神社の写──/4:青い鳥居をくぐったら 神隠し
「神隠しというものがあるけれどね、あれは本当に神様が人を攫っているのかな?」
知るかよ。飛び出しかけた言葉を飲み込んで、さあ、と首を傾げてやる。
やれやれと漏らしながら肩をすくめるのは新聞部の女生徒。まるで余裕のある年上のような振る舞いだ。俺よりも年下のくせに。まだ入学したばかりの一年のくせに。
ああ、どうしたってこんな面倒なことになったのか。ため息をこぼしたくともこぼせない。身から出た錆というやつなのだろうから。
それでも堪えきれなかった息がわずかに口からこぼれる。向けられる視線を恐れて、ぐるりと境内を見渡した。目の前には古びた拝殿と賽銭箱。入る時にくぐった鳥居は以前来た時と変わらず真っ青に塗られている。その向こうに見える道路を、一台の車が通り過ぎていった。
「神様にとって、人間はそこまで重要視されるような存在なのか。人間を攫って何をするのか。考えてみたことはないかい」
顔を戻せば、黒い瞳はじっと拝殿に向けられていた。地味なくせに目立つ顔立ちをしたこの女は、いつだってこの世界から浮いている。どこか大袈裟な表情の変え方も、演技がかった喋り方も。でも、今ではそれがなければ逆に落ち着かない。最初こそ鼻についたが、もうすっかりそんな彼女に慣れてしまったからだろう。
どこからどう見てもただの人間でしかない女生徒は、今日もどこかわざとらしい。
「ま、実際に攫われてみない限りわからないことだろうけどね」
それはそうですねぇと頷いたが、攫われてみたい、などと言い出す馬鹿はそうそう居ないだろう。俺だってそんなことはお断りだ。恐らくは、目の前の彼女とてそんな状況になれば一目散に逃げ出すに決まっている。
ついと唐突に瞳を向けられて、慌てて顔を逸らす。心の内を見透かされたような気がしてしまって、カメラを無意味に弄る。
彼女の興味はそんな俺ではなくて。
「どうあれ、この神社では神隠しと呼ばれる事象がたびたび起きている。それで間違いないね?」
今回も、奇妙な噂話に向けられていた。
──青鳥居の神社の神隠し。
なんでも、知らぬ間にこの神社に迷い込んでしまう人間が近頃増えているそう。何だってこんなところに? と思って帰ろうとするのだが、鳥居をくぐったその先はまた神社の中。何度も何度も繰り返すうち、周囲の景色はどんどんとおかしくなっていく。草や空はこの世のものとは思えぬ色へ、地面はところどころが欠けていく、青く塗られていたはずの鳥居は朽ちた木に──。
どうしたものかと困ったところで助けは来ず、電波も通じず。仕方がない、神社の中に入るしかないか。そう考えて拝殿の戸を開けてみれば、中からはいくつもの青白い手が伸びてきて、迷い込んだ人間を引き摺り込む……らしい。
「いやあ、改めて聞いてみても恐ろしい話だ」
ぶるぶると震えてみせる一年生は、多分、少しも怖くないのだろう。その震えはすぐにでも止めてしまえそうだった。
そんな彼女を無視して、さて、と拝殿に目を向ける。
今日の目的はその調査と、以前に無許可で写真を撮ってしまったことの謝罪だ。調査はともかくとして、謝罪の方はきちんとしておかなければまずい。写真が撮れない、なんて実害が出ているのだから。
「ところで、この神隠しから無事に帰還した人間はどのくらいいるのかな」
全員ですよ、と言葉を返せば、おや、と細長の瞳がわずかに見開かれる。
「どうしてそう言えるのかな。……なるほど、この周辺で行方不明になった人間のほとんどはこの神社の前で見つかっているから、か。ほとんどということは、稀にだけれど見つからないままの人もいるわけだね。ふぅん、そりゃあ何が違ったのかねぇ。いやいや、無事に帰ってこられた人と帰れなかった人の違いだよ。君、どう思う?」
どうもこうもない。行方不明者の全員が神隠しの被害者というわけでもないだろう。人間が人間を攫うことだってあるし、自発的にこの世界から姿を消す人だっているのだから。
だが女生徒は神隠しにしか興味がないらしい。そもそも、と愉しげに歪んだ唇は俺の真っ当な意見など無視して言葉を紡いでいく。
「どうして彼らは神隠しに遭ったのか。まずはそこから考えるべきだと僕は思うね。この神社を訪れた人間は必ず神隠しに遭う……もしそれが本当なら、その噂話はもっと広がっているべきだ。だけど、噂は狭い範囲でしか知られていない。実際、うちの学生でも知らない人の方が多そうだった。君たちも、一体どこから情報を仕入れてきたのやら」
……そういえば、そうだ。
部長から話を聞いたような気もするけれど、でも、その記憶もどこかあやふや。あれは一ヶ月ほど前のはず。それは確かなのだが、俺は本当に、部長から聞いたのか……そこまで考えて、背筋を誰かに掴まれたような心地に襲われる。身震いしてみても、その違和感は振り払えなかった。
「ところで、だけどね。今日の天気は快晴。この時間であればまだ青空が広がっているのが普通だ」
好き勝手話題を変えるその女を睨みつけてやるが、彼女は俺に目を向けない。カラスに似た色をした目は周囲の景色をキョロキョロと見渡している。
今度は何が言いたんだと、彼女に倣って辺りを、見、て──見て、地面が、傾いた気がした。
