肉屋の娘
あれは僕が高校に入ったばかりの頃、4月半ばの出来事だった。
確か視聴覚室だったと思う。いつもと違う教室へ行く用事が出来て、それは2階にあるはずの部屋だった。でもまだ慣れていないせいで、間違えて3階まで上がってしまう。
「あれ? おかしいな……」
きょろきょろと目的の部屋を探しながら、3階の廊下を進む。
すると、向こうから歩いてくる女子生徒が一人、ふと視界に入った。
「……!」
びっくりした。
思わず足が止まってしまったほどだ。
それほど凄い身長だったのだ。
他にも廊下を通っていた生徒はいるのだが、彼らと比べても頭ひとつどころか、頭ふたつくらい違う。
おそらく2メートルは超えているだろう。ほとんど天井すれすれだった。
だけど、そんな反応を示すのは僕一人だけ。他の生徒たちは、ごく平然と歩いていた。
彼女の存在は前々から、当たり前のものとして受け入れられているようだ。新入生ならばまだホットな話題になる時期だから在校生、つまり僕から見れば先輩に相当するのだろう。
そんなことを考えているうちに、ちょうど彼女とすれ違う。
その際、小さな呟きが、僕の耳に入ってきた。
「羨ましいわ。そんなに背が低いなんて」
――――――――――――
通り過ぎた彼女の方へと振り返る。
相手は先輩だろうと思っていたにもかかわらず、つい怒りの言葉が口から出てしまう。
「冗談じゃないよ、羨ましいなんて。そのせいで昔からチビ、チビって馬鹿にされてるのに……!」
僕は小学生の頃から、いつも背の順は一番前。
成長期になればその分ぐんと伸びると期待していたけれど、高校生になってもまだ143センチ。小学校の高学年レベルの身長だった。
内心では怒っていても、表に出すのは抑えていたのだろう。
僕の叫びは、それほど大声ではなかったらしく、廊下を歩く他の生徒たちの注意を引くほどではなかった。
しかし当の相手には聞こえていたようで、高身長の彼女は立ち止まり、こちらへ向き直る。
改めて正面から向き合ってみると、長い黒髪で細面の顔立ち。すっと鼻筋も通っているし、なかなか素敵なお姉さんという感じだった。
そんな彼女が、目に憐憫の光を浮かべて呟く。
「そう……。あなたも私と同じなのね……」
何が同じというのだろう?
彼女は高身長、逆に僕は低身長だというのに……。
戸惑う僕に対して、改めて彼女は告げた。
「どんどん肉を食べなさい。そうすれば背が高くなるわ」
牛乳を飲めば背を伸びる。
それならばよく聞く話だし、僕も実際、昔から頑張ってたくさん牛乳を飲むようにしてきた。効果はなかったけれど。
しかし「肉を食べれば背が伸びる」なんて初耳だ。いったい彼女は何を言い出したのか……。
軽く混乱する僕の前で、彼女は優しそうに微笑む。
それが、彼女の姿を見た最後だった。
そのまま彼女は、まるで煙か霞みたいに、すうっと消えてしまったのだ。
「……!」
再び驚いて絶句する僕だが……。
周りの生徒たちは無反応で、平然と歩いている。どうやら最初から、彼女は僕にしか見えていなかったようだ。
――――――――――――
あとで知ったのだが、この高校では数年前、自殺した生徒がいたらしい。
駅前にあるお肉屋さんの一人娘で、自殺の動機は失恋。
好きな男の子に告白した結果、
「俺より背が高い女は、ちょっと……」
と言われて、高身長を理由にフラれたのだという。
ただし背が高いといっても、さすがに2メートルまではいかず、180センチか190センチくらい。常識的な程度の「高身長」だった。
ならば、僕が見かけたあの姿は何だったのか。亡くなった彼女のコンプレックスが肥大化して、実際よりも極端に具現化したのだろうか。
いずれにせよ、身長がコンプレックスだったのであれば、方向性こそ逆だが確かに僕と同じ。彼女の「あなたも私と同じ」という言葉も、理解できるのだった。
「きっと彼女は、自分ちの肉を食べ過ぎて、それで背が高くなり過ぎたと思ったんだろうなあ……」
去り際の「どんどん肉を食べなさい」発言。
せっかくのアドバイスだが、高校生の僕には、毎日の食事の献立を決める権限もないし、頻繁に肉を買い食いするほどの経済力もない。
だから……。
僕は駅前のお肉屋さんの前を通るたびに、せめてコロッケを買って食べることにしている。身長を伸ばす云々とは無関係に、ただ彼女のことを偲びながら。
(「肉屋の娘」完)




