった。互いが互いの幸せを願う関係が築かれた。それはなによりも喜ばしく、儚く、甘い関係だ。
頷くことには少し、躊躇いがあった。深音を殺したクズ共を葬った後は、良い感じの場所で練炭を焚いて、僕が息絶えるその時まで彼女と和やかに話したいと考えていたから。
でも、それが彼女の望みであれば、僕はきっとやり遂げるだろう。
どれほど時間が掛かっても、彼女が「いいよ」というまで、生きるだろう。ただ一人の女の子を想って。
「分かったよ」
そう言い、受け取る。
——瞬間、冷や水を浴びせられたように、全身が委縮した。
空気以外の何かが……この世に属さない何かが、僕の全身を駆け巡った。それは感覚的に言えば、電流に近かった。捉えどころのない、静かな衝撃が血液中に混ざり込み、隅々まで僕を侵食していく。
「——っ」
思わず膝をつく。拍動に合わせて全身が痛みを主張する。しかしそれも一瞬のことで、それまでの痛みが嘘のように引いていった。代わりに、何か生暖かいものに包み込まれている感じがする。例えるならば、陽光で温められたタオルを羽織っているような。
「蒼ちゃん、大丈夫?」
あたふたとしている深音に笑顔を返す。
「あぁ、もう大丈夫」
この身に起きた変化を、ある種原初的な本能で察知した。それは神に対する畏怖だとか崇拝の記憶と言い換えてもいい。あるいは、ヤノアタサマから流し込こまれた神力の記録だろうか。ただそれを一言で言ってしまえば……『なんとなく』理解できた。
その『なんとなく』を確信に変えるため、僕は思考をクリアにし、克明なイメージを呼び起こす。
直後、視線の先にあった木の枝が、バチン、と音を立てて根元から捩じ切れる。隣から「わぁ」と子供っぽい興奮した声が聞こえた。
人間の腕力では到底不可能なことだ。チェーンソーでも持ち出さない限り、その枝を切ることはまず無理だ。僕の胴回りくらいの太さがある。これが神の力か。
僕は自然と口角が上がるのを感じた。
なるほど、これならば。
苦労せず皆殺しにできそうだ。
*
その日は一日、神力の制御と効果を調べた。
結論から言えば……全知全能と言っても差し支えない力だった。
僕や深音ができそうだと思ったことは何でもできた。そこから予想するに、イメージしたことを再現するのだろう。例えば川辺の大岩を動かすイメージをすれば、実際にその大岩は簡単に宙に浮き動かせたし、指から火を放出させるイメージをすれば、実際に火が出せた。ただ、細々としたことは不向きのようだ。イメージの持続とディテールの深さが必要になればなるほど、力は減衰していく。いかに手早く、簡潔にイメージするかが要ということだろう。
翌日は、復讐を始める前にやっておきたいことがあったので、その準備をすることにした。虫除けスプレーを購入し、適当に日焼け止めを塗り、動きやすいラフな格好に着替え、ついでにATMで二十万円ほど現金をおろした。おかげで貯金が三分の一になったが、また貯めればいいだけだ。
そして今、初めての試みをする。
僕の自室で向かい合っている深音が、やや緊張した硬い表情で僕を見ている。
「じゃあ」
「うん。おねがい」
ゆっくりと彼女の手を握る。僕は『魂が肉体に引き寄せられる』イメージをする。
……そう。やっておきたいこととは、深音の遺体を探すことだ。
上手くいくかは未知数だったが、昨日の実験で〝千里眼〟のような力が扱えたことからも、今回失敗する確率は低いだろう。
手を握り暫くすると、深音が「あっ」と声を漏らした。
「どうした?」
「呼ばれてる感じがする」
成功だ。
初めは方角だけだったが、途中でバスに乗って行くと次第にはっきりとシグナルを感じ取れるようになったらしく、停留所を十二、三カ所過ぎた辺りで降車ボタンを押した。車内で深音と話している際に視線を感じたことから予想はできていたが、どうやら彼女の姿は僕以外に見えていないようだ。一人分の運賃を払い降車する。