「ね、君には今、空がどんな風に見えているのかな」
喋りたいのに声が出ない。全身にきちんと行き渡っていたはずの血液が心臓へと逆戻りしていくような感覚に襲われる。傾いた地面では立っていられず、崩れ落ちた身体で必死に土を掴む。
くつくつ、と、喉を鳴らす音が、空気を震わせた。
「はは、急に顔から血の気が引いたぜ。なるほどね、うん。僕にはちゃんと青空が見えているわけだけど、君には一体何が見えているのかな。…………虹色? そりゃあたまげた! オーロラでもかかっているのかな? ま、ここは北国じゃないけれど」
動けなくなった俺を置いて、女生徒はくるりとその体を方向転換させてしまう。虹色がぐるぐると渦巻く空の下、数歩離れたところで、ちらとその顔がこちらに向けられた。
「さて、このまま君を置いて帰れば、君は拝殿に潜む何かに捕まってしまうことだろう。さっきの話通りに、ね。死ぬことはないと思うけれど……まあ、うん、この様子なら生命力を奪われるだけで済みそうかなぁ」
──ここに居るのは神様なんだろう。神様が、人間から生命力を奪うのか。奪ってどうするんだよ、それ。
ガチガチとぶつかる歯の隙間からこぼれた声は頼りなく、それでも彼女は俺の言葉を聞き取ってくれたらしい。だが、浮かべやがるのは相変わらずの薄っぺらい笑み。
この女に、慈悲や優しさはないのか。
「おいおい、君も男だろう。そう怯えなさんなや。それともう一つ。この前写真を見た時もそうだったけどね、僕はこの神社にいるのが神様だ、なんて一言も言ってないぜ?」
慈悲も優しさも、情も、この女にはないようだった。
それでも助けてくれと手を伸ばしてみるが、女生徒は俺の手を取らない。目を向けることさえしてくれない。
なら、ここに居るのは何なんだ?
神様じゃないなら、何だって言うんだよ。
「そりゃあ君、こういうのは大抵悪霊の類に決まっているだろう。なぜそれが祀られているのか、って? 悪霊を鎮めるために神様扱いするなんざ、珍しい話じゃない。この神社もそういうものだった、ってだけさ。神様扱いされすぎたせいかな、参拝者が減ったことにかなりの不満を抱いているらしい。人々の祈りは神様にとっては大事なエネルギーなんだ。それを貰うため、いや、生命力がその代わりになると思ってしまったんだね。時折人々を迷い込ませては、ごく少量、彼らの生命力を奪ってきたんだろう」
というわけで、と、にこりと笑う彼女が化け物に思えてきた。だってそこには、哀れみさえもないのだから。
ああ、なんだってこんな奴と関わってしまったんだろう。この女が入学してこなければ、俺たちのスクールライフはきっと、もっと平穏で、楽しくて──。
「おとなしく生命力を差し出せば、君は無事に帰ることができるはずだよ。ささ、早く拝殿に向かいなよ。なに、痛い目に遭うことはない。ちょっとばかり、気持ち良すぎるかもだけど……それはまあ、高校生なんだし? まだ十八にはなっていないかもだけど、そのくらいの知識はあるだろう? あ、もしかして初体験? そりゃあいい。大人になっておいで」
……まあ、悪霊とまぐわうなんて誰だって初体験だろうけど。
ぽそりと呟かれた声は独り言のように彼女の口からこぼされたけど、確実に俺に聞かせるためだけに紡がれた言葉であった。
「そら、覚悟を決めることだね。大人しく差し出せば帰れるんだからさ」
じゃ、なんて片手をあげた彼女を慌てて引き留める。気になることはまだ残っていた。
「え? ああ、帰れなかった人たちのこと? 簡単だよ。彼らは何も差し出さなかった。いや、そもそも拝殿の扉を開けることすらしなかったのかもね」
それだけだよ、と。本当に何でもないことを口にするみたいに言って、鳥居の外に向かうと思われた彼女が俺の元へと歩み寄ってきた。
「さあ、行った行った。僕は先にここを出るから。なんで、って、いや、出られるのにぐずぐずしておく必要もないだろ……っと、そうだ」
俺の背をぐいぐいと押していた手が離れていく。女生徒は拝殿の前へと行くと、ポケットから取り出した何かを賽銭箱へと放り投げた。
ぱんぱん、と手を叩く音が静かすぎる境内に響く。小さな声で言葉が紡がれていたけれど、その内容を俺は少しも聞き取れなかった。
もしかして、と。
思わず漏れた声に彼女が振り返る。ふ、と口元を緩めて。
「あ、わかっちゃった? そうそう。君が最初に来た時にお賽銭を入れず、拝むこともしなかったのが、今回こうして攫われる原因になったんだよ」
からからと場違いに明るく笑って、彼女は歩き出す。俺を置いて、鳥居の方へと。
「じゃ、僕は神社の入り口で待ってるからさ。覚悟を決めて拝殿の戸を開くことだね……あ、そうだ」
とん、と。軽い足取りで振り向いた彼女は。
「君に余裕があったらでいいんだけどね、そのカメラで神様との特別なひとときを記録してくれてもいいんだぜ?」
やっぱり、悪魔だった。
「もちろん、それとは別にお代もいただくけどね。他の全ては忘れても、それだけは忘れないでおくれよ」
あでゅー! なんて軽い挨拶と共にウィンクを決めて、その背は青い鳥居の外へと消えて行った。
彼女の姿が見えぬ外の景色を、車が一台通り過ぎていく。この神社に来たばかりの時にも通り過ぎて行ったはずの車が、空を浮かんで通り過ぎていった。