辿り着いたのは、県境にある山だ。標高は例の烏帽子山の二倍ほどある。名称を調べると筒ヶ原山というらしく、磁場の影響で山奥のとある一帯が樹海と同じ特性を持っているそうだ。登山道は整備されているものの、山頂からの眺めも良くない上に、切り立つ壁面から落石が度々あるので、登山客もおらず地元民もあまり近づかないのだとか。
「この山だ」
深音は憑りつかれた様に歩き出した。一歩一歩に迷いがない。
鬱蒼とした山道を進む。木の根がせり出している場所もあれば、獣道と大差ない場所もあった。徐々に登山道から離れていく。入口付近は申し訳程度の舗装があって、均された地面が続いていたものの、今はとてもじゃないが人が歩くような道ではない。少なくとも直近で誰かが来ていた痕跡はない。総じて危険な登山だ。運動用のシューズを履いてきて良かったと思った。
そうして十五分ほど経った頃、不自然に開けた空間が目に留まった。
乱暴に切り開かれたのか、地面から生えている細い木が鉈か何かで切断されていた。何も言わず深音がその空間へと足を踏み入れていく。後に続いた僕は、残留していた生臭さに顔を顰めた。
「ここ」
明らかに不自然な傾斜と、人為的に被せられた大量の落ち葉。
息を呑んだ。
堆積した落ち葉を退ける。
白。
「……………………」
埋めるというよりも、土を被せて盛土にしたからだろう。腐敗臭が空気中に漏れ出て腐肉食動物を引き寄せ、掘り返して食い荒らされた痕跡がある。傾斜の奥まった方、本来の地表から一メートルほどの深さに埋まっていた右腕は、未だ腐敗した肉がこびり付いている。よく見ると、退かした落ち葉の中に夥しい量の頭髪が混ざっていた。
心臓が痛い。脳味噌が機能していない。手も足も、首元も震えている。
「う……おぇ……ぅ……ぁ……っ」
胃からせり上がってくるものを感じ、反射的に体が動いて五、六歩左へと進み、地面に手をついて嘔吐した。過呼吸になりそうなほど酸素を吸い込み、荒く呼吸をする。何度も何度も吐き出して、胃の中は空っぽになった。涙も洟も止まらなかった。嗚咽と嘔吐を繰り返すしかない惨めな僕の背中を、彼女はその冷たく優しい手で、何も言わずに落ち着くまで撫でてくれた。
花を添えた。
ありきたりな仏花と、深音が好きなラベンダー。いつでも眺めていたいからという理由でドライフラワーにしていた。リュックサックから取り出すだけでも、少し毀れてしまった。合掌をしていると、嬉しそうな声が聞えた。
「覚えててくれたんだ」
優しい笑顔が向けられる。
「当たり前だろ。忘れられるわけがない」
深音は花が好きだった。小学校の頃からだ。小遣いが貯まると僕を連れて、学校近くの花屋に行っていた。もちろん花を買う金がなくても、頻繁に立ち寄って入り浸っていた。彼女の家の小さな庭には、いつも何かしらの花が植えられていた。そんな彼女が一番気に入っていた花がラベンダーだ。目を奪われるような可憐な紫色は、彼女の印象に合っていた。
僕はそっと、深音の頭蓋骨に触れる。『記憶を読み取る』イメージをする。
すると、情報の奔流が脳内に流れ込んできた。断片的なそれらは圧倒的な速度と量で以て意識に干渉してくる。気を抜くと気絶してしまいそうだ。その中で、必要な情報を——深音を殺した人間の顔や体型、服装に言動などを掬い上げる。
……一人目は、中肉中背で印象の薄い男。
……二人目は、禿頭で筋肉質な高身長の男。
……三人目は、痩身で作業着を着た男。
……四人目は、刈上げでサングラスを掛けたスーツの男。
……そして五人目は、金髪に染めた釣り目の高校生。
「分かった?」
「ああ、全員の顔が見えた。後は千里眼で観察して情報を集めよう」
準備は整った。
後はもう、殺すだけだ。
一人ずつ、
一人残らず、
一人一人惨たらしく、殺す。